文献名1出廬
文献名2〔二〕心の岩戸開きよみ(新仮名遣い)
文献名3(十七)よみ(新仮名遣い)
著者浅野和三郎
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データ最終更新日2025-01-24 22:22:00
ページ118
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それから出口先生は、尚両三日横須賀に滞在せられ、毎日座談と鎮魂とに多忙な日を送られた。詳しく記せばまだ書くべきことがないでもないが、さして霊的問題に深き関係のない事は成るべく省いて話をすすめる事にする。ただ二三掻いつまんで、書いて置かねばならぬ事があるやうだ。
自分は格別美食家といふのでは決してない。酒量はせいぜい一合二三勺であるが、壷中の趣味は解する方なので、肴も又之に準じて少しく文句を並べる位のものである。ところが出口先生が自宅に滞在さるること三四日にして、自宅の食物が、不言の裡に一変させられて了つた。最初は従来の通りお膳の上に数品づつの手料理が並べられてあつたが、先生はきまつて其中の一品か二品かに箸をつけられるに過ぎない。それも主に野菜か漬物ばかりに限る。酒は申訳に猪口を取られる迄で、半杯も呑まれた例がない。最初は格別の注意も惹かなかつたが、それあ三度、五度と重なるにつれて、自分も何んだか肴をムシヤムシヤ頬張つて、酒をチビチビ飲んで居る訳には行かなくなつた。ツイさつさと一緒に飯を食つて了ふ。お膳の上の肴の売口が悪いので、妻の方でも一品減らし、二品減らし、たうとう数日後には、お椀と皿が並ぶ位の、極めて簡単なものになつて了つた、所謂大本式食物といふのが即ちこれで、一汁一菜がその原則なのである。成る程やつて見ればこの方が健康にもよし、経済でもあり、手数もかからない。生活費などは格別問題にならなくなつて了ふ。贅沢したいから増給運動が起り、生活難が叫ばるるので、大本式の質素倹約粗衣粗食の前にはそんな事は全く消滅する。食物の事については後に又書くべきことがある。爰にはただ自分一家の食物の大本化しかけたのは、この僅々数日の出口先生の滞在の賜であつたことを記して置く。
先生の滞在中、何日目の事であつたか、晩餐の後で大変座談に花が咲いたことがあつた。話の中心は無論出口先生で、郷里の穴太に於ける青年時代の懐旧談をされたのであつた。こんな時の先生は、すつかり昔の気分に戻つて了つて、くだけた、陽気な、呑気な調子で、立替も立直しも忘れたやうに喋られる。皇道大本の教主輔ではなく、すつかり元の『喜楽はん』になられて了ふ。妖怪談やら、、幽霊談、牛乳搾取の苦心談、いろいろ出たが、最も可笑かつたのは其道楽談であつた。村の若い衆と一緒に夜遊びの味を覚え、若い女子の香が鼻につき出したのは、何んでも先生の十八か九位の事であつたらしい。『終日野に出て労働すると身体が綿のやうにクタクタになる。一風呂浴びて晩飯の膳に向ふ迄、丸で動く元気もない。所が、晩飯を終つて、八時九時となると勇気が出て来て、縦令雪が降つて居ても平気で飛び出すから妙なものどす』とは先生の述懐である。
其時先生が、独りの思ひつめた若い女子に言ひ寄ららとして、中々言ひ寄る勇気が出ず、幾度も幾度も失敗した物語などは、実に可笑かつた。その晩の先生の手つき、身振り、口真似、今でもありありと私の想像に浮んで来る。妻などは何遍腹をかかへて笑ひこけたか知れぬ。
『先生も随分御道楽者でゐらしつたのですネ』
先生の話も無論面白かつたには相違ないが、しかし、皇道大本の教主輔先生が、別に気取りもせず、初めて訪問した家で、其前半生の女道楽談を、自分の口からさらけ出して、一向お構ひなしであつたといふ点が、特に興味を添へたものらしかつた。此点が出口先生の偉大なる人格の一端の発露で、心ある人々を感心せしめる点であると同時に、偽善を以て人生の秘訣と心得、仮面を以て日常の必須条件と心得て居る人々から、誹られ、笑はれ、嘲らるる所以も亦実にこのムキ出し、お構ひなしの点に存する。先生は常に誰人にも言はれる。
『私の若い時分はまるで無茶や。女子の尻ばかり追うて居た。私などは全く神さんに救はれたに過ぎない』
が、あの晩、喋り終つた時には、さすがの先生も一寸『失策うた』と思はれださうだ。『初めて泊つた家で、些と調子に乗り過ぎはせんかつたかしら。こんな莫迦話しをして、若しや浅野はんに愛想をつかされはしよまいか……』
で、座を立つてから先生は、心の中で神様にお詫をされたさうである。すると神さんは、忽ち先生にお憑りになつて、『今夜は神がわざと汝に喋らせてやつたのであるから心配せんと置け。あれで愛想をつかす浅野なら役に立たぬ』と仰せられてお笑ひであつたさうだ。『それをきいて漸くホツと安堵しました』──これは約一年も過ぎてから、先生が初めて自白された所である。神さまのお試しか、歩生のお試しか自分には判らぬ。ただ人間は、年中神から試練ばかりされて居るのだと思へば可い様である。大本の神さまは特別に試すのがお好きのやうだ。蚯蚓のノタくつたやうな字を書かせて、それがお筆先だと言はるる神様だ。文法の間違ひやら、仮名遣ひの誤謬やらを拾つた日には、一頁の中に幾箇あるか知れぬ。予言でも警告でも教訓でもオイソレとは判らなくしてある。余程気をつけぬと見当がつかぬ。此等の瑕瑾ばかりが眼について、其中に裹める珠玉に気のつかぬ人間は、詰まり神様の試しに逢つて落第したのだ。読まずに悪口を並べる人に至つては、試す価値さへないと神様からの見切りのシロモノではあるまいか。
五月の初旬に先生は村野さんを連れて西にかへられて了つた。自分は停車場に見送つた時何となく寂しく感じたが、しかし夢にも、自分の審神者としての猛烈なる修業、惨澹たる苦心がこれから始まるのであるとはまだ気がつかなかつた。