文献名1出廬
文献名2〔五〕引越準備よみ(新仮名遣い)
文献名3(九)よみ(新仮名遣い)
著者浅野和三郎
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データ最終更新日2025-01-24 22:22:00
ページ270
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いよいよ十一月も終りに近づいて、自分が現職と離るべき時期が目前に迫つて来た。自分などの教師生活は、現界とは比較的縁が薄いので格別面倒な関係や係累はないが、それでも十有七年も住んだ古巣を形付けるのであるから、少しは整理処分すべきものがないでもない。山積せる書籍やガラクタ類、住宅、地所、保険類、皆何とかせねばならぬ。綾部に引越すには綺麗さつぱり、さばさばした気分で行きたいと思ふが、面倒臭いのでツイその時まで放棄してあつた。
すると十一月の二十八日に、思ひもよらす出口先生が、例の村野瀧州さんを帯同して自分の所へお出でになつた。
『浅野はんを迎へに来ました』
自分はその余りに唐突なのに聊か驚いた。十二月一日に自由の身体となるから、何れその上で一切の整理をしよう位にしか思つて居なかつた。それにもう綾部からのお迎へ……。
『何日に引越しませう。まだ何も形付て居ませんがネ……』
『ナニ別条ありません。神さんが善いようにしておくれなはる。十二月の十日出発と決めまほか』と出口先生一向済ましたもの。
『承知しました。十日迄に残らず形付けて了ひませう』
それから急に万事の整理処分が開始された。運送屋が来て夜具、蒲団、書物、家具、其他一切の荷造りが始まる。住んで居る家屋がさる希望者の手に買ひ取られる、鎌倉の滑川の上流に少許の地所を有て居たのが、夫も不思議に数日中に売れて了つた。ガラクタ類の大部分は、懇意な人又は元使用して居た女中どもに分配したので、これも訳なく埒が明いた。
さうする中十二月一日付を以て退職の辞令が届いた。予定の行動ではあるが、これでいよいよ安心だと思へた。それから懇意な人を歴訪して一応退官及移住の挨拶をしてまはる。東京其他に在住の新戚を鎌倉に招いて離宴を催す。義理で十年余もかけて居た保険類を解約する、少許ばかり有つて居た債券類を売り払ふ。十二月の八日頃には、一切万事が悉く形付いて了つて、身体さへ綾部に持つて行けば、モウそれで可いといふ所迄進んだ。始める迄に臆刧で仕方がなかつたが、案ずるよりは生むが易く、思ひの外に手ツ取早く済んで終つた。
荷物や何かは斯く易々と処分がついたが、ただ一つ困つた事が起つた。それは三男の三郎が五日頃から急に発熱したことであつた。体温器を当て見ると三十九度もある。但し熱が高いのみで身体の何所にも些しも異状がない。頭痛もせねば、気分も悪くない、腹具合もよい。
『近い中に引越しだといふのに困つたものだ。神さんにお願ひして見よう』
一心に鎮魂して祈願をしたが、熱は些しも下らない。昼も夜も依然として三十九度ばかりの体温を持続する。
近来は自分も聊か鎮魂の自信が出来て、これで癒らぬ筈がないと思ふのであつたが、事実癒らぬのだから如何ともする事が出来なかつた。たうとう翌日は我を折つて医者に見せた。医者は軽い感冒だといふ診断で解熱剤を呉れた。しかしいくらその薬を飲ませても、依然として熱は一分も下らなかつた。
此状態が幾日も引続いて、たうとう九日の晩となつて了つた。明日はいよいよ出発といふ予定なのだが、事によると繰延べる必要があるかも知れぬと、一同当惑の眉をひそめて居る所へ、此一週間ばかり東京方面に出張中であつた村野さんが、ひよつくり戻つて来た。
この話をすると、村野さんが一遍鎮魂してくれるといふ事になつた。例によつて神歌を唱へて、熱心に祈願を籠めて居たが、十分間ばかりで鎮魂は済んだ。
妻はその終るを待つて、
『いかがで厶いませう、癒りませうか』
『この熱は病気から出た熱ではありませんナ』と村野さんはきつぱりと答へた。『只今大神様に伺つて見ましたところ、産土の神さんのお警告である事が判りました。今回浅野氏が大神様のお召しに預かり、綾部に引移られるといふのには、当所の産神さんが、夫につけて大変なお活動であつた。然るに浅野氏は在来の癖で、現界の事にはよく気がつくが、幽界の事は兎角怠り勝ちになる。現に今回引越しについて、役場の手続きはしたが、神界の役場たる産神さんには一遍も参拝せぬ。これはいやしくも、神に仕へる身としては許し難い事である。乃で警告の為めに子供に熱を出した、今晩は遅いから、参拝は明朝で差支ないが、事情が判つた上は、熱は即時に下げてつかはすとの仰せです。皆浅野さんの修業の為にされたのですナ。大方熱はモウ下つて居ませう。』
驚いて早速体温器を当てて見た。すると意外々々! 三郎の体温は三十六度六分しかなかつた。