文献名1出廬
文献名2〔五〕引越準備よみ(新仮名遣い)
文献名3(十一)よみ(新仮名遣い)
著者浅野和三郎
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日2025-01-24 14:42:00
ページ278
目次メモ
OBC B142400c76
本文のヒット件数全 0 件
本文の文字数1941
その他の情報は霊界物語ネットの「インフォメーション」欄を見て下さい
霊界物語ネット
本文
いよいよ綾部に向つて出発の十二月十日が来た。
朝早くから人夫が来て、残りの荷物は全部運び出されて了ひ、家の内がガランとした。これで此家にもお別れかと思へば、多少感傷的な気分にもなる。朝来天気はドンヨリと曇つて居たが、やがてポツリポツリ降り出した。
『今日は空模様までが泣き出しさうです。本当にお名残惜う厶います。モウ妾達はこれでお目にかかれぬかも知れません……』
前年自家で使つて居たよしなどは、今朝も手伝ひに来て居たが、斯んな事を言つては頻に涙ぐむ。その外平生出入して居た女どもが来て、感傷的気分をさしてる。何しろ自分が官職を棄てて神の道に入り、丹波の山の中へ引ツ込むといふのを、浮世を離れて世捨人になる位に早合点して居るので、単なる辞職とか、転居とかに対するのとは聊か趣を異にした。自分も妻も、言葉を尽して、自分達の丹波行きは決して其んなものではない。浮世を棄てるどころか、却てこれから真剣に浮世の為めに働くのだと、幾ら言ひきかせても、中々腑に落ちる模様が見えなかつた。
モウ産土神社には朝早く家族を携へて参拝を済まし、衷心からお礼を申上げてある。いよいよ十有余年住み慣た三浦半島には、思ひ残すところが無くなつた。グルリ邸内を一周して、正午頃汐留の三浦屋旅館に引上げた。
出口先生は数日前から此方へ引ツ越して貰つてある。先生は自分を迎へて、
『いかがです、荷物は片付きましたか』
『お蔭さまで全部済みました。モウこれで汽車に乗りさへすればよいのです』
『まアよかつた、浅野さんを汽車に乗せて了へば安心なものや』と言つて笑はれる。
『大丈夫です。明日からは綾部の住人ですから……』
昼は横須賀の大本信者が十数人集まりて、三浦屋の三階で自分の為めに送別の宴を催してくれた。
『横須賀の大本の元祖に行かれて了つて、何だか居残り連は心細くて仕方がない』などと口々に言つて呉れる。雨は本降りとなつて、眼下に横はる軍港内も、今日はぼんやり夢か幻のやう。ただ小蒸汽のサイレンが、時々細く鋭く鳴りひびくばかり、何んとなく一座の談話も沈み勝ちであつた。
発車時刻が近づくにつれて、別れを惜む人々が、かはるがはる階下に訪ねて呉れる。空模様と同じく甚だ湿ツぽい場面がつづいて困つた。
一同車を連らねて三浦屋を出掛けたのは午後四時頃であつたらう。かくて見送りの人々に取巻かれて、いよいよプラツトフオームに立つた時は、一種の感がむらむらと催してならなかつた。この十七年間横須賀在住の間に、自分は何回転任の人々を見送るべくこの停車場に来たか知れぬ。自分の境遇は何時まで立つても動かぬのに、自分の交はる海軍士官は動く動く、大概一年か二年位でズンズン転任して了ふ。
『自分は永久に他を見送る丈の役目かしら……』とさへ思はれる程であつた。ところが大正五年に入りて、自分の身にも心にも急転直下的に大変動が起り、かくて今日は他から見送られてプラツトフオームに立つ身の上となつた。
『たうとう斯んな事になつて了つた。しかもただの転任ではなくて、官職の放棄、一時的転居でなくて、永久的移住といふのだから、普通の見送りとは訳が違ふ。人の身の上ほど不思議なものはない。自分の前半生は余りに平凡で単調で飽き飽きした。今日振り出しの後半生はモ些し熱と力と意義とのあるものにしたいものだ。三浦半島よ、さらば! お蔭で自分は暢気に面白く遊ばせて貰ひました。これから爰で養はれた潜勢力を十分に発揮して、御国の為めに働かせて貰ひます。何れ機会があらばこのなつかしき第二の故郷へ参りまして、おなじみの海と山との美しき景色を見ながら、昔の思ひ出語りでもさせて貰ひます……』
口には言へぬ、又筆にも書きつくせぬ、千万無量の感慨は、自分の胸に一ぱいに漲つて居た。そしてツイ首をめぐらして、モ一度雨にかすめる四辺の風物を振り返つて見るのであつた。
ピイーツと発車の合図と共に、汽車はそろそろ動き出した。
『左様なら御機嫌よう』
『何れその中又……』
窓から首をつき出して口々に挨拶をかはす間もなく、非情の汽車は瞬く隙に停車場を離れて、驀地にトンネルの中へ潜り入つて了つた。
鎌倉の停車場にも多くの人々が見送りに集まつて呉れ、中にはわざわざ大船までついて来てくれた。又爰から八丈島の奥山といふ人が、親子三人で乗車し、吾々の一行に加はつた。これは子供の病気平癒を大本の神様に祈願の為めで、後日自分に取りて多大の研究修業の材料とならうとは、その時は夢にも知らなかつた。
書き度いこと、書き落したことは山ほどあるが、余りに綾部生活の序幕の物語りが長くなり過ぎた。これから筆を改めて、いよいよ真の綾部生活の物語りを始めるとしよう。
出廬 綾部生活の五年 第一部 完