文献名1冬籠
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3読者の為に(前篇「出廬」のあらましの事ども)よみ(新仮名遣い)
著者浅野和三郎
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データ最終更新日2025-01-24 22:22:00
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霊を見、霊を信ずるに到る迄の彼の生活には、少青年、中年時代を通じて、何等の疑惑も煩悶も伴ふことがなかつた。小学生か中学生となり、大学生となり、一人前の人間となつて世に出で、夫となり父となり、其間幾冊かの書籍の著者ともなり、偖ては海軍機関学校の教官となつて十有七年といふものを、申さば無為にして暮して来たと云ふに過ぎない。不図した因縁が結ばれて、彼が大本の教を聴き、神の綱を懸けられて、御筆先の研究者となり、綾部行となる迄の、彼の心的変化の如何に奇しく惨ましく、且つまた如何に潔かつたか。物質文明の真唯中に、夢の如き生活に慣らされた。彼が、兀然として霊に目覚めて、現世の外の無辺の世界を更に見出した時、彼の霊は一度は戦き一度は怖れもしたであらう。そして振返つてまじまじと自己を瞶めて、歴々と泛び来る彼の過去、現在の生活の無意義に想到つては、掻挘りたき歯がゆさと口惜しさとは、犇々と彼の心に迫つて、我と呪はしさを感ぜずにはゐられなかつた。次の瞬間には彼は驀然として生活更新の叫を挙げた。彼は物質の世界を脱却して、精神の世界へと志した。彼が心の岩戸開きが出来て、綾部の冬籠を了へる迄の幾ケ月間、彼は脇目も振らず、ひたすら神の道へと突き進んだ。修業が積むにつれて、日一日と新しい彼の世界は開けて来た。霞を隔てて遥かに眺められた神霊の世界に来て、今は親しく天地大神の教に接し、御姿を目のあたりにすることも出来たのである。彼の歓喜! 彼の湧躍! そして『奈落の底に向つて沈みつつある世界の人類を救済すべく微力の限りを尽くさん』との彼が不退転の意気、犠牲的決心は斯くして贏ち得られたのであつた。
大正四年の春から秋にかけては、彼が大本入信の予備的経験の時代ともいふべきで、其年の冬から翌五年の春にかけては、科学万能で固められた彼の学問の根柢に、大分ぐらつきを生じた懐疑の時代である。彼の遭遇した家庭の一少些事に対してさへ、聊か其蘊蓄を誇つた彼の知識も学問も、何等の椎威を発揮し得なかつたことは、彼に取りては少からぬ皮肉であり、矛盾であり、不安でもあつた。彼の飽くなき知識欲は、どうして此儘で済まされようか、現代の科学、心理、哲学──其他凡ゆる現代文明に対する信仰を裏切られ侮辱されたやうな彼の意識は、到底波立たずにはゐられなかつた、彼は現象を去つて其本体を極むることなしに、霊妙不思議とのみ感歎することは出来なかつた。『縞の羽織に小倉の袴、肩にはズツク製の学生鞄』をかけた異様の風采をした一旧知に逢つて、丹波綾部の名を彼が初めて耳にしたのは、丁度この時分である。
凡ては神のなさることである。因縁の身魂を引寄せらるる神の綱に懸つてゐようとは、其頃どうして彼の想像だもなし得る所であつたらう。
丹波の綾部! 大本教! 明治二十五年! 出口直子! 御筆先! 彼に取りては事一つとして、驚心駭目に値しないものはなかつた。彼の興味と研究心とは、極度に緊張し、極度に引つけられた。彼は久しからずして霊を見、霊を感じ、霊を信ずるの外なきこととなつた。即ち大正五年の春、夏、秋にかけて、彼はあらん限りの精根を傾けて御神諭を読み耽り、修業を続け、霊的経験を重ねて、漸く其心眼を開き、身魂を洗ひ、豁然として天地惟神の大道を濶歩することが出来るようになつたのである。其年十二月十日! ああ然り、愈々彼が横須賀の旧廬を出でで、綾部の神域に一家を挙げて出立したのは、実に大正五年も暮に迫つた十二月十日のことであつた。
其日は雲低く垂れ、初冬の冷たい空気に町も港も蔽はれて、旅立つ人にも見送る者にも、感傷的気分を与へるに十分であつた。名残を惜んで見送る女達の眼には、折柄彫り出した雨に濡れてか、露が宿つた。世捨人にでもなる為めの丹波行とのみ思詰めてゐる彼女達の心根は、やさしく憫れにもあり、可笑しくもあつた。これからこそ、意義ある真剣の働きをするつもりでゐる彼に取りては、別離の情はさることながら、なかなか気欝く心を曇らする等の気はしなかつた。朝早く彼は産土神へのお別れと御礼を言上したそれを以て、最早横須賀には凡ての別離を叙したつもりでゐた。
けれども彼も人である。神業に従事するだけ、彼の情感は饒かである。流石に汽車が動き出した時に『口には言へぬ又筆にも書きつくせぬ千万無量の感慨』は彼の胸臆を圧して、私知らず車窓に頭を廻らして、雨に霞める四辺の風光を飽かず振返り見るのであつた……。
本書の前篇「出廬」は彼が大本入信に到る径路を如実に描いた赤裸々の告白録で、つまり彼が綾部生活の序幕の物語である。本書は直に其後を受けて、大本人の真実味ある生活の発表といつて可い。「彼」とは申すまでもなく浅野憑虚氏のことである。