文献名1冬籠
文献名2〔一〕綾部の冬籠よみ(新仮名遣い)
文献名3(十五)よみ(新仮名遣い)
著者浅野和三郎
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データ最終更新日2025-01-24 22:22:00
ページ63
目次メモ
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段々聴き訊して見ると、一伍一什の事情が明かになつて来た。そして王子稲荷の眷族の言ふ所にも、一応無理からぬ条理があり、又谷本さんの行動にも、残らず佳いところばかりもなく、自分は審神者としてその裁判に当り、近頃にない興味ある経験を得た。其顛末を述ぶれば、ざツと左の如きものであつた。
谷本さんは、天然社に入る以前、一時熱心なる王子稲荷の信仰者であつた。かくて芝の邸内に、わざわざ祠を建立し、それへ王子稲荷を勧請したが、その時に選ばれて来たのが、即ち谷本さんの肉体に現在憑いて居る白狐であつた。其白狐の自白する所によれば、王子稲荷の眷族の数は、八万三千五百に上るとの事であつた。
谷本さんの信仰の堅固な間は、白狐は一心不乱に谷本さん及び其家族を守護し、幾多の御利益を授けたさうだ。白狐は言つた。
『明治四十三年、芝に火災があつた時などは、この方の働き一つで谷本は類焼を免れた。板塀一つ隔てたすぐ隣まで熾に燃えて来たのに、谷本の所でバツタリその火が止まり、しかも何等の損害なく、末の児の如きは、スイスイ眠つたままで眼を覚ますにも至らなかつた。然るにこの大恩を忘れて、谷本の信仰は次第に薄らぎ、到頭無断で、祠を返納して了ふ事になつた。ただ信仰が薄らいだといふだけなら、まだ大目に見るとしても、不届至極にも……』
と語気は漸く荒く、憤怒の形相ものすごく、
『不届至極にも、王子とは、ツイ眼と鼻の間なる、池袋の天然社などと申す流行神に乗りかへ、自身采配を振りて世間を騒がすやうの振舞に出て、勿体なくも、王子稲荷は関東第一の稲荷にして、羽田稲荷などの遠く及ぶところでない。昨今駆け出しの天然社如きものの為めに、見す見す顔に泥を塗られるやうなことがあつては、そのまま打ち棄て置く訳には行かぬ。乃でこの方が谷本の肉体に憑き、又他の眷族を谷本の家内と子供とにつかせ、次第々々に懲罰を与へてやつた。一時盛大を極めた天然社が、瞬く隙に砕けて了つたのも、悉く王子稲荷の神罰の結果であるのだ。引つづいて谷本の生命までも奪らうとして、耳や鼻から痛めて居るのだが、完全に其目的を達するのには、余程まだ時日を要する……』
自分はこの物語りを聴いた時には、覚えず肌に粟を生ずるのを禁ずることが出来なかつた。谷本さんが信仰を棄てて、天然社に乗りかへたのは、褒めたことではないとしても、既にその肉を食つた上に、その骨までもしやぶらうといふのは、何といふ畏ろしい執念であらう。自分は狐に向つて容を正しうして、其不心得を責めた。
『稲荷さんの社会では、そんな事をするのを善い事と思ふかも知れぬが、大神さまの前では、断然容赦出来ぬ。窮鳥懐に入れば猟夫も之を殺さぬといふではないか。その方は今関東第一の稲荷などと威張つて居つたが、そんな小さい量見で居るから、心得違ひを致すのだ。人間界で、博徒の親分が縄張りをきめて争つて居ると同様の態度で、何といふさもしい、汚い心懸であらう。艮大金神国常立尊さまは、この乱れたる神界から真先に立替をなさるのだ。信仰すれば悪人でも助け、叛けば善人でも悩ますといふのが、それが汝等の態度ぢや。大本の審神者の眼にとまつた以上は、このままに看過することは出来ない。今日から直に改心して、谷本氏の耳なり、鼻なり、眼なりを癒すことにすればそれでよし、若し、このまま態度を改めざるに於ては、大神さまにお願ひして、神罰を与へてくれる。什麼ぢや改心するか』
白狐は案外素直に出た。
『畏れ入りました。仰せの通り、早速谷本の病気を癒すことに致します。しかし谷本の仕打も決して善いとは思はれません。大恩を受けながら、無断で祠を返すといふ法はない。是非王子稲荷に参詣して、その罪過のお詫をするやう、貴下さまから当人に御申しつけをお願ひします』
『むむ、それは尤もな言ひ分ぢや。拙者から谷本に命じて、それだけの手続きを必ず履ませてやる……』
この問答をきいて居た谷本さんは、今度は人間として白狐に向つてその場で挨拶した。
『無断で祠を返したのは、自分ながら手落ちでありました。いづれ東京へ帰りましたら、誓つて早速王子稲荷に参拝してお詫を申上げます。何分にも御容赦を願ひます』
『それで差支ない』
と肚の中から白狐が答へた、
たつた一箇の口を、白狐と谷本さんと使ひ分けるのであるから、何にも知らぬ人から見れは、滑稽な自問自答としか見えない。しかしこれで十分用事が足りるのだから仕方がない。
自分は引つづいて、この白狐に向つて幾多の質問を重ね、お蔭で関東方面の幽界の事情が、余程明瞭になつたのはうれしかつた。王子の八万三千五百の眷族中、人間に憑いて守護して居るのは約八千ばかり、他は遊んで居るなどと言つて居たのを、今も記憶して居る。
谷本さんの病気は十日過ぎても、二十日過ぎても癒らす、二十五六日経つた時分の耳からの分泌物などは却て最初の数倍に上つて居たので、自分は随分心配したものであつたが、それがいよいよ約束の二十八日となると、驚くべし、耳と鼻と眼とが三箇所同時に平癒し、後にはただ疲労が残つて居るばかりであつた。
谷本さんはこの時から大本の熱心なる信者になつたやうだ。