文献名1冬籠
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3〔五〕並松雑話よみ(新仮名遣い)
著者浅野和三郎
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データ最終更新日2025-01-24 22:22:00
ページ202
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大正五年の冬から六年の秋まで、約一箇年間の綾部生活は、曲りなりにも什麼やら書いた。自分は無精をきめて一つも日記を残して置かなかつたので、いま筆を執るに当つて、その祟は覿面にあらはれ、次第々々に記憶を辿ることが困難を感ずる。大正も七年八年九年となると、会つて話したり、鎮魂したりした人の数ばかりも数千人にのぼり、とても一々記憶には残つて居ない。眼を瞑つて過去四年越しのことを考へて見ると、際立つて印象の深かつた人物、事件、光景等のみが、雲霧の間からニヨキニヨキ尖頭を顕して居るのみで、他に輪郭も色彩も一つ平にボケて了つて、夢か幻のやうにも感ぜらるるに過ぎぬ。折角の経験を経験として、保存し得ぬといふことは、随分無意義な莫迦らしい話で、残念至極と思ふが、今更如何ともする事が出来ない。今後は少し面倒でも、日記なりと書いて置かうかしらとも考へている。
一方から考へると残念のやうだが、しかし日記などの無かつた事が却て有難くないでもない。何時までもこの調子で書いて行く日には、とてもこの上百回や二百回重ねた所で、本篇の結末がつきはせぬ。それでは書く方も耐らないが、読む方は一層耐るまい。過ぎたるは及ばざるが如しだ。余り愛想をつかされぬ中に、潮時を見て、良い加減に筆を切りあげる方が什麼も得策のやうだ。これからは余り話の順序等には頓着なく、記憶に浮ぶまま、筆の走るまま、呑気に構へて、種類によりて拾ひ書きをして見ようと思ふ。取り敢ず並松の自分の家庭に起つた事からでも始めるとせう。
大体に就いて言へば、並松の生活は呑気な生活であつたと言ひ得る。外見や体裁を飾る心配は些しもなし、下らぬ浮世の義理や束縛に苦しめらるることも殆どなく、全然明ツ放しの簡易生活である。そのかはり年が年中来客の絶間はない。大正六年七年頃までの大本修行者で、自分の所へやつて来ぬものは殆ど一人もないと言うてよい位、並松が殆ど大本の修行場の観があつた。一番汽車で着いたとか言つて、六時過ぎに寝込みを襲はれた場合も屢次あつた。自分は朝寝坊の資質なので、朝の来客の殺到に逢ふと、朝飯などもよく食ひ損ねる。夜は決り切つて晩餐を終るか終らぬ中に修行者が来る。少い時で三五人、多い時は二三十人に上る。元来狭い家なので、ともすれば魚市場に鮪が並んだやうにギシギシに詰まる。余りに詰めかけると先来の客は陣を引いて、後来の客に座敷を譲る。一と晩に十人づつ、三組位更迭したこともあつた。
七年度になつてからはそろそろ宿舎の設備が出来かけたが、六年頃にはそれがなかつた為めに、自分の所がよく宿舎の代用にもなつた。泊ると言うても簡単なものだ。一汁一菜を以て大本式御馳走の原則としてあるのだから、家族のものも毫も世話は焼ない。泊まる方も余程気の毒の程度が薄いに相違ない。この流儀で行けば、日本国に生活難などの声は、まだ起らずとも済むと思ふ。
綾部全体として見ても、大正五六年頃と現今とを比べると余程趣を異にして来たが、並松の模様も之につれて大分変つた。引越し当座は、近傍に大本信者は自分の所がただ一軒、甚だ幅のきかぬ次第であつたが、今では右に左に、大本信者の新築家屋が殖えて来て、殆ど並松一帯の地を風靡する有様になつた。そして朝に晩に、祝詞の声が淙々たる河水の音に和して彼方此方に聞ゆる。
自分が引越した当座尤も弱つたのは、並松の「組飲み」と称するものであつた。他の言葉で之を言ひ表せば、並松居住者の懇親会である。一年に何回か催され大に飲み乍ら懇親を計るのが目的なさうなが、実際は飲んで、管を捲いて、そして最後に喧嘩をやるのである。自分が引越匆々、大正六年の二月頃に、大工の為さんの所でそれがあつた。苟くも並松に引越した以上は、是非出席せねばならぬとの厳命であつたので、畏る畏る顔を出した。自分の酒料は多寡の知れて居る所に、新顔とあつて、大きな盃で熾にさされるので、組飲みの容易ならざることを痛感した。その次回の宿元は自分の所に回つて来た。丹波は酒呑童子の本場丈あつて、却々酒豪が多い。ドウせ酒を飲むのなら酔ひ潰れるまで飲んで、管を捲ける丈捲いて、そして喧嘩する所まで行かねば面白くないといふ規則になつて居るのだから、「組飲み」の宿をやるのは、容易な修行では勤まらないことを実験体得した。
第三回目の「組飲み」の際には、自分はたうとう考へた。自分の如き弱卒が之に出席して見ても到底勝算はない。一つ然るべき斯道の豪傑を代理として出席せしめ、大本信者の為に気焔を吐いてやらう。それには誰にしたものかと、いろいろ人選の結果、竹造さんに頼むことにした。竹造さんは部内有数の酒豪で、二升や三升の酒には決して驚くやうな人ではない。この策戦は思ふ壺にはまつた。流石並松の「組飲み」達も、竹造さんには兜を脱いだ。彼麼にガブカブ一人で飲まれては、とても組飲みが成立せぬと、文句を並べたのであつた。その際の竹造さんの気焔は振つて居た。
『組飲みといふのは酒を飲めばよいのぢや。他の事なら知らぬこと、酒を飲むことにかけては、俺は立派に浅野さんの代理を勤めて居る。愚図々々言ふ奴が間違つて居る……』
その後「組飲み」は依然として存在するやうだが、自分に向つて出席を迫ること丈はなくなつた。