文献名1出口王仁三郎著作集 第1巻 神と人間
文献名2本教創世記よみ(新仮名遣い)
文献名3第一章よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
- 13歳のころ。妙霊教会の岸本に「おまえは男子にして女性であり、救世主としての運命を持って生まれている」と勧誘された。
- 15歳より19歳まで、丁稚奉公、荷車引きなど。
- 17歳久兵衛池事件
- 23歳、園部の獣医井上の書生となる。牛の乳しぼり。国学や岡田惟平に学ぶ。
- 25歳 穴太に帰り、精乳館を経営。
- 祖先は藤原氏、農家では藤を切れないので上田に改名。
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本文
余が十三歳の春の事であったが、妙霊教会の布教師・岸本という人、穴太なるわが伏家に祈祷のために出て来て種々の神教を語った。
その時分に余は半病人ともいうべき厄介なる代物であったが、その岸本が余の面を見て、「君は珍しき人である。男子にして女性である。救世主たる運命を以て生まれておられるから、われわれとともに惟神の道に身を委ねては如何。必ず成功する」と強いて勧められたが、「余も将来、済世の目的を遂行したいのではあるが、未だ天より余に向かって命令が下らないから、今から立つという訳にも行かぬなり。かつ又、思う仔細もあれば」と断わったが、ますます感じて、「信仰を篤くなさい。真に結構な神主になれます」と、「末たのもしき事であるから、私も汝のために神界の冥福を祈りますから、一日も早く神国のために御尽くし下され」というて、みそぎのはらいなり、大祓の素読を教えて帰られた。
余は一派の神道を国家のために開かんと、終始念頭にかけておったけれども、何分貧乏の家に養われて居るのであるから神学を研究する事が出来なかったが、追々、家は貧窮に陥り、小学校へも通う事が出来ぬようになりて来た。父と共に野山に通いて、薪を苅り肥を苅りなどして田を作り、細き煙を立つるに汲々たりし次第なれば、神学どころか普通学も研究すること能わず、十五歳の時より十九歳に至るまで、丁稚奉公にまで使われたる事ありしが、一日の仕事がすんで主人も朋輩も寝静まる頃になると、そろそろ起き出でて、氏神の小幡神社と神明社とへ参詣して神教を乞う事、一百日に及びて、神界の大義に通ずる事を得たのである。
神界の大義はほぼ伺い奉りたれども、家計貧しくして立ち難きを憂い、荷車夫となりて人の荷の賃持ちを営み、星を戴いて家を出で星を踏んで家に還り、労苦を積みて父と共に糊口を凌ぎたりけり。又たまには、母も荷車を曳きて出でたる事ありけり。その中にも、われは神道を忘るること能わず、心中には暗祈黙祷しつつありしが、時々父より「汝は狂人か」と叱られたること度々なりしが、未だ神道を布教するの機運を発見し得ざりけり。
農業の外に、中小車曳きを営みて、京都伏見なぞへ種粉を配達し、または樫原なぞへ、冬の農が閑散になると春へかけて、大枝坂を夜の中に往復し、わずかの賃金を得て父の家計を補助しおりたれば、一日として書を読むの暇なかりし故に、せめての心楽しみにとて風雅の道に心を寄せ、その頃流行せる冠句を雅友と共に楽しみたりしが、いつも秀一にて巻頭を得たること、二年ほどのうちに四十余度に及びたりしが、人々はみな奇異の思いを成し、「只人にあらじ」と噂したりき。風流を学ぶために偕行社というを興し、村上信太郎という人を以て社長とし、余は常に幹事の地位に立てり。余の雅名は、即ち俳名は安閑坊喜楽と称したりしが、喜楽の名はたちまち遠近に鳴り渡りけり。風雅に志したるは、二十一歳と二十二歳なりけり。
二十三歳の七月、父母の許しを得て、園部の獣医・井上直吉氏の書生となりて獣医学を研究せんとし、園部の南陽寺畔の牧畜場に到り、牛乳の搾取を第一着手として修練せり。
然るに三名の牧夫ありて事業を取りたりしほどの搾取場なれば、七、八頭の乳牛を牧し、その乳を搾取し、園部その他の村落へ配達する事、毎日二回に及びければ、一日のうち、半時間の暇もあらざりけり。その上、牛の食糧も、余一人の手にて草を苅り、藁を買い集めざるべからず。一日に四、五回は清潔法のために場の内外を掃除せざるべからず。忙しきこと目の回る如くにて、口舌に尽くし得べきにあらず。会計事務一切も余の手に為さざるべからず。故に医学の研究なぞは思いもよらず、夜は薄き布団の中に歯をかみしめて、あつき涙を絞り、貧書生の寄るべなきを歎つのみなりしが、天は我が志を捨て玉わず、我が住む隣なる南陽寺へ国学の師・岡田惟平翁出張せられ、余が平常の宿望たる惟神の道を教えらるるの機会を得たり。その時は、井上氏の実弟・徳次郎なるもの、新たに牧夫となりて共に事業に就きたれば、余は従前に比しては、よほど閑を得ることを得たるなりき。
このとき親友として交わりたるは岡田師の孫なる岡田和康氏なりしが、この友は余一世にはまた一人と得られざるべしと思う。かつ又、園部本町の菓子屋の主人・内藤半吾氏と親しく交わり、その令息・栄次郎とは至って親しく、閑暇あるごとに遊びを共にしたる位なりき。この家に召し使われいる職人・八木清太郎という人、我が郷里穴太に近き太田の生まれなれば、何となく心安く感じて準朋友の交わりを成したりけり。八木につきては後に書すべき事あれば、ちょっとここに誌しおくものなり。
余の失望は再び来れり。その故は、師と頼みたる岡田惟平翁の摂津へさして帰国し給うの止むを得ざるに至りたる事なり。頃は明治二十七年の九月の頃にて、かの有名なる日清戦争の最中なりけり。
余は既に二十四歳なりき。余も翌年二月、二十五歳の春、決然袖をはらいて郷里に還り、医学独習の企てを為さんために、またまた神気を痛めたりしが、東奔西走の結果、ついに左の手段を取れり。
郷里穴太において牛乳搾取場を設置し、自ら牧夫兼搾取人となり、その余暇を以て神界の探究に資せんと思い立ち、有志者を説きまわりて牧場設置の計画に着手したりしが、意外に奏功速やかにして、ついに精乳館といえる共有社を設置し、明治二十九年一月一日を以て開業式を挙げたり。これより先、船井郡桐の庄村垣内の上仲儀太郎氏と計り、同氏宅にて搾乳販売営業を為さんと計り、万事斡旋したりしが、余は父母の勧めによりて穴太に設立の方針を決定し、ついに上仲氏一己として開業せしめたり。双方とも二十九年一月一日の開業なれば、四里の行程を通いて、大晦日の忙わしく、又わが社の繁多なるにもかかわらず、はるばる通いて執務の方法等懇切に指示して、夜半に帰村したる事ありたり。精乳館も上仲牧場も今なお繁昌しつつあり。蔭ながらこれのみは嬉しき事なり。
精乳館も出来上がり、村上信太郎、上田正定両氏と余と三名の社員にて、規約も互いに取り替わし、目出たく組織も整い、各自の部処を忠実に尽力する事となれり。余はようやく一身を支うるの端を開きたれば、執務の余暇を得て、一先ず医学の研究を中止して、神道の反面より研究を始めんとし、東京哲学館より発行する井上円了氏の『妖怪学』を研究する事となれり。されど井上氏の説にては、一か所も余の満足する所とならざりしが、ただその文中に、「妖怪学は仮怪を開きて真怪に入るの門路であるから、この妖怪学を目標として真理の方面に向かって進まば、ついに心天の中に智光の日月を仰ぎ、心海最も深き所に真如の月を浮かぶる事を得ん」とあるの一事であった。故に余は井上博士の『妖怪学』を以て足れりとせず、ただ参考までに止めておいて、他の方面に研究の弓を向けたのであったが、早くも明治三十年の一月であった。それから余が研究の結果は、いよいよ済世の目的に向かって進んだのである。
余の主眼とする所は、政教慣造の調和にあって、現世と幽界の親和を鼓吹せんとするのである。暗黒社会の燈台ならん事を欲するのである。
追記
記事が前後するけれども、ここに一筆載せておかねばならぬ必要があるから、先祖からの恥を土用干しにするのである。
余の祖先は藤原治良左衛門正一である。これは中古の祖先で、その前は大和から落ちて来たと思うのである。その次が正好、その次が正忠、その次が正武、その次が為正、その次が正輔、その次が正安、以上七世はみな藤原治良左衛門であった。その次が上田久兵衛と称えた。久兵衛の代に変苗したのである。その故は、藤原姓で居ると、農家が山中に入りて藤を切りて用うる事が出来ぬとかいう迷信から、上田と変姓したのである。
藤原正安の代までは高屋という所に城があったという事である。その次が上田政五郎、その次が上田吉松で、三代続いた。余の父も吉松と云うたが、通称は梅吉、佐太郎の二称であった。その世継がすなわち余、喜三郎となるのである。上田まさの家は、余の代より十世以前に地所三千坪を与えて別家したのである。また上田治良右衛門の家は、八代前に地所二千五百坪を以て別家したのである。
余の宅地の西南隅に清水の湧き出る池が一か所あるが、この池は上田久兵衛の代に所有地一万五千坪の養水源として穿ったもので、今に村人は「久兵衛池」と名付けて居るのである。祖先からの聞き伝えによると、この池は未申の方位に掘ったので、裏鬼門の祟りで、代々女が溺れて死んだのが余の家から七名ある。しかしてそのほか村内の者の溺死したのも沢山あって、今に跡を絶たぬのである。それゆえ余の父は、常にこの池を埋めてしまうて自他の危難を救いたいのが素志であった。
余も一度この池に陥ち込んだ。既に溺死せんとする所を、祖母のために助けられた事があった。祖母は明治三十四年の正月、八十八歳を以て国替をしたのである。また明治二十年すなわち余が十七歳の春、弟の幸吉が溺死せんとしたので、父はいよいよ池を埋めんとの決心をしたのである。また余が溺れんとしたのは七歳の時で、明治十年の夏であった。
余が家は祖父の代に至って全然零落してしまって、父の代にはただ百八十三坪の宅地と三十一坪の田面とより無かったので、久兵衛池の必要も無くなってきたのである。そこで父が池を埋めんとしつつあるところへ、寺西文助と云う者が来て、「この池は村内の池なり。自由に為すべからず」と反対して来たので、余の父は大いに憤り、「わが所有地にある池なれば、埋むるも掘るも貴下の干渉すべきところにあらず」とて一言の下に跳ね付けた。さあそうすると、かの文助と云う男が、八田鶴之助、岡本石松そのほか十人ばかりが同盟して父を窘迫せんとし、大いに運動して、村会議員、地主なぞに向かって、父の不学と貧乏とに付けこんで四面攻撃を始めたのである。
当時余は、南隣の大地主なる斉藤源治と云える富家に、十五歳の冬から丁稚奉公をして居たのである。余は一日の業も済み履物を造りて居ると、玄関の次の間に村内の大地主や村会議員、並びに反対者が鳩首して、余が父を総攻撃の協議をして居るので、余は耳を立てて聞いて居ると、実に左の如き奸計なのである。余に恐迫示威のために、これ聞けがしにわざと余の隣室で協議したのであろうと思われた。
甲が云うには、「万一如何にしても上田吉松が『池を埋める』というなれば、この方において大いに彼を困らせてやる手段がある」としたり顔に口を開いて、「元来、吉松という奴は、愚直な上に文盲で度貧乏で、子供は沢山あるなり、老人はあるなりするから、彼の久兵衛池を吾々の方へ首尾よく投げ出せばよし、さもなくば地主、同盟の上、彼が小作の田地をすっかり取り上げてしまえば、たちまち明日から事業に離れると同時に糊口に差し支えて、乞食でも致さねばならぬようになって来るから、この手段を取るが第一の妙策ではあろうまいか」と云い出すと、異口同音に「大賛成々々」と拍手哄笑するのである。そうすると乙が言う。
「一向彼の池の敷地を測量してみると、二十四坪余りあるから『あれだけは除きてあるから』と云うて無理に強奪すればよいではないか。よもや彼の度貧乏人、裁判へも訴えはよう致すまい。わずか一畝足らずの池のために、家屋敷まで棄てる如き事は致すまい」と云えば、「それもまた妙案じゃ」と口々に話して居る。また丙がいう。
「吉松の家は借金はして居りはせまいか。村中調べてみて、一円でも借りて居るなら、それこそ短兵急に攻め掛けて一泡吹かしてやるも面白かろうし、米でも貸した人があるなら、調べてみて酷しく督促して泣かしてやろうではないか」と、犬糞的復仇の児戯に等しき論を持ち出したり、「喜三郎に暇を出して困らせてやったらよかろう。何と源治君、左様ではないか」「妙々」「ひやひや」なぞと下らぬ事を並べておいて、酒を飲んでますます暴言を吐いて居たが、「万事明日、吉松攻撃の協議を致すで御座ろう」と千鳥足になって、面白そうに吾家々へと帰るのである。
隣室にあって始終を聞いた余は、悲憤の情に堪えず、自ら我が指を喰えて血の淋々として流るるを覚えぬ位で、そのまま主人に暇を請い、父の家に帰り善後策を講じようと考えて居るところへ、主人の源治が、平常に変わって柔和な面色で、「喜三郎に話がしたいからちょっと余が居間まで来てくれぬか」と云うので、その言に従うて奥の一室へ通ると、襖なぞを密閉した上、余を利害を以て説き付け、余より父に通じて村内の非望を遂げさせんとの計略である。源治はまた家内の者を残らず遠き座敷へ追いやり、おもむろに余の顔を覗き込むようにして「ああ、お前は非常に激昂しているが、まあ心を鎮めて吾言を聞けよ。決して悪しきには取り計らわぬから、わしも一旦主従の縁を結んで同じ鍋肌を食った者であるから、何とかしてお前の力になってやりたいと思うから、吾は内々で忠告するのであるから、よく聞いてくれ。お前も先刻聞いた通りの村内の気色であるから、万一お前の父が頑張ると実に気の毒な事になる。そうするとわしも見る目が苦しいから、お前の親兄弟を助けようと思うて、一つ相談をするのじゃによって、お前はこれから家へ帰って、父母に得心させるがよい」と勧めるのである。
余は物をも言わずただ一心に瞑目して天帝を祈り、「なにとぞ今回の理非曲直を判明させて下さい。又わが父母の苦衷を救い玉え」と一心になって頼んだ。
祈祷も終わったので、余は決心して断然反対の態度を取り、かつ「かかる悪人どもの跋扈する村には住みたくなし。乞食になるとも、餓死するとも、干渉は御無用なり。吾ら父子はあくまでも正義を楯として、討死するまでも戦うの決心である」と答えた。
さあ、そうするとまた、「それはあまりお前の不利益でないか。一つお前も利害得失を考えて見るがよい。『長い物には巻かれよ』と云う諺もあるではないか」と諄々として説き付けんとするのである。余は極めて強剛に排斥しつつ、「今日限り暇を貰いたし」と言い放って、夜中に父の家に帰って見ると、両親は声を挙げて涕泣して、居られるからその故を尋ねると、既に悪人どもは、「田を返せ。金を返せ。さあ今出せ。それが不服なら裁判しても取るがどうじゃ」と弱少なる者をつけこんで、赤子の手を折るような事をするので、「実に貧ほど悲しきものはない」との事である。余も落ちる涙を飲み込みつつ、「御心配なさるな。今に神の佑助を仰いで正邪を明らかにして、御安心を致させますから」と百方父母を慰めておいて、その夜の中に亀岡の伯母の家へ援兵を請いにいった。
一部始終を聞いた伯父や伯母も、大いに激昂して、「万一の場合には、吾等において引き受けてやるから、正々堂々として真理を突抜くべし」との声援を与えてくれたので、百万の援兵を得た心持ちで勇んで帰宅して、両親にもその由を復命して、一先ず安心させる事とした。
その翌日、わが池の件について村中の総集会を開いたので、余は父の代理と成って出場すると、百二十余戸の戸主残らず集まって居る。
先ず第一に口を開いて悪言を吐いたのは、議員の斎藤兵次郎である。次に同姓の唯一である。次に源治である。媚を呈して寺本兼次郎という小作人は、「大賛成」を連呼し、かつ一同に賛成せられん事を勧める。小作人一同、皆口の中で「可哀相に。無理やなあ。非道やなあ」とつぶやくばかりで、いずれも富者の心を損せぬ事を恐れて、一人も反対を唱うる者が無かったのである。
余はあくまでも神佑を楯として、一言も淀みなく正義を以て立て通したので、彼らもついに敵し難きを知って、「然らば吉松氏の所有地に相違なかろうから、年々報酬を出す事にして借りる訳にはいくまいか」とそろそろ弱音を吐き出したから、余は二、三回抗拒の上、ついに毎年玄米一斗五升ずつで貸与する事にして、契約書を取って一件落着をさせたのである。またこれ一件について、十分同情を表して百方運動したのは上田まさ女である。
余はここにおいて、神力の高きを覚ると共に、ますます下等貧賤の人民の境遇の惨澹たる生活を知り、ますます救世的の大決心を定めたのである。本作は、余が従道の志をしてますます強剛ならしめたのであるから、記しておく次第である。
世の中に何が可哀相なというても、貧者ぐらい憐れむべき者はない。理に勝って非に負ける事は幾度あるやはかられず、衣食住の三敵と昼夜競争せねばならぬので、宗教の自由はあっても名ばかりで、信仰さえもする暇もないので、折角今世に生を享けながら、一生涯牛馬の境涯に立って苦悶せねばならぬ者である。
首を吊って死んだり、汽車往生をしたり、水死する者が出来るのも、みなこれ貧からである。又この貧の源泉は、社会の不完全、財富分配の不公平からである。血あり涙ある者、救世の目的を達せずして、豈止むべけんやである。