文献名1出口王仁三郎著作集 第1巻 神と人間
文献名2大本略義よみ(新仮名遣い)
文献名3一元と二元よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
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データ最終更新日2016-11-28 01:14:59
ページ212
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本文
一元と二元
自分は、前章に於て、天之御中主神が宇宙の独一真神で、霊力体の総本山である所以を説明したが、本章に於ては、此神の動的方面、即ち其霊力体の妙用を発揮して、天地、太陽、太陰、列星を創造されたる次第を説明したいと思う。
霊力体の意義に就きては、第一章(ママ)にも一言して置いたが、爰では、も些し詳細に、其真意義を解釈して置きたい。天之御中主神の静的状態、即ち天地未剖判の混沌状態に在りては、無論、霊だの体だのの区別はない。唯一元の「大元霊」があるのである。真如だの、虚無だのというのは、此状態を指したものであるが、既に前にも一言せる通り、此状態は、吾々が強いて意念する丈のもので、実際としては、天之御中主神の御活動は、無窮に悠遠なる時代から、既に已に開始されて居た。何うしたとて、吾々は其無窮を超えて一元の「大元霊」の裡に遡る事は出来ない。思索、想像の赴くべき一面としては興味がないではないが、要するに、それに耽るのは結局道楽三昧である。印度人だの、南方支那人だのは、兎角此様な道楽が好きだが、神業の大成の局に当るべき日本人としては、其様な閑日月は無い。殊に現在、宇宙間は、あらゆる方面に亘りて活動又活動、天地創造以来の大活躍が起らんとしつつある瞬間であるから、尚更の事である。既に宇宙の間に活動が起って居るとすれば、根源に於て其活動を起すべき力の存在は明白である。換言すれば、力があるから活動が起るのだ。所が、力という力には、常に正反対の二方面が具って居る。進あれば必ず退あり、動あれば静あり、引あれば必ず弛あり、と云う具合である。吾々は、何故力に斯く正反対の二方面が具わるのであるかを考究せねばならぬ。何が其原因か。かく追求すると、吾々は是非共、宇宙の間に相対的二元の存在を認めざるを得ぬ。正反対の性質を帯びたる二元が存在するから、其二元の交渉若くは衝突の場合に、進となったり、退と成ったり、或は動と成ったり、静と成ったりする。宇宙の内部が一元のままならば、進退もなく動静もない。相対的二元があるから力が生じ、そして其力に相対的二方面が具わる。斯ういう次第だ。大本霊学では、此宇宙内部の相対的二元を捕えて、陰陽ともいい水火とも又霊体ともいうて居る。霊体、火水等は、平生浅薄な通俗的意義に使用されて居るが、爰に述ぶる所は、根本の第一義のもの、抽象的のものである。吾々は、之を意識の上に明瞭に描く事は出来るが、其実体は、之を捕える事は出来難い。爰に火水という時は、火水の本体、第一義の火水を指すので、水として象を現わす時は、実は其中に火があり、火として象を現わす時にも、同じく其中に水がある。換言すれば現象の火も水も、何れも各々陰陽二元の一種の結合で、各々特有の力を発揮して居るのである。この事が腑に落ちぬと、自然不可解に陥ちたり、低級卑俗の見解に堕したりして、宇宙根源の真諦に触れる事は到底不可能である。
言霊学から言葉を査べて、霊と体と力との関係が非常によく明白になるのである。元来日本語は世界言語の根源で、諸外国の言語の根本の如転訛がないから、音韻の根本義が大変査べ易く、其方面からも宇宙の神秘、造化の奥妙等を探るに多大の便宜を有する。言霊学の性質、さては日本語と外国語との関係等に就きては後章に論ずることとして、爰では単に、霊、力、体の言霊を説に止める。「霊」は本邦の古語では「ヒ」であり、又「チ」である。又「体」の邦音は「カラ」であり、又「カラタマ」である。元来、「体」は霊を宿すべきもので、言わば中身無しの容器である。即ち「体」は殻、空等と同一義を有する。又古来日本では、韓でも唐でも、すべて外国を「カラ」と呼んで居るが、要するに、外国は体を貴ぶ国、霊性の足りない「空唐国」という事なのである。「力」は即ち霊、体で、霊体二元の結合という事である。霊、力、体の関係が、かく明白に言葉の上にもあらわれて居るというのは、真に驚歎すべきではないか。