文献名1出口王仁三郎著作集 第2巻 変革と平和
文献名2第2部 社会批判の展開よみ(新仮名遣い)
文献名3人類愛善の世界的使命よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考昭和10年8月12日於亀岡大祥殿 人類愛善会創立十周年記念大会での演説
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データ最終更新日2016-11-25 01:56:03
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自己愛と愛善
本日茲に、人類愛善会創立満十周年の記念大会を挙行する事になりましたが、本会の出来ましたのは、大正十四年六月でありました。
何故に愛善会が出来たかと云いますと、私が大正十三年の旧正月に蒙古入りを致しましたが、満洲及び蒙古・支那その他の国の状態を考えますのに、今の総ての国民は疲れ切って居る。そうして道を求めて道がなく、生活には脅かされ、又色々な暴力の圧迫に苦しみ弱肉強食の状態を呈して居るのを、まざまざと見せつけられたのであります。それで、これは世界万民が一つの兄弟姉妹となって、同じ道に進まない事には、この世界の平和幸福を来たす事は出来ないと、深く感じた次第であります。
いずれの国民も、言葉は通じなくとも1個人々々と交際して見ると、我が同胞も、蒙古人も、支那人も、満洲人も、朝鮮人も、同じ心持をもって交際が出来るという事を深く覚ったのであります。個人としては、世界各国民共に我が同胞と同じ様になれますが、国際間としては、国際問題が起ると、どうしても世界一般の為にと云う心がなくして、自分の国の為にという精神が起きて来る。これは吾々が、いつも『霊界物語』その他で述べて居ります通り、所謂自己愛というものであって、本当の愛善ではない。要するに結局自己愛の愛悪になって来るのである。
「神は愛也」という事を、昔からキリストその他の宗教が云うて居りますが、神の愛は即ち愛と善である。又愛すると云うても、無茶苦茶に愛する余り、自己愛のために他人の財物を愛したり、他人の妻女を愛したりする事は、これは皆愛悪であります。今日の世の中は、互いに鎬をけずって居りますが、「国家の為に国家の為に」と各自に云うて居る。これを「世界人類の為に」と云う様にならねば、世の中に本当の平和は出来ぬのであります。日本人は日本の為に、日本人丈がよくなったらよいという冷淡な性質を表わして来る。支那人は支那丈がよくなればよい、満洲人は満洲丈がよくなればよいという事になって、決して世界の為にと云う、そこ迄進んで来ない。英国は英国、又伊太利は、伊太利丈、これは皆総て自己愛であって、神様の御目から御覧になれば、愛悪というものであります。
故に吾々は、どうしても世界の愛善でなくてはならないと感じて居るものであります。
人類愛善
曩に大正十年の七月からは、エスペラントを研究する事になりましたが、これも、エスペラントの精神は、言葉が通じないが為に互いに要らざる争論が出来、衝突が出来て、世の中に紛乱が絶えない。それ故に言葉を統一したいと云うので、ザーメンホフ博士がエスペラントをこしらえたのでありますが、その精神は言葉でなくして、本当の目的は、人類愛善にあったのであります。
併し乍ら世界は中々広いので、どれ程努力しても五年や十年では、本当の完成を来たす事は出来ないのである。吾々は、どうしても人類愛善でなければ、この世界の本当の平和・本当の幸福は求められないという事を感じましたが故に、蒙古から帰る早々人類愛善会なるものを創立したのであります。
人類愛善会は、外に向ってこの皇道を説く。愛善を説く皇道大本の精神と人類愛善会の精神は同じ事で、少しも違わない。けれども皇道大本の名は、余りに誤解されて居りますので、その時代は人類愛善と名を変えて、海外に向う事にしたのであります。併し言霊学上、語源を調べますと、人の「人」という言葉は「オ」になり、「類」は「ホ」になり、「愛」は「モ」になり、「善」は「ト」になるのであります。そうすると言霊から云えば、「人類愛善会」と云う事は、矢張り「大本」という事になるのであります。
人類愛善の世界的高揚
人類愛善会を創立した時には、色々田舎の新聞などに、人類愛善会というものを又王仁が拵えて、あれは看板の塗替えをやって居るのだという事を書いて居りました。あれはそういう意味にとられても、仕方がないのである。新しい人類愛善会という名により、信者以外の人でも、又宗教の如何を間わず、学者無学者を間わず、高下を間わず、総てこれに賛成する人を人類愛善会員とする方針を以て進んで来ましたが、愛善会支部も殆ど一千二、三百も出来た様な盛況であります。今後益々世界に向って、人類愛善の精神を宣伝拡張せなくてはならないのであります。
今日エチオピアと伊太利が紛争して居りますが、これも矢張り、英国その他の国々の傀儡であり、またそういう国々の自己愛の犠牲になって、踊らされて居るのであって、決して伊エ両国のみが本当に戦うて居るのではないのであります。これも人類愛が徹底して居ったならば、決してこういう事はない。
富める者も貧しき者も
併しどうしても、人間というものは、勝手気儘が多くて、自分の得意時代には、失意時代の人の事を構わないものであります。失意時代になって初めて、人の難儀・苦労が分って来る。故にどれ程叫んでも、得意時代にある人は、中々大本の教も、人類愛善の主旨も耳にはいらんのであります。キリストの聖書にも、「富める者の信仰に入るのは、針の穴に駱駝を通す程六ヶしい」と書いてある。実にこれは至書であります。何か一つの躓きがあり、何かあって進退谷った時に、初めて神に手を合わすのであって、そうならなければ、金が神様だと思い、自分の智慧が神様だと思い、色々と誤解して居って本当の道にはいらず、死後の霊魂は必ず地獄へ落ちる様な憐れな人が多いのであります。
故に吾々の人類愛善会は、富める人も、矢張り六ケしとせずして、何処迄も愛善の精神になって導いて、そうして精神上の憐れな方を、天国に救わねばならないと思うのであります。
物質に富める人は、精神上の徳に光りに乏しく、又物質に乏しい人は、精神上の光りに富んで居るのであります。人間というものは、何程長生しても先ず百歳前後であります。本当に長生しようと思えば、百三十歳迄行ける。けれども、これは、百三十歳迄生きようと思うと、子供の時から赤ん坊の心で続いて来ぬと中々行かない。吾々の如き者は、世の中の色々な風波に乗ぜられ、せめられ、そうして自然を余程損ねて、先ず六十年の間に、二十年や三十年の生命は損をして居るのであります。併し乍ら、これは心得一つで、取り返されない事もないのであります。
で、この人類愛善の精神は、皇道大本の精神と同じ事で、肉体的の生命もなるべく永らえ、そしてその生命のある中に愛善の為め、世界愛善の神業に尽したいのである。又この短い人生に於いて、力一杯善い事をしておいて、限り無き無量寿の天界へ行って、そして無限の生命を保ち、無限の活動をしたいという目的が、即ち吾々の目的であります。故に愛すると云うても、これは本当の高所大所から見て、人類というものを本に置いてやらなかったならば、動もすれば、偏狭な愛になり、自己愛になり易いのであります。自己愛は、一名地獄愛と云うのであります。中々愛という事は、何でも愛なり、金を見ても愛する、花を見ても愛する、別嬪を見ても愛する。けれどもその中に愛善と愛悪という事がありますから、愛善という事は神の愛であって、極く公平無私な一つも無理のない愛を愛善と云います。今日の「愛」というているのは、大抵愛悪であります。故に愛善会員は、愛善の精神を以て、天地を浄化する事に努められん事を希望します。
私が蒙古に行った時に、蒙古人にも接し、支那人にも接し、又銃殺にも遭いかけ、油かけて焼殺されようともしましたが、それでもその時の官吏・監視人・警察官は、個人としては、蒙古人でも何でも、非常に親切でありました。これを考えますと、この人類愛善の精神が徹底したならば、こちらのものが本当の人類愛善の精神をもってかかったならば、如何なる国の国民も手をつないで、兄弟の如く姉妹の如く世の中は太平に治まるものと、私は固く信じて居るのであります。故に国民同志が鎬を削り、互に悪み争う様なことは、実に人類愛善の精神上、或は皇道大本の精神から、矛盾した事と考えるのであります。
どうかこの精神をもって、愛悪にならぬ様、偏狭愛にならぬ様に、自己愛にならぬ様に、国民と云わず、世界人類一般に向って働きかけて貰いたいと思うのであります。
(「真如の光」、昭和十年八月号)