文献名1出口王仁三郎著作集 第3巻 愛と美といのち
文献名2美 >うたの道よみ(新仮名遣い)
文献名3盆踊りよみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
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日本全国いたるところ中元にあたつて、盆踊りなるものが古来行なわれた。今は若き男女の間にハイカラ的気風がさかんになつたため、盆踊りも昔日のごとくはずまなくなつたが、自分らが壮年の頃には、ずいぶんさかんに流行したものである。すべての踊りは、舞とはその趣おおいに異なり、舞は音楽の部類に属し、神楽などとともに、一曲ごとにその手のあるものなれど、踊りにいたつてはしからず。大勢の男女が相集まつて、一人が中央の高台にあがり音頭をとれば、その歌の文句につれて大勢の老若男女が、いつせいに手を拍ち足を踏みならし、拍子をとつて踊りまわるものである。
亀岡地方にては、丸一節という、流暢な勇壮な浄瑠璃崩しの音頭が古来伝わつていて、盆の季節になると、若い連中が一年中の楽しみとして、音頭を歌つたり踊つたりするのである。なかなか傍に立つて見聞しているのが愉快であつて、しらずしらずの間に夜を更かすのである。踊りのやりかたは、大勢が丸く輪をつくりたり、縦や横に立ちつづいて音頭の声にしたがい、おなじ拍子に手を拍つていつせいに踊り歩くのである。
それに添えて福知山踊りなどは、三味線、太鼓、笛などを用いて興趣を添えるようになつたのは、いつの頃より始まりしか、吾人にはまだ研究はしていない。この踊りは神事にも仏事にもする遊びで、諸国盆踊り唱歌というものをみれば、五畿内七道の諸国にみな行なわれているが、全部盆踊りのみではないが、踊りの名の広く世に聞こえたるを調べてみれば、
木曾節 風流踊 七夕踊 堂内踊 豊年踊
小町踊 神 踊 念仏踊 御葭踊 題目踊
伊勢踊 都 踊 加茂川踊 難波踊 兵庫踊
住吉踊 鹿島踊 岡崎踊 上総踊 雑賀踊
日野踊 土佐踊 雨乞踊 燈籠踊 羯鼓踊
綾 踊 蛇 踊 戯瓢踊 宝殿踊 筑子踊
火 踊 裸体踊 焼酎踊 奴 踊 雀 踊
蛸魚踊 坊主踊 おかめ踊 すててこ踊 竜神踊
でんでこ踊 ちやりまい踊土亀踊 甚句踊
など、まだまだたくさんな種類があるだろう。そのなかにも淡路の火踊りや、過ぎし年の京の豊年踊りなどは、ちよつと珍しいものである。
さて淡路の内膳村の火踊りは、例年七月十六日の夕方、一村百二十余家の先祖代々の亡霊の数をかぞえて、松明をつくり、これをたずさえて墓所に参詣し、墓の後ろの山の中腹まで登り、平地の場所をえらんで踊りをはじめる。そして一人ごとに左手に松明を持ち、右手には笹の枝を持ち、これを振りまわして、輪のようにつらなりまわりて太鼓を打ち、鉦を鳴らし、音頭の拍子に合わして踊る。また新しい精霊のある家の人々は、下の墓所において踊ること山腹のごとくするという。墓所にて、家々より燈篭を懸けならべて白昼のごとく明るきに、山腹の平地にては数番の踊りの間に、手に持てる松明を、山下の踊りのなかに投げつけること矢石を飛ばすごとくなるを、下の踊り子はその松明をうちはらい、地に落ちた松明を取つてはすぐに空中に投げ上げなどして、一種の奇観を添うという奇抜な踊りである。
またその昔、天保年間にありしことに、京都にて豊年踊りがあつた時、老若男女が種々の趣向をこらした衣装をつけて、百人、二百人、あるいは千人ずつ一組となり、昼夜間断なく市中を踊り歩き、何人の住家のきらいなく踊り入り、土足のままにて、玄関式台等に上がりて踊り跳ね、はなはだしきは座敷にも上がりて踊り狂い、根太板を踏み抜きたりしことありという。
また永禄十年には、駿河国に一種の風流踊りなるもの流行し、老若男女は狂気のごとくなりて踊り狂いたりしが、その最初は、八幡村という片田舎よりおこりて隣村に踊り入り、隣村は踊りかえしといつて、また諸人がわれ一と踊りかけたるほどに、漸々にひろまりゆきて、八月の末九月ごろまでやまなかつたという。またおなじ頃のこと、織田、浅井両家の若者たちが懸踊りというをはじめてたがいに挑み合うた。織田家方の踊りかけたるには、
浅井の城は 小さい城や ああよい
茶の子 朝茶の子
と歌つたので、浅井家方のかえしには
浅井の城を 茶の子とおじやる
赤飯茶の子 こわい茶の子
と歌い、また
信長どのは 橋の下の土亀
ひよつと出て 引つ込み
ひよつと出て 引つ込む
今一度出たら首を取ろ
など唄つて踊りまわつたおもしろい話がある。
(「月明」 昭和2年3月)