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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第1章 >3 出口家入りと結婚よみ(新仮名遣い)
文献名3出口家入りよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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ページ42 目次メモ
OBC B195401c1131
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本文  一八五三(嘉永六)年、なおは一七才で綾部の叔母出口ゆりの養女となった。出口家は、何鹿郡綾部組坪内村にあって、一八七二(明治五)年の戸籍では士族となっている。出口家の家系については、四道将軍の一人丹波道主命が始祖であり、その子孫が綾部に居住し、また丹波郡丹波村真奈井で豊受大神に奉仕していたが、雄略天皇の時代に伊勢国に豊受大神を遷座し、出口家の子孫の一部もそれにしたがい、伊勢外宮の神官出口氏となった、ともいわれている。しかし、家系については、よるべき史料はなく、のちに、元伊勢信仰と結びつけていわれるようになったものであろう。
 出口家で、なおの祖母にあたるさよは、天田郡川合村字大原小字奥山の太郎兵衛の子(政五郎と襲名)を夫にむかえた。しかしこの政五郎夫婦には子供がなかったので、やはり奥山の太郎兵衛家から政平を養子にもらい、綾部上町の出口惣右衛門家から、ゆりを妻にむかえたが、この夫婦にも子供がなかった。ゆりは、なおの母そよの妹である。政平夫婦は、なおが小さいときから気にいっており、養女にしたいと思っていた。ゆりはそのためにカンザシやコウガイを買って、なおにあたえかわいがっていたが、なおは政平にはどうしてもなつかなかったという。一八四六(弘化三)年政平が死んで、寡婦となったゆりは、綾部組味方村の井田太平から、なおより五才年長の菊蔵を養子にむかえ、大工の見習いをさせていた。ゆりは菊蔵となおを結婚させるつもりであったが、菊蔵は一八五〇(嘉永三)年一九才で若死した。
 ゆりには政平に嫁す前に、加佐郡河守にいいなずけの間柄の人がいて、その人も妻を失っているというので、やがて往来するようになった。
 しかし、ゆりのこの行動は世間の噂になり、政平の実兄喜平や本家筋の出口常七からは反対された。彼らは、寡婦となり立場の弱くなったゆりから、この問題を利用して出口家の財産を横領しようとしたということである。
 祖父にあたる政五郎とさよの夫婦はよく働き、二階建の家や倉・田畑山林をもっていて出口家はかなり裕福であったが、政平は病弱で財産を減らす一方だった。そして政平と菊蔵が死ぬと、出口家の家計はだんだんに苦しくなっていったようである。ちょうどこういう時期に、ゆりは再婚問題で親戚からいじめられて孤立し、苦境におちいって、いまはただ桐村家の母子を頼りとするほかなくなっていた。一七才のなおは、こういう状態の出口家に養女として入ったが、もともと気のすすまなかったなおは、ゆりをきらい、半年ばかりで福知山に帰ってしまった。
 なおに去られてしまった叔母のゆりは、ことごとに自分をにくむ喜平らの仕打をいきどおり、ある日桐村家に来て、なおの親につくづくと訴え、ぜひ、なおに出口家の跡を相続し、先祖のまつりをたやさないようにしてくれとたのんだ。そして、よほど兄喜平の仕打ちが口惜しかったと見え、ぞっとするような形相で「きっと死んで取憑き、どぶつぼにはめて、黒焦げにしてやらねば腹が癒えぬ」と叫びながら出ていったという。ゆりはその晩、河守の男の家に近づき、かげで別れを告げたのち、ついに志賀郷で井戸に身を投げて非業の最期をとげた。一八五四(安政元)年、ゆりは四九才であった。このことがあって、しばらくたったある夜のことである。ゆりの霊が、なおの枕辺にあらわれ、なおが綾部から福知山に帰っていることをはげしくせめ、屋根の瓦をはがしてどんどん投げつけ、「今日で三日も四日も、茶も水ももらえんのじゃがえ」となじったという。そこで、なおは「綾部へ行きます、行きます」と答えながら、布団を頭からかぶってふるえあがった。それ以来、ゆりのはげしい死霊におそれおののいたなおは、どっと寝ついてしまい、一時は、なおが死んだと近所で噂されるほどの重態となった。
 ゆりの最後の希望は、なおによる出口家の再興にあったから、なおは、ゆりの自殺によって出口家に堅く結びつけられることになり、ゆりが死んだ翌(一八五五)年の春、なおは心が動いていた結婚の話をあきらめて、ふたたび綾部に来た。ゆりをいじめた喜平は横死してその家は全焼し、出口常七も不治の病にない、その一家は死にたえたという。もっとも感受性にとんだ年頃における、こうした霊的な体験は、その後のなおに大きな影響を与えてゆく。
 なおは、再度綾部へ来て間もなく、一八五五(安政二)年三月二〇日(旧二月三日)に一九才で、本宮村の大工辻村藤兵衛の媒酌により、中筋村字岡の四方治郎兵衛の五男、豊助(二八才)と結婚した。豊助は出口家の婿養子となり、出口政五郎を襲名した。なおの心はこのときまで、一六才の時の縁談の相手に動いていたようであるが、出口家相続のために、その希望をおさえた。
 「もし、自分が筈巻へ行っていたら……」とか、「筈巻の儀右衛門が本当の身魂の夫で……」とかと、なおがのちに記しているのがそれであって、天田郡庵我村字中村の林助という青年がその人である。その林助とは親族の間柄で、なおをぜひ嫁にくれ、結婚したのちは福知山町に出て夫婦で商売をするからといっていた。そこで、なおもその方にとつぐはずであったが、綾部の叔母の懇望によって、この縁談はとりやめとなった。そのため林助も、なおが綾部の出口家に入ると同時に、同村筈巻の大島家へ養子入りして儀右衛門の名をついだ。
 政五郎は、背はあまり高くなかったが、「何をさしても一人半の仕事をする」ガッチリした健康な大工職人で、一貫五百文の借金と、大工弟子三人を連れて出口家に婿入りした。政五郎には結婚以前に、おみとという恋人があって、一貫五百文の借金はそのためにできたものである。なおと結婚して次女が生まれた時、想い出をとどめて、政五郎はその次女に、おみとという名をつけていたが、その子が畑の野壺に落ちて命拾いをしたのち、なおは、この子を、ことと改名した。
 政五郎の人柄について、五女のすみ(二代教主)の『つきぬおもいで』に、「父上は十里四方の赤子まで、知らぬ人なき楽天家にて、母の苦労は思いやらるる。借ったお金は払わねば心のすまぬ生れつき。貸したお金はよう取らぬ、催促するのがいやな人。頭はよいが酒が好き、これでは貧乏しようより仕方がありません。大工は腕がたつ人で近隣の大工からしっとされたくらいで、大普請の棟を三百軒あげたそうで、ただ一ぺん柱を切り短かったが、それも素人にはわからなんだそうです。とにかく、阿呆口ばかり言いもって絵図面をひいているので、普請先の旦那が、何程頭がよくても、図面をひくのに、あんなおどけを言いもってでは、仕損いしてではないかと案じられたそうですが、仕上がりてみると、どこ一つ不調法はなかった。珍らしき腕の達者な人でありました」と記している。

〔写真〕
○比沼麻奈為神社 p43
○ゆりの夫・政平の戸籍 p44
○政五郎のつくった籠堂の天井 p45
○政五郎作のお宮 p46
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