文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第1章 >4 維新の時世と生活苦よみ(新仮名遣い)
文献名3生活の流転よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2022-11-15 02:21:20
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こうした動向の中で、一八七二(明治五)年、なお夫婦は、ついに住みなれた二階家を売って土蔵の二階に住むことになった。生活にゆきづまった、なおと政五郎は、長女よね(一六才)を西町の忠兵衛方へ、次女こと(一〇才)を子守として福知山岡の段の桐村清兵衛(なおの兄)へそれぞれ奉公に出し、なおは働きざかりをすぎた夫を助け、普請現場へ出かけて、壁下地作りや、土あげや、瓦はこびなどの手伝い仕事をした。こうして土蔵で半年ばかりすごしたが、ここもついに人手に渡し、上町三〇番地(現在の金竜餅屋の筋向い)の借家に移転した。いよいよ夫の収入だけでは困るようになり飲食店を開業した。煮豆腐や、少女のころ奉公先で覚えた饅頭などもつくって売り、柏の葉のある季節には柏餅もつくった。
政五郎は、毎日僅かの道具を手拭に包み、右手にぶらさげて出かけた。道具箱すらなくした夫のみじめな後姿を、なおはつくづく淋しいと思って眺めるのであった。「経歴の神諭」には「貸したものはよう取らず、借りたものは返さねばならぬ。仕事は誠によく致したなれど何も構わぬ人で、寡婦のように思うて暮して来た出口でありたのざぞよ。……働いて、人の目につくほど働いて居りて、ありたけの物を皆売りてしもうたので、出口は何いたしてでも糊口は致さなならんということは胸に離れなんだのざぞよ。饅頭屋も二十年いたしてありたのは、大工は弟子を取りてあり、弟子を厳しく使うのが嫌で、わたしが何なりと弟子置く代りに饅頭屋をするで、もう弟子はやめにしておくれと申し……」(明治35・旧9・28)とある。なおがいつごろから自分を「寡婦のように思うて暮して来た」かは明らかにできないけれども、一八七二年、これまでの住居を売り払って土蔵に住み、やがて上町に移住したことが、なおの決心を固めさせたことは疑えない。なおは「何いたしてでも糊口は致さなならん」と、家の生活を自分の肩に荷う決意をして、饅頭屋をはじめたのである。後年のなおは「筈巻の儀右衛門が本当の身魂の夫で、政五郎は種取りであった」とのべたといわれるが、それは筈巻へさえ嫁いでいたら何不自由なく暮せたのに……という意味とともに、この時代の、なおの苦悩の深さをあらわすものであろう。封建的な「家」という制度のなかにとじこめられたなおは、「家」のために自分をどこまでも犠牲にしなければならなかった。
しかし政五郎は、あいかわらず、貧乏などどこふく風と、ひょうきんな子供のような性格を発揮していた。仕事にでかけるにもわざわざ遠回りをして、親子けんかの絶えないことで有名な家の前に、大工道具をおき、鉋と鉋を拍子木にちょんちょんと叩いて、「東西東西、今度一本木このところにおきまして、芝居興行十日間相勤めまする、狂言は鍋釜投げ、鉢割り……」と、ふれ歩くといった調子であった。
明治七、八年ごろ、政五郎はますます酒がはげしくなり、そのうえ三度の食事よりも巡業の野芝居が好きになって、長い時は二〇日も家をあけることがあった。そして、帰ってくるといかにも楽しそうであった。弁当がいるといえば、なおは裏畑から芋や野菜をとって支度をして送り出した。子供たちが「お母さんは、夫ぼけだなあ」と言ったというほどに夫に尽くした。政五郎は借金取りがきても平気で屈託もなく、「オイもう三日ほどしたら来ておくれ」などといっていた。そういうその場逃れのでたらめな返事をする夫が、正直ななおにはたまらないつらさであった。
上町では四年間飲食店をしたが、あまり思うようにゆかず、店を閉じて川糸村の借家に一時移住したが、一八七六(明治九)年、元の屋敷(新宮坪の内)に土地が七、八坪残してあったので、そこへ夫婦して材木を運び、小さな住まいを建てた。べにがら色に塗って、その家が仕上がると、政五郎は「稲荷のような家建てて、鈴はなれどうちはガラガラ」などとうたった。その家の南側に小さな神床とならんで仏壇があり、西側の道路の方に障子を立て北側を入口として、そこへ饅頭をならべて売った。入口に続いて北側を土間とし、東側には親子三人で川から石を運び、井戸(後の銀明水)を掘り、少し離れたところに高倉明神をまつった祠をおいた。
なおは、成人後もずっと厚い信仰をもちつづけ、どこに移っても神床を設けた。いわゆる三社の「天照皇大神・八幡大菩薩・春日大明神」の軸をかけ、「天照皇大神様・日天様・月天様・天道様・うれし権現様・七社大明神様・日本国中の神々様・御眷族様」と唱えて合掌した。神床に隣接して、仏様と御霊様をまつり、茶湯を献じ、その残りは「餓鬼に進ぜましょう」といって溝に放して無縁仏に供えたという。なおが信仰心があつかったため、その昔、母親が福知山から来るときには、よく火打金をさとみやげに持って来ていたという。
また、なおは毎年大晦日の晩には、神床や仏壇に麦飯を鉢に盛ってお供えした。そして子供たちに「お水のご恩というものは、この世の中で一番大きいのじゃが、誰もその恩を返すことを知らぬ。お水のご恩は毎年大晦日に夜通し起きて、なんでも手にある仕事をしもって返すものじゃよ。水は決して無駄に使わないように」とさとしながら、つくろいものなどをして徹夜したという。こうしてなおは、封建社会からひきついだ雑多な諸神諸仏のとりまく宗教的雰囲気の中で生活し、これらの神々にたいする信仰を苦しい生活のささえとしていた。このころのなおは、目の鋭い威厳のあるしっかり者であった。近所の人たちが家事上の相談に来たというのもこのころのことであろう。子供たちには大声でしかることはなく、鋭い目で制するだけであったという。なおは「親が貧乏すりゃ子は巾着で、どんな人にも下げられる」とうたって、子供たちにくり返しさとした。次女のことは、はじめて会った人に「なんぞお呉れいなア」とねだって、なおににらみつけられ、そのときのこわさが心に残ったという。なおは幼少のころから誇り高い人間であったが、貧乏になればなるほど、他人からうしろ指をさされることがないようにと、なみはずれて気ままな夫と幼い子供をかかえて心を悩ませた。
子供は成長してよねは一八才、ことは一二才をむかえた。よねは、大槻鹿造というばくち打ちと恋愛関係にあったが、政五郎は鹿造の人柄をきらって結婚を許さなかった。一八七五(明治八)年よねが一九才になると、政五郎の弟の世話で綾部広小路の百姓の与喜にとついだが、よねははじめからそこをきらって、半年もたたぬまに、大槻鹿造にさそわれて、その妻となった。政五郎夫婦は大いに立腹し、世間の義理があるので、よねを絶縁した。大槻鹿造は綾部の北西町という百姓町に住む顔役で、人にこわがられていたが、才覚もあり商売はなかなかうまかった。明治維新の激動期に、士族が職業をもち始めたころ、町では珍しがられる最初の牛肉屋を開業してよく繁昌した。よねも器用で、髪結業をして、これもよく流行った。赤貧の出口家と経済的に豊かなよねの家は対照的で、絶縁の溝をますます深めた。よねは生来気のやさしいところがあって、自分の不義理を許してもらいたく、ひそかに親の家をのぞいては帰るというふうであった。出口家も、一年たった今となっては仕方なく、よねを大槻家に入籍させたが、ゆききするようになったのはずっとのちのことで、よねが大病になってからであった。
ことは、貧しいわが家や田舎の奉公先をいやがって、はなやかな都会の生活をあこがれ、荷物を、よねの家にあずけて、ひそかに京都へ出てしまった。
一八七九(明治一二)年、なお夫婦は一一才のひさを政五郎の生家に預けた。そして、その翌年にりょうが生まれた。その年三男の伝吉(二才)を、鹿造が、「子供がないのでぜひ養子にくれ」といってつれて帰った。のち、伝吉は大槻家に入籍した。さらに、一八八一(明治一四)年に京都に出発していた次女こと(一九才)が、篠村の王子で旅館をしていた栗山儀助と結婚した。若者になった長男の竹造については、大工にするつもりで、政五郎の弟子であった興村の吉蔵のもとに弟子入りすることになっていたが、病気がちの竹造は、興村は食物がまずいからといって弟子入りをのばし、一八八二(明治一五)年一八才で、ようやく吉蔵のところへ行った。
これで家に残ったのは一〇才の清吉と乳呑児のりょうだけになったが、翌一八八三(明治一六)年二月三日、寒い大雪の日に、なおは四七才で末子のすみ(二代教主)を産んだ。この日も、政五郎は前日から位田の河原で興業中の芝居見物に出かけていた。暇さえあれば、今日は吉美村の里、明日は位田の河原、つぎは福知山へと芝居を追ってゆくのである。
〔図表〕
○第1章・第2章の関係地図(福知山・綾部を中心として-園部・亀岡付近は173頁を参照) p61
〔写真〕
○元屋敷の井戸の石積み p63
○すみ(二代教主)とその兄姉(大正の初期) p66