文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第1章 >4 維新の時世と生活苦よみ(新仮名遣い)
文献名3民衆の苦悩よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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開港以来、関東や信州の養蚕地帯では外国貿易の刺激をうけて急速な養蚕業の発展をみたが、この地方では従来のように、山の傾斜地や畦畔などに桑を植えて養蚕をする程度で、その品質もよくなかった。けれども、生糸の輸出は、明治初期の日本ではもっとも利益の多い産業であったから、蚕糸業発展の機運に便乗しようとする動きは、この地方でもはじまった。一八七二(明治五)年には、綾部に生糸改会社がつくられ、つづいて蚕種製造組合がつくられて、有力商人を中心として生産の増大、品質の改良、販売の独占がはかられてくる。そして、この動きの推進者の一人であった綾部の商人堀勘七は、同じころ輸出用の細糸製造のために四〇人挽の手挽工場をつくった。明治のごく初期のこの種の試みはほとんど失敗したが、一八七九(明治一二)年には、座繰製糸伝習所ができて座繰製糸がとり入れられ、一八八二(明治一五)年には機械製糸が導入された。こうした製糸技術の根本的な変革によって、資本主義的工場経営が可能となり、何鹿郡の蚕糸業は、明治一〇年代に、本格的な発展の基礎をかためたのである。
右のような地方ブルジョアジーの経済的発展と、その政治的自覚を基盤として、この地方でも自由民権運動がひろがってくる。丹波は自由民権運動がとくに発展した地帯ではないが、自由党の関西における別動隊である立憲政党の党員名簿(一八八二年一〇月)によれば、北桑田郡四、何鹿郡三三、氷上郡一六、船井郡一六五、天田郡六人の党員がおり、綾部関係では本宮村一、本宮町二、綾部町三人の党員が記録されている。綾部地方における実際的な運動としては、一八八一(明治一四)年、何鹿郡の酒造仲間が酒造税問題で府知事に不当を訴えており、同年八月には西福院に本宮の有志が集まって懇親会を開き、会則をきめて毎月一日と一五日に集会を開いて、漸次郡中にひろめることをきめている。民権運動は、はじめは一部の知識人やブルジョアジーからはじまり、次第に広範な一般民衆をまきこみ、はげしい闘争形態をとるにいたったが、この地方では運動の主導権は終始上層の商人に握られていた。少なくとも右の党員名簿にみえるものは、綾部では油商や質商のような比較的利益の多い事業をいとなみ、のちには府会議員になってような人々であった。こういう人々こそ、かつて福知山の大一揆で、民衆が打ちこわした商人・地主たちの後裔であり、いま、なおの一家に代表されるような困窮した一般民衆の、あらたな主人公となりつつある人々であった。
「神諭」には「国会開きは人民が何時までかかりても開けんぞよ」(明治25・1)ということばがあるが、自由民権運動によっても救われない下層の民衆の苦悩こそ、大本思想の母胎であった。一八八一年にはじまる政府のデフレーション政策は、これら下層の民衆の生活を困窮のどん底につきおとした。不換紙幣の整理・デフレーション・間接税の増徴などの一連の政策は、米・マユ・綿などの価格を急速に下落させ、小さな地方企業はどんどん破産し、地租を払えなくなった農民の土地は、ただちに公売処分に付された。一八八三~七(明治一六~二〇)年ごろは、土地を手離す農民がもっとも多かった時期であり、独立した小生産者たちを苛酷に収奪する過程が、もっとも急速に進行した時期であった。自由民権運動は一八八二年末には分裂し、大部分は政府と協調する方向に進み、一部は民衆の困苦を背景に急進的な暴動化への方向にむかった。なおと政五郎の一家が「戸を閉めた」のは、まさにこのような時、一八八四(明治一七)年であった。「戸を閉める」とは、借金の支払いができなくなって身代限りをすることで、これまでのような世間づきあいができなくなることを意味する。
なおは赤児のすみを抱き、四才のりょうを背に、毎晩遅くまで、約四升の米を粉にひいて饅頭(あみがさ餅)をつくった。それを小さい箱に二箱ほど入れて、一二才の清吉が一個三厘ぐらいで売り歩き、資金をつくっては米を買い、また粉にしては饅頭をつくるという難渋な生活をつづけ、下駄の鼻緒つくりもした。こういう時には、親類や隣組の者が寄って、無尽とか頼母子講をつくって助ける習慣があった。
その年の冬の夜、親類縁者や近隣の人が、出口家の破産状態を救う講に集まった。しかし、肝心の主人政五郎が、あさ家を出て行ったきり帰ってこないので、なおは気が気でなく、すみを背中におぶったまま雪のなかを探して歩いたが、とうとうその夜は帰らなかった。夜もふけると集まった人は「本人があまり呑気すぎる、おなおさんがかわいそうじゃ」などと言いながら解散した。
なおは、夫をあてにして人様に迷惑をかけるのはしのびない。もう自分は寡婦のようなものだと覚悟し、いっさい自分のかせぎで生活しなければならない、という決心を固めた。饅頭屋は一〇年あまりもつづいていたが、そのかたわら、夏などには二人の子をおいて北桑田郡へ糸ひきの出稼ぎにもでた。明治二〇年代に入ると、急速に機械製糸になってゆくこの地方の製糸業も、このころはまだ手挽きが多かったが、なおは糸ひきが上手であったという。
〔写真〕
○粒々皆辛苦 収穫の半分以上を小作料として収奪される小作人の生活はきびしかった p68