文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第3章 >4 労働と勉学よみ(新仮名遣い)
文献名3「喜楽はん」と冠句よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2020-09-13 01:53:57
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喜三郎青年はよく働き、よく学んだ。けれども、それはけっしてゆとりのないものではなかった。時には大いに村人と遊んだこともある。青年時代は、体は比較的弱い方であったので、徴兵検査(二〇才)は身長一・六一メートル(五尺二寸)で乙種予備兵に編入され、兵隊には行かなかった。
喜三郎は、当時流行した大衆文芸ともいうべき冠句に興味をもち、度変窟烏峰宗匠朝寝坊閑楽という宗匠に学んだ。一八九一(明治二四)年には、偕行社という冠句のサークルをつくり、村上信太郎を社長とし、自分は幹事をつとめたりしていたが、冠句の会に出句して天位をもらい、三年間引つづいて冠句の巻を四八冊とったという。このころから「喜楽」という号を用いるようになり、村でのよび名にも「喜楽はん」が使われるようになった。また「あほら誌」という月刊雑誌に、狂歌・狂句・都々逸・戯文などを、毎月かかさず投書して楽しんでいた。
この時代、東京・大阪をはじめ、都会では、欧米に倣った近代文化が、徐々に根をおろしつつあったが、喜三郎の環境は、こうした新しい文化のうごきからはへだたっていた。喜三郎は、江戸時代から連綿とうけつがれてきた大衆文芸の枠のなかで、自己の感情と思想を表現している。偕行社創立一周年の奉額冠句集(小幡神社所蔵)には〝かりてきた智恵ではいかぬ椅子の論〟とか、〝栄え行く悪魔しりぞく慈悲ごころ〟とかの感懐がのべられ、さらに〝信あれば幸いの風ひとり福〟とかと歌われたりしている。〝こころのかがみ天下一〟などという心境には、当時の喜楽の面目躍如たるものがある。
あるときなどは、喜三郎は、友だちと一円(当時の米一升の価格は四銭たらずであった)の金をかけて、醤油五合(〇・九リットル)の飲みくらべをやった。やっとのことで、五合を飲んで勝つには勝ったが、ノドがかわき、腹はくだるというていたらくで、忙しい農繁期に一五日も寝こんでしまい、父にひどく叱られたという。こういう負けずぎらいの一面は、幼な友達の間でも長く語り伝えられていた。
〔写真〕
○小幡神社の奉額冠句(小幡神社蔵)父の眼をぬすみて土に木片もて色々の絵をかきて楽しむ 十人の家族の生活ささへんと重き車をひきてかせぎぬ あほら誌や団々珍聞に投書して記事ののり来る日を待つ楽しさ p128