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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第5章 >1 喜三郎の参綾よみ(新仮名遣い)
文献名3開祖の使者よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
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ページ175 目次メモ
OBC B195401c1514
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本文  そのころ綾部では、開祖と、足立ら金光教側との対立がますます強まってきた。当時は、開祖にひきつけられてきた信者たちも、日頃の信仰生活のうえでは、足立らの説く金光教の教義をきき、金光教の神も拝んでいた。足立らは開祖の筆先を完全に無視していたから、実説的には、金光教の一支部という形態をとっていた。開祖からすれば、こうした金光側のやり方は、「うしとらのこんじんにてきとう」ものであり、「金光殿にもたれておりたら、物事が遅くなりて間にあわぬぞよ」とされた。明治三一年一二月二六日の神諭でも、大望な経綸を知っている「誠の人」が世界に一人いる、と喜三郎を暗示し、「金光殿の取次えらそうに申しておりても、誠の御方がお出なさりたなれば、後へ寄りて頭をかいておる事が出来るぞよ……今では艮の金神を別物のように申して、敵対うてござるが、さっぱり世の調査を致して、新たまりての世に致すのであるから、今までの事を申して覇張りておりても、何にもならぬぞよ」とのべられている。また同日付の神諭には「まことの人を西と東に立てわけて、この艮の金神がうつりて御用がさしてありたのざぞよ」とも記されている。
 一八九九(明治三二)年二月一〇日、かねて綾部の動向を察知し、道への確信をいだいていた喜三郎は、園部の黒田から開祖にあてて、はじめて手紙を送った。そこには、神の国を建設する時期が迫ったこと、開祖は「大神の御宮居」であること、もはや罪にけがれし人々の言葉にためらわずに蹶起してほしいこと、厳の御魂の開祖と瑞の御魂の自分が「経糸と緯糸」のように協力して事をなすべきであること、などがのべられていた。これにたいして、開祖からは

うしとらのこんじんのふでさきであるぞよ。でぐちなおにかかすぞよ。めいじ三十二ねんの四がつ十二にちのふでさきであるぞよ。せかいには、おいおいと、たいもうがはじまるぞよ、このたいもうあるゆえに、でぐちなおに、めいじ二十五ねんから、ゆわしてあるぞよ。このたいもうがあるのに、まだこんこうどののとりつぎが、いまにうしとらのとんじんをてきとうておりては、よがひらけぬから……じんみんのしらぬことであるよって、なおがくるしみておるから、よろしくたのむぞよ

という筆先が喜三郎に送られてきた。開祖の方では、金光教側と対立しても大本独自の主張をしようと、なみなみならぬ決心ができたといえよう。
 さらに旧五月に入ると、「一日も早く表へ出せ」との筆先がでたので、開祖は足立をよび、「昨年まいりた上田という人と心をあわせて表へ出して下され」と相談した。ところが足立はこれに反対したので、つぎは四方平蔵に筆先をみせて相談したところ、平蔵は、田植えがすんだらさっそく上田をむかえに行こうということになった。当時開祖のもとでは、人が集まってくるごとに警察が干渉し、「無許可ノ集会ヲ禁ズル」として解散を命じられた。さりとて、公認教の金光教につくことは神さまが許されず、神さまのお示しの上田喜三郎を迎えて警察の許可をもらい、公然と開祖のもとに集まれるようにしよう、ということになったのである。しかし、開祖としては、稲荷講社の下になることも好まず、どうすれば表へでられるのか、喜三郎の意見をよく聞いておいてほしいとのことであった。
 四方平蔵は前もって、お迎えにゆきますからと喜三郎に手紙をだしておいた。七月一日のこと、喜三郎が園部川で魚とりをしていると、綾部からやってきた四方平蔵に声をかけられた。川から上がって扇屋旅館に行き、平蔵から綾部の様子や開祖の気持をくわしく聞き、喜三郎は再び綾部にでかけようと決意した。平蔵を扇屋に泊め、平蔵の知らぬ夜の間に、喜三郎は往復約三二キロの道を穴太に帰り、祖母や母に綾部行きの決心を報告して、産土の小幡神社に祈願をこめた。そして「ともかくも世界を救済するご用であるから、行ってくるがよかろう。しかし今度行ったら再び帰ってくることができぬ。種々の艱難辛苦をなめねばならぬが、神が充分保護をするから、彼について高天原に上ってくれ」という神示をえ、夜明けまでに園部に帰った。その道々、喜三郎は開祖の神を立て、金光教会との関係からはっきりはなれて、独立の教会をおこそうと考えた。そして警察の干渉にたいしては稲荷講社の名を借りることにしようと、静岡の長沢雄楯に手紙を書くなど、手早く綾部行きの準備をととのえた。
 喜三郎は、平蔵をともなって夕刻園部をたった。その夜は雨になり、桧山の樽屋旅館に一泊、あけて綾部に向かう道でのことを、四方平蔵は次のように語っている。(『木の花』昭和27・2)

雨はなお降りしきって、雷鳴さえも加わっております。平蔵が「これでは出発できますまい」とつぶやくと、先生はちょっと神様に伺われている様子でしたが、「九時までには晴れるから、大丈夫出発できる」と断言され、平蔵に「あんたは綾部だというておいでだが、あんたの家のあるところは大変な山家で、家の裏にきれいな水が湧いている溜池がありますわ。池の辺りには枝振りの面白い小さな松の木があり、少し右側の方の街道に沿うて小屋のようなものが見える。そこには駄菓子の店が出してあって、六十くらいのお婆さんが店番をしているようじゃ」と鷹栖村の平蔵の家を目の前に見ているように視とおして話されるのでした。平蔵は吃驚しながら、教祖さまが、かねがね稲荷使いというようなことを極端に嫌っておられることを思い出し、「あなたは稲荷さんを使われるのではありませんか。教祖さまは稲荷さんは大嫌いでありますから、万一そんなことが分かったらとんでもないことになりますゆえ、どうか魔法みたいなものだけは使わないようにして下さい」というと、先生は、「決して稲荷を使ったりするのではない。これは天眼通という霊学の一部で、あんたにこれくらいのことが分からんでは困るから、あんたにも一ぺん見せて上げる」と言われた。平蔵はいわれるままに、キチンと端座して両手を組み目をふさいでいると、先生が「それ見なさい」と言われましたが、不思議にも平蔵の目に、一軒の古い藁屋が見え、前横の方にもまた汚い家が一軒見えて、そこによい水の湧いている池が見えます。家の裏には、かやの木や椋の木の大木があり、細いきれいな小川が道のそばをチョロチョロと流れているのが見えるのです。平蔵は驚いて霊眼に見えた通りを話してみると、「今のは穴太の私の家です」と先生が言われるので、平蔵はすっかり感心してしまいました。

 以上のようなことがあって、四方平蔵は、上田を偉大な人と信じるようになり、よろこびいさんで綾部に向かった。金光教の教師・信者に知られまいと気をもみながら、裏みちをえらんで歩くという気のくばりようであった。こうして、開祖のもとについたのは午後三時過ぎであった。
 上田がふたたび参綾したのは、一八九九(明治三二)年七月三日(旧五月一六日)のことであり、開祖は六二才、上田は二七才であった。いよいよ聖師の大本入りが実現したのである。
 上田が綾部についた直後、静岡の稲荷講社から、開祖に中監督、四方に少監督の辞令が送られ、「堂々開設あれ」との添え文がとどいた。開祖は「四方平蔵、たいもうな、おせわして下されて、まことにけっこうであるぞよ。まんごまつだい名ののこるおんせわであるぞよ。このことじょうじゅしたらおん礼もうすぞよ……平蔵おんてがら」との筆先を書いて平蔵にわたし、「艮の金神を世に出すことができるようになった」ことをこころからよろこんだ。

〔写真〕
○四方平蔵 p175
○〝たて〟と〝よこ〟に関する筆先 p176
○上田家の産土の神-小幡神社 p177
○喜三郎の生家(左の小屋のみが往年の面影をのこしている) p178
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