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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第7章 >1 会長の教説よみ(新仮名遣い)
文献名3著作と布教よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
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ページ258 目次メモ
OBC B195401c1711
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本文  上田会長のご用については、筆先に「上田は是から筆先を説いて聞かせるご用ざぞよ。筆先ばかりでもこまかい事が判らんぞよ。上田には霊学が授けてあるのざぞよ。筆先と霊学とで世界の事を説いて聞かせば、皆改心がちっと出来るぞよ」(明治35・旧8・13)とあって、筆先の精神を霊学からといて教義をひろめる役とされていた。しかし、筆先ではまた小松林(会長の守護神)にたいする警告がしきりにでるので、役員たちは、会長が漢字まじりの教義を書いているのをみては、外国のやりかたであるとして、会長の教説を受け入れぬばかりか、そのころ会長が書いたものを焼いてしまうようなこともたびたびあった。「裏の神諭」には「変性女子の御魂に坤の金神を初め数多の神霊憑り玉ひて、予言なり、警告なり、教理など書き誌されしもの数千冊ありけるが、明治三十六年と同三十八年の二回に渡りて、大本の役員、変性女子の書きし物は残らず乱世の根本なりと誤解し、一所に山の如く集め、火を放ちて焼却したるを以て、今は只々一、二人の確実なる人の手に在りし小部分の残れるのみ」(『神霊界』大正6・11)とのべられているほどである。また回顧の歌集『百千鳥』には〝掛軸をひらきて見れば神の字と艮の字はきりぬきてあり〟〝立替と称して信者の床の間の掛軸あつめ切りぬきてあり〟とうたわれていて、会長の書いたものは、教義はもとより掛軸にいたるまで、「神」と「艮」の字を切り抜き、あとは焼きすてられたこともあった。この切り抜いた文字は蜜柑箱に入れ、一九三五(昭和一〇)年の第二次大本事件まで、鶴山穹天閣の二階に保存されていた。
 当時の役員たちは、筆先にみられる近代社会にたいする批判や素朴な用例を、文字どおり、そのままにうのみにして、現存する物質文明も、学問も、そして芸術も、すべて根本から一変するものと解釈していた。すなわち、洋服や肉食を否定したばかりか、世はまっ暗がりの世であるととなえて、白昼に提灯をつけて歩いたり、立替え立直しだといっては逆さまにひっくりかえったり、改心だといって極端な水行を重んじ、極度の粗食などをすすんでおこなったりした。そして、北清事変や日露戦争で、人民が三分となり、天変地異がおこると信じて、立替え立直しともなれば、洋服も靴も、あるいは工場も科学も、漢字などもすべてなくなると思っていた。したがって、会長が深夜に読書したり、執筆したりして、そのために朝寝をすることや、水行するよりも風呂に入ったり、時には布教にさいして洋服をきたりすることなどは、役員や信者の目からみれば、悪の鏡とうつった。会長もまた、物質文明を批判していたが、それは、物質文明の合理性や「理化学上の発見」を、全面的に否定したのではない。それらが、精神的文明と相ともなって発展しなかったことを批判していたのである。信仰的善意にあふれた役員・信者の迷信的行動のあやまりを自覚させるために、会長があえてとった行動が、それらの人々にはなかなか理解されなかった。そればかりか、会長を暗殺しようとする計画さえがめぐらされていた。会長が川合の大原に泊った時には、十人ばかりの暗殺隊がやってきて、会長を殺そうとした。事前にそのことを会長は察知していたが、それを知らぬていで大原を出発した。暗殺隊は上谷と西原との間にある、俗に地獄谷というところで、会長を待ちうけていた。会長が地獄谷にさしかかると、不思議に羽織の紐がほどけて羽織がぬげようとする。鎮魂をすると、暗殺隊が待ちぶせていることがわかってきた。会長が機先を制して「お前たちは、なにしにきたのか」と大喝すると、不意をつかれてうろたえた面々は、いいわけに困って「先生をお迎えにきたのだ」という。そこで会長は「馬鹿をいえ、こんなけしからんお迎えがどこにあるか。うしろには目が無いから、お前たちが先にたて」と命じて、自分は一行の一番あとからついてゆくことにした。そのため気味のわるくなった一行は、一人去り、二人去りして、なんの危害をくわえることもできなかった。たまたま、小松林の改心をせまる筆先がでると、役員らは、大本を去ってもらいたいと会長をせめるので、会長が大本からでてゆこうとすると、小松林には去ってもらいたいが、会長の肉体は神に因縁ある肉体であるから、おってもらわねばならぬという。すじの通らぬことばかりをいって会長を困らした。
 一九〇二(明治三五)年ごろ、西田は会長の意をうけて北桑田・船井地方の布教にあたり、大阪市谷町九丁目に住んでいた叔父の松本留吉方に滞在して、大阪の布教に従事した。その間に、溝口中佐・内藤正照らが信者となったが、そのころ、綾部からこっそり抜けだして園部で布教していた会長のもとに、溝口と内藤が訪ねてきて、その教説をきき、宣伝に力をつくすことを誓った。そののち、会長が大阪へ布教のため出張したが、内藤の家をさがしているうちに、ふとしたことで、金光教信者の阪井卯之助の家に立ち寄り、妻筆子の大病を即座になおしたことから、一家そろって入信した。それがきっかけとなって、「丹波より生き神様の来阪」とうわさがひろまり、集まってくる人々に神の教をとき、鎮魂をしていたが、そこへ溝口中佐が迎えにきて、砲兵工場へ案内してくれることになった。
 このとき会長は、燕尾服の最上等を新調し、工廠で三千人の職員に講演をした。それから、毎日曜日には講演をしたので、多くの者が共鳴した。大阪布教は、会長にとっては二度目のこころみであったが、このたびの布教はかなりの成功をおさめた。そこで、天王寺附近の一万余坪の土地を買収して、大阪本部を設置する計画がたてられた。発起人たちは、まず綾部の本部の様子をみてくることになり、発起者の一人高谷理太郎が綾部にでかけた。高谷が綾部にいってみると、役員らは会長をののしり、会長を相手にするなと話したので、この計画も結局立ち消えとなり、そのため、会長に寄りつくものが少なくなってしまった。しかし内藤だけは、会長について大阪市内を宣伝してまわった。このとき会長は市内の各神社の神符をあつめて一枚の紙につつみ、表に「大本皇大神」とかいて祀ったり、市内三〇〇余の稲荷下しを審神してまわったりなどしていた。その後、炭本の家に泊って布教をつづけ、侠客をはじめ多くの入信者をえたが、ここでも綾部の役員たちの妨害はたえなかった。やむなく内藤の宅に引きあげたが、そのころ会長は山田とともに、園部と京都市を中心に人造製乳を行なっていた。一時は二〇台の配達車で販売するほどであったが、そこへ四方平蔵・竹原らがやってきて追い出しにかかり、会長は、せっかく緒についた事業をあきらめて園部へ帰ってきた。
 このように、当時の会長は、綾部をぬけだしては、園部と大阪を中心に懸命の努力をかさねていた。〝知識階級入信したるは溝口氏わが大本の濫觴となす〟(『百千鳥』)とあるように、このころからすでに、知識階層と都市宣教への意欲がみうけられるが、こうした布教は、たびかさなる妨害のなかで、不屈の信仰と情熱にささえられておこなわれたのである。
 このような状態で、外へ宣伝にゆけば、役員がその後から邪魔をする。内にいても圧迫がくわわるので、さすがの会長もいたし方なく、内で子守りをしたり、山に薪をとりにいったりして、こっそり勉強をつづけた。
 その当時の状況を回顧し、二代教主(すみ子)は「そのころの役員には、物分かりの悪い人が多く、先生に悪神がついているというて、先生のすること為すことを攻撃して、お道の宣伝に行けば邪魔をする。家に居れば居るで四つ足み魂だというて、家に居ることもできないという有様で、その念のいった困らせかたは、先生も私も本当に悩まされたものです。そういう或る日、先生が『おスミや、薪刈りに行こうかい』と言って、私たち二人は質山へ薪刈りに出かけました。今から思い返してみますと、私たちの一代で、夫婦としていちばん楽しい思い出となっていますのは、そのころ質山で、先生と薪刈りをして働いたことであります」(『おさながたり』)と感動をこめて語られている。
 じっさい役員たちにみつかれば、外国の学問だといって本をとりあげられるので、人の前で本を読むこともできず〝窮乏と圧迫の中に住みながら前途に望みを抱へ書を書く〟〝著書は皆夜具をかぶりて夜の間に執筆したるものばかりなり〟〝たまさかに昼書をあらはす時あれば妻のすみ子に立ち番させたり〟と、あたりに気をくばりながら、臥竜亭(離れ家)で教説を記したのである。『百千鳥』には〝浅井はな子、西田元教も学浅く仮名文字ばかり書きて渡せり〟とあるように、教説を平易に仮名書にしてこっそり綾部の大槻の家で渡し、宣伝させていたが、それらもいまは散逸して、現在においては、『玉の礎』『筆の雫』『道の栞』『道の大本』『本教創世記』などが残っているにすぎない。しかし、役員らの反対するさなかで記述されたものであるだけに、その論説には注目すべきものが多い。
(イ)『玉の礎』(全一〇巻)は、一九〇〇(明治三三)年の秋から翌年の春にかけて執筆された者と、一九〇三(明治三六)年一〇月ころに執筆されたものとがあり、このうち一・二・七・八・九・一〇巻が現存している。現存する聖師の著作のうちでは最も古いものであるが、刊本『玉の礎』とは内容がかなり異なっている。主として四魂五情の説明がなされ、天理人道について明らかにされているが、民権思想の発達についてもふれられ、誤れる宗教にたいする批判もおこなわれている。
(ロ)『筆の雫』は、一九〇三(明治三六)年七月一九日から執筆され、翌年一月八日に脱稿されたものである。著作当時の原本はいまはない。現存する後年の写本では、ゆきづまった世情を批判し、人生の本義を示し、国祖が出現して世界を立替えねばならぬ理由として、「艮の金神様のおかまひなさる松の世のやりかたは、兵士もいらぬ戦争もなきやうに、天下泰平におさまるようになる」と戦争を否定し、運不運のない社会を造らねばならぬとのべ、また、「天地がかへると云うのはみたまのことで、何事も精神的に解釈せよ。戦争や天災だけで、立替えは出来るものでない」と、とかれている。
(ハ)『道の栞』は、一九〇四(明治三七)年の四月九日から同年の一一月にかけて執筆されたもので、一九一九(大正八)年と一九二三(大正一二)年の写本が現存している。それは全体の三分の二ほどにあたる。一九二五(大正一四)年に、当時原稿の残っていたものを収集して刊行された。刊本には、写本にある国家主義的な色彩の部分は除かれて、改訂されている。正しき信仰・大本の教旨・神と人の関係・その他が詳細にとかれており、自由と人権を尊重すべきこと、人は神の子神の宮であり、人類は同胞であることを主張する。「日本人は神の直系の分霊、外国人は獣類と同じ霊などと唱うる神道家は真理に暗き野蛮人である」とものべられている。また、誤れる排外思想を否定し、民族精神を生かした国際主義でなければならぬことをおしえ、御霊のことわけとして「素盞嗚尊は憐み深き荒神にましまして、世界の人々に代りて天地へ罪の贖ひをなし給へり。人誤りて素盞嗚尊を罪人とするは畏れ多き事なり」とのべ、素盞嗚尊が悪神でなく、救世主である所以のものがとかれており、古典に於ける新解釈ばかりでなく、神観についても重要な視角が提言されている。
(ニ)『道の大本』(全一〇巻)は、一九〇五(明治三八)年の一月から同年五月二九日にかけて執筆されたものである。そのうち七・九・一〇巻の原本と、二・三・六・七・八・九・一〇の写本が現存している。原本と写本との内容に大差はないが、これらと一九二一(大正一〇)年、および一九二七(昭和二)年の刊本との間には、内容的に相違がある。一霊(直霊)四魂(和荒幸奇)の活用・教の取次ぎ・信者のあり方についてのべられ、処世の指針などが示されている。
(ホ)『本教創世記』は、一九〇四(明治三七)年の著作であって、その内容は自伝と教説に関するものである。

〔写真〕
○明治30年代の上田会長の著書 p258
○地獄谷(このくさむらに暗殺隊が待ちぶせしていた) p260
○たゆみなく布教活動はつづけられた p261
○大阪布教の上田会長(洋服姿)と協力者たち(右端 内藤正照) p262
○布教のかたわら人造製乳もおこなった(ハイカラな宣伝服) p263
○宣伝には図解ももちいられた(上田会長自筆) p264
○かながきのおしえ 〝みたまのせんたくをよのたてかへのふしのくるまでに ひとひもはやくおこなうが一とうである〟 p265
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