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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第1章 >1 大日本修斎会よみ(新仮名遣い)
文献名3造営と宣教よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2018-10-13 20:54:55
ページ307 目次メモ
OBC B195401c2114
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本文  一九〇八(明治四一)年六月一日(旧五月二日)に、「元の活神が沓島へ落ちておりたなれど、何かの時節が参りてきたから、明治四十一年の節分の夜に弥仙山まであがりておるから、お仮屋では何かの便利がわるいから、雑のお宮でよいから、早くしてもらいたい」との筆先がでたので、京都の梅田常次郎※より金五〇〇円の献金をうけて、三六〇坪の隣接地を三六〇円で買入れた。ついで王仁三郎は、同年七月一日(旧六月三日)大神様お宮敷地の地鎮祭をおこなったが、王仁三郎が帰綾してから広前がにわかに活気づき、手ぜまになったので、神殿新築の話がもちあがり、一九〇九(明治四二)年旧一月に、いよいよ着工することになった。
 さっそく、四方与平・四方平蔵※※といった古い信者が、まず用材を献木したほか、一昨年の秋入信したばかりの湯浅斎次郎からは、当座の費用として、まず七〇円の為替が送られてきた。また、梅田常次郎は、神殿造営についても相当の金額を奉仕した。このころから有力な信者が増加し、大本の発展に貢献することとなった。

※ 梅田常次郎、信之と通称す。京都市室町押小路で御召問屋をいとなむ。一九〇〇(明治三三)年初参綾、一九〇九(明治四二)年再参続、主として明治の末期から大正の前年にわたり、最高幹部の一人として教団に奉仕し、大正時代には現三代教主直日の教養掛をした。一八八八(明治二一)年に生まれ、その後綾部に移住し一九四六(昭和二一)年に帰幽した。妻のやす(現存)は、一九〇〇(明治三三)年以来熱心に信仰をつづけ、二代教主の信任あつく内事につとめた。

※※ 四方与平、一八五九(安政六)年に生まれ、何鹿郡以久田村字上位田(現綾部市内)に住み一八九五(明治二八)年妻トミが入信し、その後つづいて与平も入信した。一九〇三(明治三六)年一家をあげて旧綾部町に転居、一九三三(昭和八)年七四才で帰幽するまで、本部神前の給仕に一貫してあたった。

 大本にとって神殿の造営ははじめてのことであったので、慎重に配慮されたものとみえ、四月二六日、大工白波瀬弥太郎を招いて打合わせをし、その翌二七日には、王仁三郎と四方与平・大工の三人が、綾部町味方にあった黒住教の神殿を参考にするために見にいった。やがて図面ができあがり、五月二日には、京都伏見の瓦師安田庄太郎にその図面を送付した。王仁三郎はいったん造営に着手すると、早朝から、王仁三郎はじめ役員・信者は総出で献労にはげみ、日没まで作業にいそしんだ。現場には十曜の神旗を高くかかげて、掛け声勇ましく意気は大いにあがった。これよりさき、大広前が同時に造営される運びとなり、三月二八日には、北桑田郡大野村肱谷字味曽淵の高見米次郎の事務所一棟と、その付属建物を買収し、これを解体していかだに組み、和知川に流し、綾部の並松から現場に運んだ。そして、五月にはその上棟式をおこなうという速さで、間もなく大広前ができあがった。
 神殿造営の工事にはいちだんと念を入れたため、ややおくれたが、京都の近松政之助を棟梁として、八月三日には斧始式をおこなった。いよいよ神殿が竣工したので、王仁三郎・梅田常次郎たち二五人は、一一月二一日(旧一〇月九日)の深夜、弥仙山の頂上にまいり、神霊を迎えて翌朝綾部に帰着。その夜の二二日(旧一〇日)の一一時より、王仁三郎斉主のもとに神殿の落成式と遷宮式を挙行した。なお、このときはじめて八雲琴が用いられた。二三日には大本の秋季大祭をおこなったが、前日から、京阪地方その他より多数の参拝者があり、近隣の四、五軒を借りて、ようやく参拝者を収容することができた。
 こうした造営をすすめる一方では、五月には四九坪、七月には三一一坪の隣接地および家屋をもあわせて買収しているが、さらに落成式後の一一月二六日には、大本の黒門および祖霊殿の新築を決定した。これは、あいついで参拝者が増加してきたことと、将来の発展にそなえての準備であった。翌年の春に竣成したが、一九二二(大正一一)年の神苑拡張工事によって取払われるまで、修業者・参拝者には強い印象を与えたものである。
 教勢を拡大し、信者を増加し、あわせて経済的基盤をも固めなければ、「立替え立直し」と皇道の確立は望まれない。しかし、筆先に

大本の経綸は病気なおしではないぞよ。この大本は医者やあんまの真似はささんぞよ。取次ぎの中にはこの結構な三千世界のしぐみを取ちがい致して、病直しに無茶苦茶に骨をおりて、かんじんの神の教を忘れておる取次ぎが沢山あるが、いままでのようなことはさしておかんから、めんめに心得て下されよ(明治32・旧7・1)

と示されていたように、ただの病気直し、つまり現世利益的な方法で教勢を拡大することは、大本の教線拡大の本旨にそわないものであった。ひとすじに「立替え立直し」を主張し、開祖を通じて示された神の教によって、改心をもとめることがその根本とされていた。
 しかし実際には、「病直しに無茶苦茶に骨を折りて、かんじんの神の教を忘れておる取次」がたしなめられていたのであって、治病の取次が禁じられていたのではない。これまでにも神の霊験はまことにあらたかであった。そのため、信者のうちには「おかげ信仰」のものがおおかったことも事実である。こうした筆先がだされねばならぬことじたいが、すでにその状況を物語っている。
 霊験のあった「お士」や「ど神水」や「お松」「おひねり」は、もっともおおく使用された。指定された土地の清浄な土を水でやわらかくして患部にはりつけたり、神前に供えられた松の葉などをせんじて服用したり、また神前におそなえした水を「ご神水」としていただき、多くの人々が治病し霊験をうけている。おひねりというのは、開祖が祈念して神名をかいた紙片をおりたたみ、それをひねってまるめたもので、これを開祖みずからが与えたりもした。
 たとえば、福本源之助は当時を回想して「うちの婆さんが病に倒れ、綾部で死ぬのやというて綾部に来たのやが、医者は見はなし、近所の人は、えらい病人をつれて来たものやというて驚いていた。ところが教祖さんが神様にお願いして下さって、お風呂に一しょに入れて下さったら、それからおかげを頂いて病気が直った」とのべている。それに類似した例はたくさんあった。しかし、ただそうした治病に夢中になる取次のありかたは、本来の使命を忘れることになるので、神はきびしく、それをいましめられたのである。
 それだから、王仁三郎が、当時さかんに用いた「鎮魂帰神」の法も、もっぱら病直しや霊の発動をなすためのものとみられて、開祖にはひどく気にいらなかった。近松光二郎は「あれは外国のやりかただというのであかんのでした。その時分は、なんちゅうてもお筆先一本で、わけも分からんくせにただありがたい、ありがたいというだけだったわけですね」と回想している。そのように、入信してからはお筆先の信仰にうつっていったが、実際の入信の動機というものは、病気直しであったり、鎮魂神帰による霊の体験にもとづくものがおおかった。
 なお二、三の例をあげると、湯浅斎次郎の妻小久は、産後の回復が思わしくないところへ、王仁三郎から鎮魂をうけて、たちどころに回復したことによって入信したのであったし、梅田常次郎にしても、京都で最初に大本の支部を設立した近松政之助が、鎮魂帰神をおこなっていると聞いて、実地にこころみるつもりで綾部にいったのが入信の動機となっている。さらに鎮魂帰神には、治病だけでなく、梅田のように、自身が神や霊魂の実在を体験するということもおおかった。その当時鎮魂の被術者はほとんど発動し、審神者はその発動の状態によって、正神と邪神、あるいは祖先の宝の関係などを判断した。そして、それが動物霊や邪神であれば、大本神の権威に守られている審神者の一喝によって、あるいは退散、あるいは改心し、その後発動した人の言動や思想が一変して信仰的になった。たとえば、大酒呑みで酒ぐせのわるかったものが、まったく生活態度があらたまったというような実例がいくつもある。それは霊のなすわざとして、反面霊の実在の証明ともなり、また神の権威の実証でもあった。
 当時の宣教の実態は、まさしくこうした治病や鎮魂帰神によってささえられていたのである。ただのちに、鎮魂帰神が好奇心でおこなわれたり、いたずらに発動させることをのみ目的としてもてあそばれる弊害を理由に、王仁三郎がこれを禁止しているように、治病もまた、そのことのみが目的になりやすい性質をもっていた。しかしこうした宣教も、それなりの効果をおさめたことは否定できない。「直霊軍」の第七号(明治42・11・10)および八号には、「緊急社告」として「祈祷禁厭神占等は本会の厳禁するところなるに、万一本会役員又は修斎と称するものにして、これを施行する者あらば御一報を乞う」のむねが厳達されている。また同第一一号・一二号には、支部・会合所において鎮魂帰神の修業をすることも禁止されているところをみれば、鎮魂帰神をもっぱらとする取次があとをたたず、他方警察当局の取締りも、相変わらず、きびしくくわえられていたようである。
 一九〇九(明治四二)年八月号の「直霊軍」には、大日本修斎会伝道部の「千葉幹事は千葉県下へ、木下幹事は京都市へ、田中幹事は大阪へ、また京都支部にては目下会員七〇〇名に達し」とあり、王仁三郎はじめ役員たちの地方出張が次第におおくなってきた。出版部については、「辞令用紙一千枚、等級記二千部、会員調印簿二千部、直霊軍本号一千五百部印刷せり」と報告されている。修斎会の特別賛助会員は一〇〇名ちかくになり、これを中核として、会員数はおよそ一万と称されるにいたった。
 機関誌「直霊軍」は、このように、信者の育成教化、あるいは対外宣教について活発な活動を開始したが、創刊の翌年にあたる一九一〇(明治四三)年の六月には、一四号で発行が一時中断され、ついでその一二月、一五号をもって廃刊されることになった。廃刊の主な理由は経済的ゆきづまりにあった。「謹で会員諸君の報国赤誠に訴ふ」と題して、その一五号には、その実情がつぎのようにのべられている。

(前略)脚下の本会事業を顧みれば、僅に斎殿拝殿参集場講習場祖霊殿其他数棟の建設と六百有余坪の敷地を購入したる位が関の山にて、未だ驚天動地の活動を為すに致らず。直霊軍の発行は毎号数千部に達し、会員の数一万を出ると雖も、至誠の士十数名の外は一銭の雑誌料をも支出さるる人士なく、僅々三拾に過ぎざる会員の補助に依りて此難関を切抜けたる次第なれば、乞ふ会計の現況を洞察されんことを。

 たしかに、当時の大日本修斎会の地方組織は、小範囲にとどまっていた。「直霊軍」第九号によると、府下に七ヵ所(京都市・伏見・嵯峨・八木・園部・宇治・宇津)に設けられたにすぎなかった。
 また、この実情を訴えた直後の一九一一(明治四四)年一月、あらためて大日本修斎会の会員名簿が作成されたが、名簿に名をつらねたのは八五戸、四〇〇余人である。したがって、「直霊軍」の発行部数は数千部といわれてはいたが、その大部分は無料配布であった。布教の面や経済面でじっさいに貢献していた人々は、特別会見や特別賛助会員の限られた人々であり、実態からいえば、経済的な面で教団を護持していたものは限定されていた。
 境内地の拡張や神殿の造営をすすめながら、別に機関誌を発行して、その無料配布を継続してゆくことは、当時の会財政にとっては大きな負担となっていた。こうした苦境を切り抜けるために「壱千万人講」というのがあらたに発起された。講の規約によると「第一条」には「壱口を壱銭とし壱千万口を壱万の会員中より結集して金拾万円の基本財産を蓄積する」ことを目的とし、「第二条」には「結集金は如何なる事情あるも壱銭も費消せず、その使用目的は「其利子を以て本会の事業を翼賛する事」であった。さらに、「第五条」には「毎月又は隔月に(直霊軍)を発行し、其紙上に決算報告をなす」ことになっていたが、講の創立と同時に湯浅・梅田・四方平蔵・上田辛吉ら二〇人が、各一万円計二千円を加入したと報告したのみで、「直霊軍」の続刊も不可能となり、講そのものも持続することが困難となった。
 これよりさき一九一〇(明治四三)年二月六日には、ふたたび神苑の造営が活発にはじめられた。まず、祖霊殿参集所の新築用材の選定と、泉水掘の工事にとりかかったのがそれである。二月の末には、西原や上谷など、綾部郊外の山間部にある村落の熱心な信者たちから、連日のように献木の運搬がおこなわれ、係りの上田幸吉(王仁三郎の実弟)や近松政之助らが出張した。このころすでに、境内地も神殿(仮本殿)を中心として、かなりのひろがりをみせていた。現在みろく殿前の梅林になっている一帯がその当時の境内地で、教団づくりのはじまったころと比較すると、はるかにその形のととのってきたことがわかる。
 一九一〇(明治四三)年八月に、国鉄山陰線の京都綾部間が開通したことも、教団づくりに。プラスするところが多かった。それまでは信者らが綾部にくるためには、大阪経由で福知山に下車し、人力車か徒歩で綾部に向わざるをえなかったことを思えば、鉄道の開通がもたらす交通上の利便は、教線の展開にも便宜をもたらした。

〔写真〕
○梅田常次郎 p307
○大広前 のち受付となった 右側は竜門館 p308
○新築された神殿 のち旧本殿といわれた p309
○秋季大祭 (上)その日の神苑-神殿と大広前 手前は畑 (下)参拝の人たち p310
○黒門と受付 看板は大日本修斎会本部とかかれている p311
○開祖直筆のおひねり p312
○直霊軍に掲載された緊急社告 p313
○地方での会員名簿 p315
○京都~綾部間開通 参拝者であふれた綾部駅 p316
○一九一〇-明治43年ころの大日本修斎会 正面の屋根-神殿 手前-大広前 右端-竜門館 p317
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