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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第2章 >1 昇天よみ(新仮名遣い)
文献名3昇天の前後よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
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ページ372 目次メモ
OBC B195401c2211
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本文  王仁三郎によって、教理の現代化と組織の整備をみた大本は、いよいよ全国的宣教へのりだした。一九一七(大正六)年の一二月二一日に創刊された旬刊紙「綾部新聞」は、全国の市町村役場や、大・中・小学校ならびに実業家などの各方面に毎号贈呈をつづけ、月刊誌「神霊界」も一九一八(大正七)年の三月から月二回発行とあらためられた。こうした機関誌・新聞による宣教の活発化にともなって、その年の春ころから、綾部へ、綾部へとおもむく人たちがしだいに全国的ひろがりをみせ、やがて台湾・朝鮮・満州からも来綾する人があいついだ。こうして綾部金竜殿の修業者も、おおいときには毎日五、六十人をかぞえるようになった。そして綾部へ移住する人々も増加し、豊本景介・森慶三郎(良仁)についで、この年の夏以来、小牧斧助(陸軍大佐)・友清天行・桑原道喜(神戸新聞営業部長)・岩田久太郎(三井物産台湾支店長)なども続々と綾部に来往してくる。
 そればかりではない。地方支部の設立も順調に発展してゆく。三月下旬には王仁三郎が松江・鳥取に出張して宣教にあたったが、ついで四月には西谷正康が松江に派遣されて、五月五日には松江支部が設置された。ついで六月下旬には浅野和三郎ほか三人が松江・米子・鳥取で宣伝に従事し、九月には鳥取支部が設置された。まず山陰地方の支部設立を契機として、本部からの地方への宣教もだんだんと活発化してゆく。
 教勢がにわかにのびていくにしたがい、神苑の整備拡張もそれに対応してすすめられた。一九一八(大正七)年中の土地買収は一九〇〇坪あまりにおよび、この年五月五日には貴賓館(のちの教祖殿)の斧始式がおこなわれ、これに隣接する黄金閣(言霊閣)の基礎工事は一〇月下旬に開始されている。
 開祖は、前年の九月一九日に綾部上町の出口慶太郎宅(金竜餅屋)の新築の祝におもむいた以後は、一歩も神苑をでることなく、もっばら統務閣に起居して神前に仕え、熱心に筆先をかかれた。ところが、一九一八(大正七)年の五月に入って、にわかに筆先がだされなくなった。開祖に役員がその理由をたずねると、どういうわけか、このころは神さまがお書かせになりません」とのことであった。そして終日、神意によって「御神体」・「お守り」・「おひねり」のご用をつづけられた。
 ある日王仁三郎は、しだいに拡張されて美しくなってゆく神苑の情況を、開祖にみていただきたいと進言したが、いっこうに苑内にでてゆこうとされる様子がない。そこで王仁三郎は、老齢の身を案じ、みずから開祖を背に負って巡覧してもらった。このとき王仁三郎に、開祖から「結構でした。ご苦労でした」と、なんどもよろこびの言葉をくりかえしのべて、その労をなぐさめた。居室に帰った開祖は、しみじみと側近の者に、「神苑が広くなり、建物が増してゆくことは、まことに結構なことですが、それよりも一人でも誠の者ができたら、どんなにかこの胸の中が楽になるのだが」と、ふかく感懐をつたえたという
 あけて、八月一八日(旧七月一二日)から王仁三郎は、七五日間、身魂の大洗濯として神界からの修業を命じられ、「床しばり」で室内にこもった。そしてその間は神務その他の執筆なども中止した。
 本宮山・世継王山のあたりにかけて秋の色が深み、神苑は建設のための工事作業による明るい騒音がひびきわたったが、統務閣はいよいよ静まりかえり、開祖の銀髪は神々しいまでに色をましかがやいていた。
 ちょうど一〇月のおわりに(昇天の一週間前)大阪から信者の春子太夫という浄瑠璃語りの名人が参拝してきた。春子太夫は、開祖に浄瑠璃をぜひとも聞いていただきたいと懇請してやまなかった。すみがその旨を取りつぐと、「ああ、そうか、神様がわたしに浄瑠璃を聞かしなさるのか」との返事であった。いままでは、そういうことを申出ても、「芝居をみいでも、この中に大芝出ができている。いつも世界の大芝出をみせてもろうているのに、人の作ったものなどみいでもよい」といって、つねに申出をことわられてきていたのである。役員たちは不思議なことだと話しあいながら金竜殿に場所をつくり、その夜、襖のかげかちり開祖に聞いてもらうことにした。開祖は、それを聞くのにまこと謹厳な態度であった。そこで、居間にひきとった開祖に、すみが浄瑠璃にたいする感想はどうでしたかとうかがうと、「よう分かった」とのこと、そしてつづいて「神さまが、明治二五年から世界の人民に筆先でおさとしになるのが、どうして人氏に分からぬかと思っていたが、浄瑠璃でさえ、初めて聞くと分からんのだから、神さまの教が、人民に分からんのは無理がないと、よう分からしてもらった」という意味深い応答があった。
 一一月のはじめのことである。すみ(二代)は、その日の夜がたいへんに冷えこむので、炬燵をいれて「早くおやすみなさい」と挨拶すると、それまでは、いつも開祖は「それどころか」とその言葉をはねつけ、なおも机に向かって執筆するのが常であった。ところが、その夜にかぎって「はいはい」と返事をし、「さあさあ、これでわたしのご用も済んだ。お前のいうようにするわ」とのべて床についた。開祖は、現世のご用がこのときにおわられたのかと、あとになって思いあたったとすみは述懐している。
 一一月五日、八木の福島ひさが国太郎ほか二人の子供をともなって、開祖のもとへ訪ねてきた。開祖はいとも機嫌よく「今夜は泊って行くように」と、しきりとひさに話しかけられたが、ひさはほかに用事があったので退出した。そのあと星田悦子が、なにか気がかりであるのでうかがってみると、開祖は「いまが峠であるから是非聞いておくように」と、王仁三郎のこと、すみ(二代)のこと、ことに直日(三代)のことなどで、「今夜は夜が明けてもよい、話して聞かせる」と、つぎつぎに語りだされた。なおも話しかけられる模様であったが、塩見じゅん・竹安房太郎が面会にきたので、それからは格別の話もなく、星田は心のこりではあったが、遠慮して一同とともに午後一時すぎ退出した。開祖は、従来どんな疲労のときでも礼拝を代行させるようなことはなかったが、その晩にかぎって、「今晩お礼は誰か代ってもらいます」とのことで、「神様は、モウおまえはお礼をせずともよい。明日からは先生(王仁三郎)がお礼をするとおっしゃられる」とのべて、平常とかわらぬ態度で就寝した。ひさが、夜明け前、炬燵の火加減をみようと開祖の寝室にうかがったところ、開祖がひさに「お水をくれよ」と命じられたので、湯呑みで水をさしだすと、感謝しながらその水をのみほし、また静かな眠りについた。
 一一月六日(旧一〇月三日)の朝七時ごろ、開祖は手洗に立った。そこで福島ひさがつきそっていったが、アッという間もなく、開祖は突然廊下で昏倒した。ひさが驚いて大声をあげたので、すみと星田がすぐ開祖の側にかけより、「おひねり」と、神水をさしあげましょうとうかがうと、開祖はわずかにうなずかれたので、それを神前からとりよせ開祖に差しあげた。開祖は手ずからいただかれ、ややしばらくして気分も安らいだ様子であったので、開祖をだきかかえて床に移した。その報をきいて枕もとにかけよった王仁三郎に、開祖は、目を細目に開き何事かうなずかれる様子であったが、二言ほど言葉をだされただけであった。それから昏睡の状態がつづき、昇天のときがせまった。
 教団の本部では、万一をかんがえ、各地信者へ危篤の電報をうち、急速祈願祭をおこなうことにした。各地からかけつけた信者たちは、午後九時半から、祝詞を奏上し、「とこしえにましませ」と真剣な祈りをささげた。しかし、一〇半時ついに開祖は安らかに昇天せられた(戸籍謄本には一〇時と記入されてある)。ときに、開祖は満八一才(数え八三才)であった。開教以来神のご用のため、神意のまにまに、身も心も神業一途に生きた偉大な開祖の、現世のご用がおわりをつげたのである。
 開祖昇天のときの模様については、「神霊界」の教祖号および星田悦子の日記にくわしい。それらによってみると、信者一同の祈願のりと奏上中に、開祖の居間のあたりは霊気につつまれ、天上より美しい五色の紐のような霊線と、瓔珞のごときものが舞い下り、開祖が美しい姫神の姿となって昇天されるさまを、四方平蔵・稲次要蔵らは霊眼で拝んだといぅ。そして一同の身体は、みなつりあげられたような感じを受けたと記述されている。

〔写真〕
○開祖染筆の扇と笠 p372
○開祖の奥都城第一次大本事件で改築された p373
○全国的宣教の開始 (上)王仁三郎山陰へ 松江 (中)松江での案内状 (下)梅田信之四国へ 高松 p374
○秋の色はふかみ神苑の建設はすすむ (上)世継王山 (下)黄金閣の基礎工事 p375
○金竜殿の側面と統務閣(右) p376
○二代すみと家族 前列左より直日 すみ 尚江 住之江(嬰児)一二三 後列左より八重野 一人おいて むめの p377
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