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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第3章 >2 教勢の発展よみ(新仮名遣い)
文献名3本部の動きよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2017-04-30 20:42:54
ページ432 目次メモ
OBC B195401c2322
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本文  修業者の急増とともに、地方から綾部へ移住するものもますますふえてきた。そのために大正八年から大正九年にかけては、綾部にあっては信者の住宅に困るようになった。したがって、思惑的な土地住宅の斡旋業者が暗躍するようになったので、本部の庶務局は「公告」をだし、「近来信者にして当綾部(或は其近郊)に各自思ひ思ひに土地家屋を購買又は借入れらるるも有之やに聞き及び候処、かくては競争の結果御神慮にも背き、又射利を目的とする人々の乗ずる所と相成侯て、物質的にも損失を受くる事尠なからず候間、今後は是非共修斎会庶務局に申し込まれて御相談被成候様致度、御注意までに申上候」と弊害の防止につとめ、庶務局に地所家屋部を新設して(部長=岡田熊次郎)、これに対処したほどであった。
 このころ本部に奉仕していた役員・信者、また綾部に移住してきた信者は、謹厳・清楚であった開祖をかがみとして、信仰的な内修につとめ、勤労にいそしみ、早暁におきて神苑内外の清掃をおこない、無駄口をつつしんで、建設の献労に、あるいはまたそれぞれの業務にはげんだ。
 大正八年一月一日の神諭には、つぎのように示されている。

艮の金神の筆先で大本内部の役員に気を附けるぞよ。……出口直が天地の冥加が畏ろしいと申して、何程厳しき冬の寒空にも、日に三度五度の水行を致して、其上に神の御用を勤めて下されたなれど、何程寒うても火鉢一つ使うた事も、手を暖めて筆先を書いた事も無く、誠に慎みの良い身魂であるから、永らくの間大本の中の役員信者に鏡にしてみせてありたが、今迄の大本の役員は、直が申す事や行状を能く呑込みてミロクの行り方を致して下されて、神の経綸も段々と出来て来たなれど、誰も楽な方へ行き易いもので在るから、今の大本の中の役員の行り方は、薩張り精神が緩みて了ふた世間並の行り方に逆戻り致して居るぞよ。出口直は八十三歳になりても火鉢一とつ抱えた事は無かりたぞよ。出口直を鏡に出して世の立直しの行り方が致して見せて在りたなれど、今の大本の行り方と申すものは、若い者が火鉢を持たな何一とつ能う致さず、金竜殿へ修行に参る守護神人民は沢山に火鉢を並べて賛沢な今の行り方、ソンナ事で斯の世の立直しの大本の修行は到底出来は致さんから、冬の修行は火が無ければ出来んような弱い人民は修行を止めて、一日も早く各自の国本へ立帰らして下され。折角永らくの間大出口直に苦労さして、今まで築き上げたる教の土台が転覆いたしかけて居るから、神は誠に困りて居るなれど、今の人民さんは鼻高が多いから知らず知らずに慢神が出て、神の教に背くやうな事が出来いたすのであるから、余程大本の役員は隅から隅まで気を附けて下されよ。世界から参りて来る守護神人民は、可成は外に宿めて下されよ。大本の内部に宿まれる様になるのは、余程の研けた身魂でないと、誰でも是からは構はずに止める事は出来ぬから、堅う心得て下され。……神界の都合が在るから、此の節分からは修行者は一人も宿められんから、其覚悟を致して下され。役員信者の家で宿めて下さるのは誠に結構であるぞよ。是れから斯の大本は、神界の御用は段々と厳しく成るから、国々から出て参る修行人を内部に宿めて居るやうな事でありたら、……神界の経綸が遅れて来る斗りで在るぞよ。

ことに、筆先に「誠ある人は夜分にチト睡眠に不足致しても拝読ておかんと残念な事が出て来るに近うなりたから、気をつけておくぞよ」(明治36・10・1)と示されているので、筆先の拝読および浄書は子供にいたるまでが熱心におこない、それは毎夜のならわしとされていた。
 役員にたいしては「役員は筆先を見詰めて、充分にのみこみておりて、何んな事を問はれても弁解が出来るやうになりておらんと、善い加減なお話を致して人を寄せたら良いのではないぞよ。……わからん者が元の神のお話は一と通りの行しておりでは真心の事が判らんから、誰も大本へ参りて身魂を磨いたその上で、御用致すが結構であるぞよ」(明治36・11・2)とか、「……筆先を見て何彼の事を役員相談して貰はんと勉強にならん。一を申せば十をさとらねばならん御道であるから辛いのざ」などともさとされていた。したがって「抜身の中におる」気持という筆先の言葉から、軽薄な言動をつつしんで、世のかがみになろうという気風が濃厚であった。
 「絹物は着ぬもの」という言葉が支配的であって、役員・信者は木綿物を着用し、毛織物や皮革類は用いなかった。食物は獣肉類はとらず、ほとんどが野菜類で、粗衣粗食にあまんじ、ぜいたくをいましめ、清貧に安んじ、米粒一つ、菜っ葉一つも粗末にせぬように心がけた。
 この当時とくに「神業奉仕」と「身魂みがき」が強調せられ、どんな苦難も身魂みがきとして取組むことをよろこびとした。こうした信仰的な生活態度で、一種の風格がおのずと形づくられ、本部にはおかしがたい教風ができあがっていった。本部へきた人々は、まず最初に世間からかけ離れたふんいきを肌に感じ、「変ったところ」だという印象をつけたという。そういう風格をもっていた信者が、ひとたび世間にでて、未信者に接すると、つつましい人格が一変したかと思われるほどに、はげしい口調で大本の宣伝をおこなったのである。そのため世間の人々は、大本の人たちを魅せられた「狂信者」と批判し、「綾部の長髪賊」とまで極言した。しかし信者は、「悪く言はれてよくなる仕組」との神諭の一句をかたく信じ、殉教的態度でことにあたり、批判に耳をかさなかった。本部の役職員や講師として、全国の宣教にあたったものたちは、無報酬がたてまえであって、大本より給与はいっさい受けていなかった。いわば無給の奉仕であり、それを誇りともしていたのである。したがって相当の生活費を持っているものでなくては「奉仕」は困難であった。だからそのおおくは恩給によるもの、あるいは中産以上の人々で、生活の根拠をもつものや、その子弟たちであった。
 一九一九(大正八)年の四月一七日には、教主王仁三郎夫妻・三代直日をはじめ一行約二〇〇人、嵯峨清滝の奥にある八重垣神社に参拝した。同神社は小笠原義之・森慶三郎・嘉門文蔵の兄弟三人で建立され、一九一八(大正七)年の一月四日に、教主みずからが豊国主神・神素盞嗚神の神霊を鎮祭した大本所管の神社であった。同年二月五日には教主以下三〇〇余人の参拝があり、そののちに小笠原義之が祠官に任ぜられていた。同神社の神霊は一九二〇(大正九)年の春に、亀岡天恩郷に遷座されている。
 一九一九(大正八)年の四月一八日には、教主夫妻ら一行二二人が、穴太の小幡神社および高熊山に参拝した。教主・役員・信者の一行は、同年五月一〇日に伊勢神宮に、翌一一日には香良洲神社へ参拝し、五月二〇日に元伊勢、同二七日に福知山の一宮・金比羅・庵我の中村八幡宮の各神社にまいり、六月六日に沓島・冠島、同一二日に出雲大社、同二二日には神島へというように、つぎつぎ団体参拝がおこなわれた。このような行事は恒例となって一九二〇(大正九)年にもつづけられた。
 一九一九(大正八)年の九月三〇日、教主王仁三郎は役員・信者の一行をひきいて、綾部の世継王山第二峰の頂上にのぼり言霊の実習をした。それは臍下丹田からの力いっぱいの声で、天津のりと・大祓のりとを奏上し、ついで「アー、オー、ウー、エー、イー」と七五声の言霊をとなえあげるものである。これを言霊踏査隊の第一隊とした。第二隊は浅野会長を先頭に高見元男もくわわって一行一〇人が、一〇月二日に伊吹山の山頂にのぼり、第三隊は小笠原義之をはじめ一行一五人が、一〇月四日に大和の大台ガ原にのぼった。ついで第四隊は一一月九日に、浅野和三郎・出口大二ら一行三五人が竹生島に、第五隊は森良仁(慶三郎)ら一行六人が、同日江州坂本にむかった。さらにそのほかの一行は弥仙山および肝川の割岩山などにのぼった。
 一九二〇(大正九)年度においても、八重垣神社・桃山御陵・沓島・冠島・神島等への団体参拝がおこなわれたが、とくに重大な神務とされたのは、大和国竜門岳の参拝であろう。これは「如意宝珠」の神宝を受けとるためであったという。五月六日に王仁三郎教主輔をはじめとする一行九七人が、綾部を出発し、大和の上竜門村の丸山貫長をたずね、同夜柳に宿泊した。翌七日には竜門岳の神秘を感じて上市に泊り、十日夕綾部に帰着した。
 竜門岳の神事を転機として、前述のように、とくに鎮魂帰神の実修法があらためられたが、ついで六月四日には、役員会において王仁三郎教主輔から、宣教のうえにおける予言についてはつつしむよう注意があたえられている。
 一九一九(大正八)年の二月二七日には、大日本修斎会の規約を改正し、教団の名称は「大日本修斎会」であり、「皇道大本」は修斎会の信仰し宣伝する教の本体であるとした。そのためこれまでの教統・総務・教監などを廃止して、あらためて会長制をとった。翌二八日には、会長を浅野和三郎、副会長を小牧斧助、顧問を梅田信之と定めて、祭務・教務・庶務・財務・出版・造営の六局をもつけた。そして局長以下の人事を発表した。
 ついで同年の九月六日(旧七月一二日)には、右の六局のほかに編輯・内事の二局を新設し、以上八局の局長以下をつぎのように任命した。祭務局長豊本景介・同副長湯川貫一、教務局長森良仁・同副長井上留五郎、庶務局長桑原道喜・同副長桜井同吉、財務局長高木鉄男・同副長上西信助、出版局長岩田久太郎・同副長谷村正友、造営局長小牧斧助・同副長岡田熊次郎、編輯局長今井武夫・同副長栗原七蔵、内事局長牧寛仁・同副長小原稜威夫(禎次郎)がそのおもだった人々である。
 なおすでに青竜隊は青年隊、白虎隊は少年隊と改称されていたが、このたびの改革にともなって青年隊長には谷村正友、少年隊長には出口大二が就任した。
 一一月二五日にいたって、王仁三郎は教主を二代すみ子にゆずり、自分は教主輔となったが、(前章参照)それ以後の役職員はすべて二代教主の名によって任命されることとなった。皇道大本の役員構成はあらためて、大教統・権大教統・教統・大教監・権大教監・教監・教諭・訓導・権訓導の九つにわけられ、大日本修斎会の職員構成は次の一〇役種とされた。すなわち、総裁・副総裁・会長・副会長・顧問・会監・参与・督事・録事・出仕というのがそれである。
 一九二〇(大正九)年の三月三日には、皇道大本の組織がさらに改正され、祭と政とが二分されて、祭は内事寮においてとりあつかい、政には大日本修斎会があたることになった。それにともなって人事の異動がおこなわれたが、そのおもなものは、大日本修斎会の総裁には浅野和三郎がなり、以下副総裁梅田信之・浅野正恭、会長小牧斧助・副会長岩田久太郎・谷村正友、教務局長森良仁・副長井上留五郎・吉原亨、庶務局長桜井同仁・副長谷川常清、財務局長上西信助・副長麻生賢三、出版局長江上新五郎・副長近藤貞二、工場監督村野滝三郎、造営局長岡田熊次郎・副長上倉三之助、青年隊長深町泰仁・副長佐藤尊勇・木島完之がそれぞれ任命され、内事寮は寮長に四方平蔵がなり、以下次長吉田竜次郎・出口慶太郎、総務高木鉄男、祭務部長今井武夫・副長湯川貫一、内政部長牧寛仁・近侍長小原稜威夫・副長中村純也、弁務部長桑原道喜・副長栗原七蔵がおのおの任命された。
 皇道大本の役員については、同年の二月四日に全般にわたる任命があったが、さらに一一月三日には、新任および昇進の氏名が発表された。すなわち大教統には浅野和三郎・梅田信之・四方平蔵がなり、権大教統には浅野正恭・小牧斧助・高木鉄男がなっている。

〔写真〕
○家族総出の献労 p432
○至誠裁縫部 信者の家族があつまりその益金は致団の諸費用にあてられていた p433
○奥都城参拝 p434
○少年奉仕者たち p434
○桃山御陵参拝 中央が王仁三郎 p435
○大台ガ原言霊踏査隊 p436
○竜門岳参拝をしらせた王仁三郎の書状 p437
○内事局内規 p438
○皇道大本青年隊旗 p438
○皇道大本教主第二世─出口すみ子の名による辞令 p439
○建築中の黄金閣 p440
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