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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第3章 >3 積極的宣教よみ(新仮名遣い)
文献名3台湾の動きよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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ページ456 目次メモ
OBC B195401c2331
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本文  宣教の積極化は、台湾における教線の拡大にもうかがわれる。台湾の開発は、日清戦争後日本の資本によって意欲的に進められ、内地との交流も頻繁であったが、大本の信者は、台北・台南・嘉義などにわずかに点在していたにすぎなかった。だが台湾の名士であった高木鉄男・岩田久太郎らの入信を期として、一九一九(大正八)年の末から台湾における宣教も本格化する。高木鉄男は一八七四(明治七)年に岡山市に生まれ、一九○二(明治三五)年に東大の法科政治科を卒業、明治製糖会社に入社して、のち専務取締役となった人で、その業績も顕著であつた。一九一八(大正七)年に雑誌「新台湾」で大本のことを知り、同年の一○月に参綾して入信した。そして一九一九(大正八)年一月に台湾を引上げ、明治製糖を辞して同年二月に綾部に移住した。
 岩田久太郎(琥珀洞鳴球)は、一八七四(明治七)年に石川県大聖寺町に生まれ、東京高商を卒業したのち、三井物産に入社、一九○五(明治三八)年に台湾に赴任した。そして台湾支店長をつとめたが、一九一五(大正四)年には東京に転勤している。早くから子規の門下となり、俳人として頭角を現わしており、子規十哲の一人でもあった。一九一七(大正六)年に雑誌「彗星」で大本を知り、翌年三月に参綾して入信した。同年の六月には三井物産を辞任して、九月に綾部へ移住した。
 一九一九(大正八)年の一一月二八日、浅野・高木・岩田の三人は台湾宣教の旅にたち、門司港を出港するや、船中で三日間三人が交替して船客にたいする宣教をおこなった。基隆から台北に向う汽車のなかでは、新聞記者に大本の立替え立直しを語り、台北では下村民政長官を訪ね、台湾神社に参拝して、夜六時から鉄道ホテルの広間で講演会を催し、下村長官その他有識者約五○○人をあつめて宣教した。そしてその翌日は三○余人に鎮魂をなし、ふたたび夜間には六○○人の聴衆をあつめて講演した。そのときの岩田の通信をみると「前日来の講演の反響大いに現はれ、早朝より続々と鎮魂の希望者、旅館につめかけ本日だけにて八十名以上……」と記されている。その間に浅野を主賓とする一行は下村長官の同窓晩餐会に招待され、多数の名士との会談をおこなっている。台湾の一流名士であつた高木・岩田の入信が話題の種となった。台湾日日新聞はその会見記で「……時めく頃は台湾鴉くらい睨み落すほどの羽振りを利かしていたが、今は頭髪を総髪にして一と握り打緒で結び、白い麻のやうな油気のないビンの毛が蓬々と垂れ下り……変れば変るもの哉と、何とはなしに胸が冷う痛むやうに感じた……」と、その風貌のかわりかたを描き、さらに同紙一二月四日付の紙面では「大本教の宣伝者が来た」と題して、「大本教という予言団が丹波の綾部に現はれ出で、世界統一を叫び廻っている。……両三年内に大難が台湾に降ってくるので、居たたまらずに出掛けて来たとの御託宣、何事か知らん其口ぶりたるや恐怖心を唆るに充分であつた。……大本教を信ぜぬ人は悉くプログラム通り禍を受けて滅亡する。大本教ではその往くべき径路を、チャンと予知しているとは世話はない」と非難めいた報道をしている。しかし「台南新聞」・「台湾新聞」などの報道は好意的であつた。「何しろ岩田君でも高木君でも当年屈指の才人、浅野君に至つては大学時代から有名な心理学者、この三人が勢揃ひして、世界中でも最も新らしい所謂改造教の教義を講演するといふのだから‥…」(台南新聞)という調子で、各新聞がこぞって書き立てたからその反響もおおきかった。そのことば、手びろく土木事業や材木などの取引きをしていた桜井信太郎や、三井物産の中山勇次郎はじめ、物産・製糖会社の幹部社員、その他弁護士・法官などの有力者がつぎつぎと入信してゆく過程にも見出される。
 しかし立替え立直しを強調し、時節切迫を主張する大本の宣教は、植民政策の立場をとる総督府当局からは、その宣伝は不穏なものとしてうけとられ、警戒された。
 第二回目の宣伝班は、加藤・篠原・高橋・今井らによって編成され、一九二○(大正九)年の三月、全島にわたって宣伝を開始した。この宣伝は、前回の宣伝にさらに輪をかけたほどのはげしいものであった。そのため三月一一日に台北の鉄道ホテルで開催されることになっていた講演の演題に、当局から警告が発せられた。すなわち「大国難将に来らんとす」・「最後の審判は近づけり」・「道義的世界統一」・「尊王愛国論」という演題にたいして、大本の機関であった顕正会桜井会長が呼びだしをうけ、「世界改造、世界統一、祭政一致、綾部遷都説、綾部が改造実行の中府、天変地異、国難来、最後の審判等を説かぬやうにせよ、もし違反すれば直ちに退去を命ずる」という覚書を手渡された。そのため急遽演題を、「惟神の大道」・「人は何が故に悩むか」・「大和民族の使命」と改題して対処した。いかに大本の宣伝が立替え立直しに重点がおかれ、人心に衝撃を与えていたかが推測される。しかもこの宣伝のあと、台湾の有志信者が、「時節切迫」という立場から続々と台湾を引きあげ、綾部へ綾部へと移住しだした。これは一九一九(大正八)年一二月三日付の台湾日日新聞に、浅野の言葉として掲載された「……我等の世界改造は向ふ二年にして目的を達し得ることを断言する」と期限をきった立替えの予言に端を発したものである。総督府は治安におよぼす影響を配慮して、ついに一九二○(大正九)年七月、島内での大本関係書類の発禁をふくむ大本宣教を、全面的に禁止するにいたった。七月二日付の朝口新聞はそのことについて、「大本教禁止さる。台湾総督府より内務省に抗議的紹介」と題し、つぎのような記事を掲載している。「明治製糖の田崎法学士、三井物産の岩田支店長等が、昨年の暮れ台湾に大本教の宣伝を試みし以来、台南支部を初め新設の台北、嘉義支部からも綾部の本山へ寄附金少なからず、人心惑乱を惧れた総督府では、元来台湾にはタンキと称する巫子神降しの類いがあり、当局は之を禁止しながら大本教を黙許するのは片手落ちだといふ島人仲間の小言もありたなれば、総督府にては之を禁止し、更に数種の出版物の発売を禁止して、この程内務省に対し『内地では何故大本教を禁止せぬか』と抗議的紹介を寄越したといふ。(東京電話)」
 これは当時、日本国内にあっては、普選運動や労働運動などが活発化しつつあったこと、朝鮮における総督府の暴政にたいする民衆の反抗、その具体化としての万才事件などの勃発、中国における民衆の抵抗、その具体化としての日本商品のボイコット、五・四運動などがあいついでおこり、台湾関係でも高砂青年会が在日留学生によって組織され、民族運動にのりだすなど、民衆運動がいちだんと昂揚しつつあった。そうしたおりから、大本が世界の大改造が迫っていると予言し警告したのであるから、台湾当局は、大本の宣教が本島人にあたえる影響をおもんぱかって、大本禁止の挙にでてくるのである。台湾における大本への弾圧は当然内地にも波及し、大本の収締りが強化されるひとつの動機をあたえた。

〔写真〕
○台湾略地図 p457
○現地新聞に報道された大本宣教の風刺画 p458
○台湾総督府 p459
○大本の台湾宣教は禁止された p460
○台湾総督府および中村古峡への反撥文 p461
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