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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第3章 >4 文書宣教よみ(新仮名遣い)
文献名3教内の論争よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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ページ476 目次メモ
OBC B195401c2342
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本文  一九一九~二〇(大正八~九)年の間に教勢はいちじるしく拡大していったが、その反面、教内にもさまざまな対立がおこってきた。それは分派へのきざしでもあった。そしてまた第一次大本事件を誘発するひとつの内因ともなっている。それらの帰結は、結果的に教学の整備をうながすことにもなり、第一次大本事件をさかいとして、その動きが表面化し、逆に整理されていくことにもなったものである。そうした経過を明確にするためにも、この時期の教内事情を知っておく必要がある。
 当時の教内事情を示す具体的なあらわれのひとつが、教内の論争である。なかにはほとんど感情的対立に終始しているものもあり、全体としては論争とよぶにふさわしい内容をかならずしもともなってはいないが、しかし、いろいろなグループがじじつ存在していたことと、それらのもっていた雰囲気や、また信者のなかにおける教義理解の多様性という、いわば当時の大本のきわめて特異な一齣が、この論争にうかがわれるのである。
 当時の中外日報が「天理教がよく教内の言論統制を行っているのにくらべ、大本はきわめて自由で、信徒による幹部攻撃さへ平然と行はれているのは、きわめて対照的だ」という意味の記事をかいているのも誇張ではない。当時の教団にあって、多数派をしめていたのは天皇絶対論者たちであった。浅野をはじめとする大日本修斎会幹部のほとんどがそうであったし、浅野と対立した石井弥四郎・真住衡平・岸一太・友清天行などもすべて、熱烈な天皇絶対論者であった。だから、かれらは相互間の対立も当時の「皇道大本信条」を中心とする敬神尊皇愛国という原則では一致しており、その範囲内において、主として尊皇と立替えの理解の相違をめぐって論争をおこなったものにほかならない。
 時期的にいちばんはやいのは友清であるが、かれはあきらかに、分派の意図をもって大本および修斎会を攻撃した。ついで岸一太(医学博士)による浅野攻撃が具体化してくる。これは岸による一方的な浅野攻撃で、浅野の著書や発言に異論をとなえ、王仁三郎がそれを「神霊界」誌上にとりあげた。岸の「皇道大本我観」が発表されたのは、大正九年四月一一日号の「神霊界」においてであった。そのなかでかれが主張した要点は、(一)立替え立直しの時期にたいする疑問、(二)その実行主体に内する反論、(三)大日本修斎会(浅野総裁)の独断専行に対する非難などの三点にまとめることができる。(一)について岸は、いわゆる「大正十年立替え」説を攻撃し、神諭の立替え立直しの時期に関する部分を引用しながら、立替えは立直しをともないつつ、「大正二六年」までに徐々におこなわれるとうけとるべきだと主張して、浅野のいう大正十年説を「若し其の予言したる時期が相違したる場合には、之れ即ち皇道大本の非難排斥せらる一大原因となるのである」と非難した。また(二)については、浅野がその論文で「皇道大本は皇道の実現実行の中府である」こと、また「皇道大本は神諭を中心とする教え其物であり、修斎会は其教えを実行する機関で、つまり大本は祭事、修斎会は政事である、そこで大本の教えが拡まり、修斎会の活動が盛んとなって、日本全体に及ぶときは祭政一致の実現である」と説いたことを指摘して、「不敬のきわみだ」と攻撃するのである。岸によれば、「神政復古祭政一致とは……畏くも畏けれども天津日嗣天皇が、皇道によりて天下国家を知し召し給ふ暁の状態」であって、「皇道大本が其の実現実行の中府とは誠に恐れ多いことで、私などは進んで批評はなし得ぬ処」というのである。また(三)の修斎会に専断がおおいという非難の声は、岸ばかりでなく、当時において一家言をもった有力信者あるいは、いわゆる「霊力者」たちの間にもあり、修斎会幹部に登用されなかったものが、ひとしくおこなったととろで、多分に感情的な内容をふくんでいた。
 ところで、こうした攻撃ないし論争にたいして、実質的に教団の最高権威であった王仁三郎は、どんな態度を示したのか。岸と浅野の対立についていうなら、多分に王仁三郎は浅野を擁護しながら、しかし決定的には両者に等分した判定を下すという、細心の注意が払われている。たとえば岸の論文中、随所に「付言、王仁曰く」と挿入し、立替えの時期の問題については、「岸博士と浅野総裁の見解に、非常の懸隔があるやうですが、私の見る所ではドチラへも軍配を上げることが出来ませぬ。……要するに岸博士は大本の前途を案じての至誠至情より注意を与へらるる方なり、浅野総裁は名位を捨てて、一身を神に捧げて大本の発展否皇道の稜威を宇内に開かさんと余念なく活動して居らる義人である」とのべ、皇道の実現実行の中府ということについての非難にたいしては、「中府とは霊府ということと同じ意味でありまして……中府は決して首府ではありません。その誤解の恐れあるため、私が皇道我観に、惟神の霊府にして皇道の実現実行の中府に非ず霊府なりと書いたのです」と、浅野のために釈明するなど、両者の対立関係が尖鋭化することを極力回避しようとつとめられていた。
 このほか、皇道大本惟神会や皇道擁護団などもかなり露骨に反浅野・反修斎会の主張をおこなっていた。皇道大本惟神会は真住衡平が主宰し東京下谷区谷中真島町にあって、大本関係書籍の取次店をも経営していたが、その会則によれば「(二)本会は皇道大本惟神の信条に依り敬神尊皇報国の大義を実行し神諭の趣旨を奉じ」「(五)会員は大日本修斎会員及び一般研究者により成る」とするものであった。その機関誌「かむながら」は、王仁三郎が出京したさいの訓話やあるいは神諭の中から、大日本修斎会にたいする攻撃的な言句をえらんで収録し、また同誌第二号には、「大日本修斎会ニ対スル糾弾質問」を真住衡平が書くなど、公然と反修斎会の動きを示している。
 皇道擁護団は本部を綾部町西本町に、支部を東京京橋区築地一丁目においていた。そして坂本生成が代表者となり、退役陸軍大佐であり大本教監であった石井弥四郎や、岡田泰実らが、旬刊B5判の機関誌「皇道新報」や不定期の冊子などを発行していた。その冊子のひとつである「大本神話」で石井は、「私は皇道大本の役員でありますが、修斎会に対しては何等の関係を有しないのみならず、むしろ反対の位置にあるのであります。……修斎会が間違った宣伝をしてゐますが、それは悪事千里を走るのたとへで、人の耳に入りやすいやうにわざと間違ったことを神さまからさせられてゐるのです」と、かれもまた公然と反修斎会の立場を明らかにしている。その「綱領」には「(一)、皇道大本の主張する皇道とは、皇国の使命を全ふし、……皇祖天照大神の神勅を実現実行するの道に外ならず、而して斯の道は……世の立替え立直しの遂行に依り、初めて貫徹し得……故に本団は之を確信して実践躬行すること……を本旨とす」とあり、また三大詔勅(軍人勅諭・教育勅語・戊申詔書)・古事記・善言美詞(大本祝詞)・大本神諭をひとしく「皇祖皇宗の御遺訓」と規定して、その「実行を期す」と宣言した。
 惟神会が神諭や王仁三郎の訓話に依拠して修斎会を攻撃したように、石井らの一派もまた、もはや修斎会の時代はおわり、「皇道大本の真髄即ち出口王仁三郎大先生の真の御主意を闡明する時期に」なったと主張し、王仁三郎によって浅野の退陣をせまろうとした。
 以上のような教内の反発は、ひざもとの亀岡でもおこっていた。一九二〇(大正九)年六月、亀岡で創刊された「大本新聞」は、「大本の統一問題」という題目で「……統一とは、下の者が上の者に服従して行くことだといふが……大本の役員はすべて教主にのみ統一せらるるのであって、会長や局長に統一せらるるのではない……」と反修斎会の態度を示し、「攻撃文でも何んでもかまいませぬ……一般の寄稿をお願ひする」という社告をだし、反修斎会の世論をあつめようとした。亀岡は、大本が入手して間もないころであり、荒廃した城址の整理については修斎会はむしろ厄介視していたので、王仁三郎が直接指図していた。したがって、修斎会の幹部にたいして反感をもつものもおおかったのである。ことに血気にはやる青年隊員らは綾部の金竜殿にあつまって、青年弁論大会に名をかりで、はげしい浅野攻撃をおこなったこともあった。
 しかし、こうした各様の動きは、他面、現状認識の無理解さによるものでもあった。当時における当局からの圧迫が、教団組識の変更を余儀なくさせられ、教団の実践機関である修斎会から、形式的にもせよ王仁三郎が離脱して、責任のないことになったその事情を理解しないで、それらを浅野の独断専横とうけとったのである。くわうるに、神業上の中心的柱である王仁三郎にたいする信仰的理解が、浅野のしめる役職を不当とも考えたのである。
 だが、問題はそうした個人攻撃や役員間の対立のみにはとどまらなかった。すなわち、「一輪(厘)思想」と称された神諭の解釈をめぐる見解の相違が、しだいにあきらかとなってきた。神諭の解釈は、いちおう王仁三郎以外ではできないものとされていたが、しかし現実には、各人各様に「身魂相応」の解釈をなし、自己の解釈を正しいものと信じて、それを主張する状態であったから、そこには統一的な解釈がなりたっていなかった。
 「一輪思想」とは、筆先にある「一輪の経綸がいたしてある」に由来する言葉である。すなわち筆先には、「日本の国に只の一輪咲いた梅の花の仕組で万古末代続かすのであるから、人民は判らんのももっともの事であるぞよ」(大正5・11・8)とのべられており、また「世の立替え立直しのあるという事は……九分九厘までは知らしてあるが、もう一厘の肝心の事は判りておらんぞよ」(明治25・旧正月)とも記されていた。その「一輪」・「一厘」の思想である。「一輸の経綸」がなにかということについては、すでに早くから関心がもたれていたが、王仁三郎の教説ではそのことについて、「火水」(秘密)の仕組とのべられているだけであって、真意は解説されてはいなかった。そこで「一輪咲いた梅の花」とは日本の皇室のことであり、天皇による世界統一の経綸とする理解が有力であった。岸一太は「皇道大本我観」のなかで、「今や皇道大本信者にして、御神諭中の一輪咲いた梅の花の仕組の一端を窺い知り得たる者少なからず……即ち天津日嗣天皇の天下を知ろし召し給ふ時である」という解釈をなしているが、当時の大多数の幹部もそのように解していた。
 ところが一方、それとはまったく対立的に、立替え立直しは三千世界の一切にわたっておこなわれるものであって、天皇と日本国体だけが、例外となるはずがないという考えかたが存在した。これらの人によれば、第一次世界大戦後の世界各国の帝王や主権が没落した事実と筆先の予言とが比較され、日本国体も現在の状態では、保障のかぎりではないと理解すべきだと、注目すべき主張がなされたのである。こうした一輪思想をめぐる見解の相違が、現幹部は教義を真解していないという非難へと発展し、その一輸の真意を知っているものは王仁三郎であるから、教団は一切王仁三郎の指導にまかすべきだという議論となってゆくのである。とうした「一輪思想」をめぐる見解の対立こそ、この時期の教内論争のもっとも集中さるべき重要な問題が内包されていたといってよい。

〔写真〕
○皇道大本我観 p477
○大本新聞 第1号 p479
○皇道新報 p479
○かむながら p479
○茶道のけいこ 左から2人目三代直日 p481
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