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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第3編 >第1章 >2 最初の警告よみ(新仮名遣い)
文献名3第一回調査よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-01-31 21:55:37
ページ527 目次メモ
OBC B195401c3121
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本文  事件の勃発を予想させるようなさまざまの兆候があらわれはじめるのは、一九一九(大正八)年にはいってからであった。もちろん、それ以前に事件の前兆がなかったわけではない。たとえばのちに大本にたいする攻撃の立役者となった中村古峡のいうところによると、早くも一九一八(大正七)年には東京地方裁判所が、古峡に、「大本教の鎮魂帰神と催眠術との関係如何」という鑑定を求め、その鑑定書を各府県警察部へ廻送している(中村古峡『迷信に陥るまで』)。各府県警察部が大本の存在と行動に関心をもつことは、政府の宗教政策や平沼の訓示などからみても当然であるから、この鑑定によって、いっそう疑惑の念を深めたであろうし、なんらかの調査が開始されたと推測される。しかし、具体的に当局が調査にのりだし、最初の干渉を大本にたいしてくわえたのは、一九一九(大正八)年にはいってからのことである。そのような治安当局の動きに呼応するかのように、この年になってから、大本にたいする批判と攻撃が、槍一〇万本を注文したとか、王仁三郎が二五万円の財産をつくったとか、主として中傷にもとづく人身攻撃が、一段とはげしくなってきたことも注意すべきである。こうした動向よりみても、一九一九(大正八)年という年は、第一次大本事件の第一段階としてまず注目しておかねばならぬ。
 まず第一回の調査は、一九一九(大正八)年二月二五日から三月一日までの一週間にわたっておこなわれた。保安課長中村安次郎と、警部岡田某とが綾部に出張して、「神霊界」所載の記事について、出口王仁三郎や浅野和三郎らを尋問している。このときの調査の目的は、藤沼警察部長が中村らの出発にあたって、「検挙するのではありません、あの人々が何を云ひ、何を行はうとするかを、如実に調べて来てくれ」(藤沼庄平『私の一生』)と指示していることにうかがわれるように、大本の主張している立替え立直し=「大正維新」の具体的内容を、当事者に直接尋問して明らかにし、大本対策の材料を手にいれることにあった。第一回調査にたいする王仁三郎らの回答は、ほぼつぎのようなものである(「京都日出新聞」大正8年5月11日より16日まで連載の京都府警本部発表による)。

第一「皇道大本は宗教なりや」との質問にたいして、出口王仁三郎は「皇道とは統一の道にして、その内容は政治、宗教、教育、実業、文芸、天文地文学の根本を解説するものでありますから、現今に於ける宗教とは相異つております。現今の所謂宗教に属するは、その範囲が狭くなって、皇道即ち神勅、政治、教育等を説くことができませんから、教祖も自分も之を宗教とすることは好みません」と答え、「従って教祖、教主等の名称は宗教上のものであって、寧ろ開祖、会長といふのが至当でありますが、唯通俗的に前述の通り教祖等の名称を付しております」といひ、浅野和三郎も亦同じく宗教たることを否認し、「天皇を戴き綾部を中心として古神道を実行す」といふ点において、所謂神道とことなるものとし、また「宗教は謂はば忠告的に過ぎないが皇道は常に権能を伴ひます」とて宗教的なことを否定する如くなるも、その邸内の標札には明かに皇道大本教なる文字を用ひ、又王仁三郎は「他の宗派につくことはいやですが、独立の一派として認可されるならば喜んで御請します」と陳述せり。
第二「世の立替とは何ぞや」の質問にたいし、王仁三郎は「日本対世界の戦争が起ると謂ふことは、御筆先にも書いてありますし又私も斯く信じております。明治二十五年より三十ヶ年間に世界の改造があるべき筈なりしに、私の改心が出来ない為、十ヶ年間遅れたため、世界の大戦も十ヶ年延びたと筆先に書いてあるのです。世界の立替は日本対世界の戦争より始まり、その戦とは殺し合ひばかりでなく、何も彼もの戦であるといふ意味であります」また「神と人との世界改造運動」といふ書物に書いている、大正八年の末より一年にかけてある世界の大戦の有無については、「私は否定も肯定もできません。筆先には改心さへすれば戦争なくして、「松の世」にしたいとありますから、戦争が起るや否やは判りませんが、大正十年は辛酉で、即ち神武天皇様の紀元節第四十四回目にあたりますから、皇運御発展の時期が到来しておると思ふておるのであります。それ迄には思想の統一が出来て尊皇、愛国、敬神の精神が勃興することと確認して、それまで私は一生懸命努力をする考へでおります。なお日本対世界戦争において、日本は一時大部分を占領せらるるであらうと信じて、之を話したことはあります。そうして、その戦争は十ヶ年以内の中には確かだと思ひますが、その何年先なるやは確信は出来ません」と陳述し、浅野和三郎は「日本対世界戦争は神諭にも明らかに出ている通りに近き将来に出現するものと信じます。今年とも明年とも神諭には出ていないが、大正十一年は大転換期であることは神諭でも明らかであって、又世界の大勢から常識的に推考しても実現するものと私は確信します。戦争の相手は私の意見では○○が主動で、他の数ヶ国も直接間接これに附随するものと思ひます。この戦争は比較的短期間であって、終局は神界の加護により、日本が敵軍を全滅せしめますが、日本人も心身の汚れたる者は大部分淘汰さるること信じます」と陳述せり。
第三「綾部町が帝都たるとは如何」との質問にたいし、王仁三郎は「世界の大戦乱が起った場合には、日本が外敵に中断され、東京が危険になるから、帝都が京都になり、綾部が御避難場即ち行在所になると信じ、万一の時の用意のために、健実なる志士を養成することにかかっております。行在所は、世人又は政府においても、今は信じないから、我々がその万一の御用意をして置かねばならぬと思ふておりまして、これに要する金銭は、幹部の人が出し、且つ特志家の喜捨も受けてこれに充つる考であります」と陳述するにたいし、浅野和三郎は「日本対世界の大戦は周囲の状況上内地戦であって『東京は元の○○になる』と神諭に教へております。従って陛下は京都御遷都より続いて、綾部町に御遷りになる場合もあると私は信じます」と陳述する。要之、所謂お筆先には綾部は「みやこ」となる。又は「十里四方は宮の内」とあるを以て、神諭によりあるひは帝都と解し、あるひは地形の狭隘に失するにより、常識上行在所又は御避難所と解するものの如し。
第四「立替後の状況如何」との質問にたいし
(イ)浅野和三郎は「君主立憲政が布かれ、日本天皇は統治権を掌握され、世界は十二ヶ国に分れ、例令ば三百諸侯を幕府が統治するやうになるのです。詳言せば世界の君主は日本天皇お一人に限られ、各国は大統領の如き者を置くのです。(デモクラシーはこの傾向より生じたるものにて、最後の理想状態に到達する迄には、民主主義と君主主義との大衝突があります)」
(ロ)「祭政一致の実行即ち神政は確実に復古し、天皇の下に祭務と政務の二長官があって陛下を補弼し奉り、つまり大連大臣が一人づつでき、国郡町村にもそれぞれ此の二方面の機闘を設置することとなります」
(ハ)「経済状態は先づ私有財産制度の撤廃であります。即ち明治維新の際に、諸侯が藩籍を奉還したのと同様の手続きが全階級に及ぶのであります。而して改めて霊的階級に応じ、陛下より永久に貸与せられ、勿論土地売買の如きは禁止さるるのであります。(神諭にも土地を私有することは罪悪の根源であると出ておるが、詳細は教主の手で今後出るのです)又貨幣制度も百事整頓の暁には廃止され、物品の有無を交換すべき制度が官設さるるのであります。従って交通機関等は無料になります」
(ニ)「職業は世襲となり、万世一系は上皇室を首め奉り、下人民にも及びます」
(ホ)「服装はその階級と、職業とによりて固定し、一切の流行等を禁止するのです」と詳細に陳述し、又王仁三郎も私有財産制度廃止の時期きたれるをいひ、「人民が土地及び財産を私有すべきものでなく、皆皇室の御料であるから、奉還する時期が世界の立替即ち此所十ヶ年の間に実現すると信じております。又貨幣制度は欲心を起す基礎なるが故に、物資交換の制度に復活され、なほ斯る時代が到達せば、四民其の職業に安心して、其の職業は世襲となり、農の子弟は農、神官の子弟は神官、官吏の子弟は官吏となり、茲に家柄氏等を生ずるに至るのであります」と陳述す。
第五、「鎮魂帰神は催眠術の、又は自己催眠の類にして、審神者がその為所謂暗示を与へ神の存在を教ふるにあらずや」との質問にたいし、王仁三郎は「催眠術との区別は私にも明確に判りませぬが、鎮魂の法が催眠術の進歩したものか、又は催眠術が鎮魂法の進歩したものかは知りませぬ。開祖はこれを非難し、反対し、『稲荷下げなどと誤解され名を汚す基となる』と筆先にも在りまして、私は廃止しておりましたが、浅野氏が復活したのであって、近時は大にとれを憂へて中止する計画にしたいのであります。なお開祖は、『早く廃止せぬと神が役人の口を藉りて廃さすぞよ』と申されました」と陳述せり。
なほ上述の如く、神諭即ち御筆先に於て非難あるが如き鎮魂の法を、神授の秘法と称するのは如何、との質問にたいする陳述は、極めて不明瞭なるのみならず、彼等はこの点に就ては、所謂お筆先に従はず、且つ王仁三郎は浅野和三郎が継続実行することに藉口するものの如し。
第六、「皇道大本と修斎会との関係如何」との質問にたいし、浅野和三郎は「皇道大本とは一の教にして、例令ば日蓮主義と謂ふが如く、又修斎会はその教を宣伝実行する有志の団体であります。従来はこの区分が明かでなかったが、将来は私が、修斎会の会長として区分を明かにして、会計その他の事務を執って行くつもりであります。教主は神諭を出すのみで、布教宣伝の実務には全く無関係(従来これありしも将来は)従って修斎会とは直接何等の関係もありません」と陳述し、また王仁三郎は自己と修斎会との関係には、「今迄は自分が修斎会の会長でありましたが、二、三ヶ月前から分離しました」と陳述す。
要之、大本と称しまたは修斎会と称するも、整然たる区別の存するものにあらざるが如し。

 こうした京都府警察本部の第一回調査にもとづいて、中村保安課長はその調査報告書を内務・文部両省に提出して、その後の指揮をあおいだ。
 藤沼警察部長は中村の調査報告書や大本関係の著書・雑誌類をみたあとで、単独私服で綾部におもむき、報告および民間に流布されている、前述のような噂などについて必要な点を視察した。そして、王仁三郎の案内で、藤沼は、鎮魂帰神の状態、神殿における神々の配置や叢雲の剣・おこもり処・大八洲神社・神社下の洞穴・刀剣類などをこまかくみてあるいた。

〔写真〕
○関係地図 ①京都府警察部 ②京都府庁 ③京都監獄 ④京都地方裁判所 ⑤二条離宮 明治~大正年代 p527
○藤沼庄平 p528
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