文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第3編 >第1章 >3 検挙への動向よみ(新仮名遣い)
文献名3第二の警告よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2022-06-10 05:24:58
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一九二〇(大正九)年の五月ごろになると、大本にたいして再調査がおこなわれるのではないかという噂が流れはじめる。大本の内外には緊迫した空気がただよい、京都府警のわずかな動きもそれとの関連でうけとめられた。たとえば、京都府警務課長歌川警視が、警察事務視察のために丹波方面へ出張中に綾部の大本を参観したが、それもなんらかの内命をおびた行動ではないかと観測された。事実、馬淵京都府知事は、大本がいかなる教義をもっていようとも関知するところではないが、「唯治安に触るや否やは常に注意を怠らざる処にして、近くは日支、日米戦争の予言の如き、その声の高まるにつれ国交上に及ぼす影響恥からざるべきを以て、当局としては黙過し刻き事態に陥るやも知らず」という談話を発表していた(「中外日報」大正9・5・11)。
つづいて六月にはいると、内務省は「絶対禁止的の取締りを断行すべく、目下警視庁に命じて調査中」であるという噂がつたえられ、つぎのような、湯合によっては禁止もしくはそれ以上の法の執行にあうという、川村竹治警保局長の談話が報ぜられたりもしている(「中外日報」大正9・6・8)。
大本教が一種の宗教であり信仰であれば少しも差支はない訳だが、大本教を奉ずる者若くはその宣伝者が、大正の何年に大戦争があって国家が危険に瀕するなどということを言い触らしたりする様だと、是は明かに国家の安寧扶序を紊る言動となるから、之に適応すべき法を以て臨まねばならぬ。要するに安寧を害し秩序を紊る様な言動があれば禁止されるは勿論、場合によればそれ以上の法の執行に遭う訳で、調査の結果に依つては或は絶対禁止を命ぜらるるやも知れぬ。
当時の馬淵京都府知事や川村警保局長の談話によってみても、当局の関心が、宗教としての大本の活動にあるのでなく、日米戦争の予言のような、安寧秩序を害するおそれのある言動に向けられていたことがわかる。大本再調査の噂は、たんなる噂ではなく、このころからじっさいに当局は必要な処置を講じはじめている。
その一例は、同年の六月末に、台湾総督府が内務省の指令をまたずして、台湾での大本の宣教を禁止したことにもみられる。台湾における宗教弾圧はその以前にもあった。すなわち童虬禁止※をめぐる事件がそれである。一九一五、六(大正四、五)年のころ、台湾台南市附近の西来庵という古寺院に中国から行者がわたってきて、童虬とよばれる神降しをなし、「いまに台湾総督府は日本に引上げ、台湾全島はふたたび中国の属領となる」という予言を流布した。そこで総督府は、台湾の日本人を鏖殺する叛乱をくわだてたとして一〇〇〇数人の台湾人を投獄し、その首魁ほか数百人を斬罪にした。それ以来台湾では、童虬はとまったが、一九一九(大正八)年の末に大本教の教線が台湾にものび、台南・台北・嘉義に支部が設置されて、鎮魂帰神がおこなわれることになった。童虬を禁止しながら、童虬類似の鎮魂帰神を禁じないのは片手落ちであるという抗議にあった総督府は、大本の鎮魂帰神を禁止し、さらに数種の出版物の発売を禁止したのであった。そして総督府の丸井社寺課長は、内務省に「内地では何故大本を禁止せぬか」と抗議的照会を発している。
※前掲「文政並に大本教に関する質問」によると、童虬は台湾の旧習で、ひろくおこなわれていたという。二股の桃の枝を持ち、それを振る。没心のうちに振っていると神が憑りうつるという。桃の枝が地面にふれて地上に線が描かれると、側に判断するものがいて、その線の方角や模様をみて吉凶禍福を判断し、あるいは世相を判断するものであった。
またこのころ、前述の中村古峡は、内務大臣の官邸で、二回にわたって大本教に関する講演と鎮魂帰神に関する心理実験をおこなった。席上には内務大臣床次竹次郎を始め、警視総監・警保局長らの高官一〇数名が列席していた。講演の内容は、鎮魂帰神は催眠術であるという従来の中村の主張をくりかえしたものであったらしく、床次は「然らば大本教の何処が悪いんだ」と反問し、大本の行動は他宗教のやっていることと同じであるとして、このときは、大本への弾圧を考慮しなかったらしい(中村古峡『迷信に陥るまで』)。
しかし、このことは、内務省が大本にたいしてただならぬ関心を寄せていることを示していると同時に、とりしまりの方向が宗教としてではなく、治安維持に関する点にむけられていたことを示すものといえよう。
さらにまたキリスト教も、日米戦争の予言は国際間の誤解をまねくおそれがあるとして、政府にはたらきかけていたが、同年の七月ごろになると、こんどは神道教派が動きはじめる。八月一日付の「中外日報」は「神道教派より政府へへ大本教に対する質問を発せん」とのべて、その質問の内容をつぎのように報じている(「中外日報」大正9・8・1)。
……大本教に於て自ら宗教にあらず皇道なりと称すれども、其実質は宗教の形式を具ふるは議論の余地なきにも拘らず、政府が宗教としての監督をなさず、只治安警察の上より観るに過ぎず。政府の認むる現在の宗派は、政府の干渉あるのみにて何等の保護もあらざるが故に、大本教を現在の如く宗教行政の上より放任するならば、他の宗教も之れと同様に開放して治安警察の上よりのみ監督して可なり。政府が大本教を観るに警察眼のみを以てし、宗教行政の立場より之を監督し改善を促し、同教の流布に弊害ありとせば、其弊害を未然に防ぐの道を講ぜざるは怠慢無責任の譏りを免れず……
これは質問というよりは、大本への弾圧を要請するものであったといってよい。また、藤沼京都府警察部長は高芝警部の内偵の結果を上司に報告していた。大本のとりしまりについてかねて準備をすすめていた内務省は、こうした動向をうけとめて大本の弾圧を決意するにいたった。そしてまず八月五日には、『大本神諭(火之巻)』を「不敬」と「過激思想」の理由で発売禁止し(八月一八日東京警視庁は『大本神諭(火之巻)』および『神諭・善言美辞』を押収し、また京都府警も綾部署に命じて『大本神諭(火の巻)』一三二冊を押収している)、また同時に各府県長官にたいし、厳重に大本教をとりしまるようにとの訓令を発した。
訓令の内容が具体的にどのようなものであったかはあきらかでないが、「中外日報」はそのことについて、皇室の尊厳を冒涜するようなことがらはもちろん、皇室におよぼすととろありと認められる場合には、ただちにとりしまりを断行すべしという内容であったと推測している(「中外日報」大正9・8・7)。
たしかに、内務省警保局が当時の大本にたいしてとった取締方針は、前述の神道教派の抗議にもかかわらず、宗教行政の立場より、その教理や儀式あるいは組織の内容にたちいってとりしまろうとするのではなく、「治安警察の立場より、国家の安寧秩序を保持する上に於て妨害ありや否やに関し注意を払ふ」ものであった。そしてその結果公安を害するものありと認められる場合には、出版物なら出版法を、集会なら集会法を適用して処分する方針であった(「中外日報」大正9・8・10)。
この八月五日の内務省の訓令はさまざまな波紋をうんだ。京都府警察部は、すでに不敬罪として大本を告発するだけの確認をえたという情報や、またここ数日のうちに一大鉄鎚が大本にたいして下るという噂が、しきりに流布された。そして不敬罪の理由は、なおの墓地を桃山御陵ににせてきずいていること、また宣教書類中から、皇室の尊厳を冒涜するとうけとられる辞句が発見されたためでもあると報ぜられたりした。さらに大正日日新聞社の買収に関する交渉や寄附金の相談などで上京した浅野和三郎の行動は、告発を防ぐために警保局の諒解をえんとする秘密運動であるとか、あるいは、幹部の出入りに尾行がたえず、講演会席上には速記者が派遣されるなど警察の動きが活発であるため、教団内部の動揺がおこり、王仁三郎を中心とする旧派と、浅野を中心とする新派に分裂する気配があるなどと報道されたりした※。これらのニュースが世人の大本にたいする関心をいっそうたかめていったことは多言するまでもない。中村古峡の『学理的厳正批判大本教の解剖』が出版されたのもこの頃である(初版は大正9・8・5、10月には増補版をだしている)。
※「中外日報」はほとんど連日この内務省の訓令をめぐる動ぎを報じている。また七月には大正八年の京都府警の発表を再掲載している。
このような状況にあった八月のなかごろに、藤沼警察部長は突然上京した。その著『私の一生』によれば、彼は当時の大本にたいする内務省のとりしまり方針に不満をいだいていたという。『大本神諭(火之巻)』の発売禁止命令と同時に、「大本教取締に関する諭達の趣旨を代表者に説明せよ」との通牒を藤沼はうけとっていたが、彼は大本を検挙すべきであると考えていたので、王仁三郎らに諭達の趣旨を伝達しないで、あたかも八月五日から亀岡の大道場で、開催中であった皇道大本講習会に警部補前田達三を派遣した。そして、すでに内偵中の高芝警部との協力捜査を命じておいて(「大阪朝日」大正10・5・11)、みずから上京したのであった。その目的は、具体的な証拠をにぎり、大本を検挙するために内務省主脳の諒解をえることであった。その結果がどうであったか明白でない。
このときの上京であったか、あるいはその後に再度上京したときのことであったかは確認しえないが、藤沼はあくまで検挙の意志をすてず、豊島刑事局長に面会して苦哀をのべたという。そこで豊島刑事局長は、平沼騏一郎検事総長にあうことをすすめ、その連絡をとった。
藤沼は、平沼と小山松吉次席検事の二人に、これまでおこなった調査の結果を報告した。小山検事は、すでに藤沼の報告をよんでだいたいのことは知っていたようである。その結果平沼は、藤沼に「京都の検事正に検挙を命ずる。君は帰庁の上よく検事と打合せてくれ」と命じたという(藤沼庄平『私の一生』)。
こうして九月下旬には主任検事古賀検事正が就任した。前任の古森検事正はもちろんこれまでの調査にもくわわっていたが、検挙についてはあまり積極的ではなかった。そのためにも藤沼は、直接内務省や平沼の諒解をえる必要があったのである。平沼からの検挙命令が伝達されたのは、九月下旬に赴任した古賀検事圧によってであろう。いずれにしても、一九二〇(大正九)年の八月から九月にかけての期間に、大本検挙の方針が決定したことはほぼ疑えない。
当然のことながらこの藤沼の突然の上京は、ジャーナリズムの注目の的になった。しかし藤沼は、各記者にたいしては、墓参で帰省した途中に内務省へたちよっただけで、さいわい自分の意見を通じておく機会があっただけだと、その内容をぼかしていた。そして智識人たちの大本批判を「多くの人々が実際何も調べていない癖に、何とか云ってみたくなるといった風では甚だ物足りない。……識者の意見が余りに実際に迂遠なことをみて、議論に権威のないことを痛嘆している」と批評し、「自分は大本教を一概に迷信邪教視して、厳重に取締って叩き潰せといふ様な偏した考には与する事が出来ない」とのべている(「中外日報」大正9・8・18)。
帰洛してまもなく、藤沼は内務省の方針にしたがって、第二の警告を大本にあたえることにした。八月一七日、王仁三郎は綾部署に召喚され、京都府警察部の小原高等課長からつぎのように警告された(三木晴信『宗教類似教団に随伴する犯罪型態の考察』昭和12・3、「司法研究」報告書第二十一輯の八)。
皇道大本の宣伝に就ては予て注意せし処なるも、未だ遵守せられざる点あり。左記各号に該当する事項は、皇室の尊厳を冒涜し、国交を紊り、人心を誑惑し、公安を害する虞あるを以て、演説、講演又は出版物等その他何等の方法を問はず之を発表せざること。
一、皇室に関し苟も不敬に亘るが如き虞ある言説
一、日米戦争若しくは日本対世界の極めて切迫せるを予言するが如き言説
一、近く憲法廃止せられ又は土地私有制度若しくは貨幣制度を廃止せらるるを予言するが如き言説
一、天変地異悪疫の大流行等に関する予言にして著しく人心の不安を惹起する虞あるが如き言説
一、鎮魂帰神は動もすれば精神に異常を起さしめ又は医療を妨げ疾病を重からしむる等諸種の弊害を生じたる事例尠からざるを以て爾今此方法を行ひ弊害を生ずること無きやう厳重なる注意をなし可成之を行はざること
この第二の警告は、最初のそれとちがって、不敬の問題・日米戦争の問題など、警告の内容が具体的になっていることが注意される。が、それよりも重要なことは、この警告が、いままでのべてきたような、ほとんど検挙が避けられないという状況のなかでだされていることである。もし、平沼の検挙命令がすでにだされていたとするならば、この警告は、その方針をかくすための煙幕にすぎなかった。事件はもはや目前にせまりつつあったのである。
〔写真〕
○1920─大正9年5月以降当局の大本にたいする取締りはさらにきびしくなった 中外日報 p549
○床次竹次郎 p551
○大本神諭 火の巻 p552