文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第3編 >第2章 >1 検挙よみ(新仮名遣い)
文献名3第二回家宅捜査よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ574
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このようにして大本首脳の検挙はおわったのであるが、この第一回捜査は綾部のほか、京都市内では梅田信之(常次郎)、亀岡では谷口正治、八木町では福島寅之助宅など一二ヵ所におよんだ。だが、当局の追求はその後も続行された。事件が勃発してから一〇日後の二月二二日には大本本部は再度の家宅捜査をうけたのである。
二月二二日の午前八時四〇分、綾部に到着した加藤予審判事・中田検事ならびに舞鶴からきた栗田検事らの一行は、警官隊二〇人をしたがえて、降りしきる雪のなかを九時ごろ教主殿につき、二代教主に再度家宅捜査の旨をつげて、教主殿とほかとの連絡を遮断して捜査にかかった。すみ子立会のもとに、第一に鈴の間隣りの床下穴ぐらにあった金銀銅貨をひとつひとつ勘定し、さらにその敷石までおこして、機密の有無をしらべた。このときに王仁三郎の机および「神霊界」編集部の机や本箱なども点検し、神書や原稿などを押収した。その直後に、こんどは直日の案内で黄金閣をしらべ、一~二階の畳をはがし、床下をつついて、一~二階を連絡するしかけがあるかないか、一階と床下、地下との連絡のしかけがあるかなどこまごまと点検した。栗田検事にいたってはみずから上衣をぬいで、問題の地下室(実は旧岩戸跡)の構造や、大きさ・深さなどをしらべるというはりきりようであった。しかし当局の期待にもかかわらず、なんらあやしい箇所はみいだされなかった。
ついで、金竜海の厚さ二寸にもおよぶ氷をわって舟をすすめ、六合大鳥、大八洲神社の岩戸をしらべたり、幽斎室・機織場・教主殿前の土蔵などの再調査を念入りにおこなった。食後その一隊は、みろく殿・本宮山神殿・山麓の金明亭などを一巡し、他の一隊は天王平の奥都城・新町の倉庫をしらべ、さらに他の一隊は石井弥四郎・深町泰資宅にいって捜査また審問をおこなった。四時前にいちおうのとりしらべをすまして、教主殿にあつまり、すこしの時間を利用して、幽斎の実験をこころみさせて、これを見学し、四時五〇分の京都行の列車で、捜査隊の一行はひきあげていった。
さらに同月二七日になって、捜査は東京と名古屋へと拡大された。京都地方裁判所検事局では、収監後の出口・浅野・吉田らのとりしらべがすすむとともに、東京方面の調査を必要とし、東京地方裁判所検事局にその調査を依頼したので、同検事局では警視庁とうちあわせ、各方面の調査をすすめた結果、二月二七日の日曜日を期して、益田予審判事は滝川検事・書記一人・刑事三人とともに、麴町区有楽町の公証人平松福三郎方に出張、厳重な家宅捜査をおこなった。そして霊学の写本および大本の出版物や往復文書などを押収した。これをてはじめとして、爾後約一週間にわたって、古賀達郎・中野岩太・小森雄介・飯田博通・矢野祐太郎らの在京有力者の宅および大本信者の集会所であった四谷区南寺町の確信会の家宅捜査をおこない、多数の書類を押収した。その結果、書類などはとりしらべのうえにおいて、当局が重要な証拠品とみなされるものを京都に発送した。
また、京都検事局では二月二七日にいたって、名古屋方面について手入れをおこない、名古屋検事局の中村・三鳥その他の検事も出動して、一行一〇余人は、名古屋市西区俵町国華教育社水野文助(満年)宅を家宅捜査した。午前一〇時から午後五時までの間に、母屋および土蔵などを点検し、『言霊学原書』(杉庵志道著)一冊や、伊勢出身の国学者大石凝真素美の肖像画などの証拠品とみなすものを押収した。さらに中区東橘町の朝倉尚綗(皇風幼稚園長、熱田産婆看護婦学校長)方にいたり、大本に関連のあるおびただしい書類と、明治四二年来、朝倉と王仁三郎との間に交換した文書三〇余通を押収した。その翌二八日には、名古屋市外西春日井郡山田村小田井字南出の水谷清(名古屋市立第九高等小学校長)方でも同様に関係書類を押収した。
〔写真〕
○雪の金竜海附近 p574
○機織場 p575