文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第4編 >第2章 >2 あらたな胎動よみ(新仮名遣い)
文献名3新機運の動向よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2018-09-14 17:47:27
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第一次大本事件後にあたらしい機運がみなぎってきたのは、さきにものべたように、『霊界物語』の口述とその発表によるところがきわめておおきかった。王仁三郎は『霊界物語』の口述に日夜精魂をうちこんだが、その刊行は非常に急がれ、天声社の全力をその出版に集中せしめた。そのために、機関誌「神の国」を、一九二二(大正一一)年二月から九月までは毎号わずか八頁に縮少したし、そのうえ『霊界物語』の紹介記事のみにとどめられるという英断がなされた。そしてその間に『霊界物語』第一二巻までと、特別編としての第二二巻の刊行が強行されたのである。「神の国」は一〇月から復活して、一〇日・二五日の月二回発行にあらためられたが、さらに天声社の新館(二階建)を増築して工場の設備を充実し(一九二三─大正一二年六月一五日竣工)、『霊界物語』の刊行にはいっそうの拍車がかけられることとなった。
一九二三(大正一二)年一月一日号の「神の国」は、つぎのような年頭の辞をかかげて、『霊界物語』の発表以後の大本の「方向転換」を
大正十二年を迎ふるに当って大正十一年を顧みますと、世界としても国家としても随分激しい変動を見たと思ひます。そして世界のうつる大本、大本の映る世界でありますから、勿論大本にも可成り大なる変化があった事は否む訳にはまいりません。就中瑞月氏の霊界物語の出現によって信仰の大方針が確立せられ、爰に大本としては一大方向転換をした事は最も重大視すべき事柄だと思ひます。
と記している。
ここに明白にのべられているように、事件後の変化=方向転換は『霊界物語』による信仰の確立にあった。神諭のさまざまな解釈は、この神書によって発展されかつ大成され、「霊界物語を外にしては大本はない」と断言されるまでにいたったのである。
世界の救済は、区々たる人間努力の結果によってのみ之を齎すことは出来ません。乃ち大本皇大御神の言依さしに依るに非ずんば、到底徹底的の幸福を見る筈がないのであります。大正十二年は実に此憐むべき人々に対して、大本に現はれたる至真の大光明を投じ、以て救済の大活動に努む可き年であると思ひます。(「神の国」大正12・1・1)
こうして大本の主張する救済は、ひとり日本人にかぎられるものではなく、世界人類の救済にむけられる。「世界の救済」という表現にみられるように、世界・人類という発想が、以後の文献や活動に脈うってゆく。
昨夏人類愛に燃ゆるバハイ教宣伝使の大本に来りて一脈の既に相通ずるものあり。今やアフガニスタン国の外交使節は万難を排して日本帝国を訪れ、新しき愛の宗教に一致して東洋永遠の平和擁護を高唱しつつあるに会し、我等は無限の感興を覚ゆるものなり。今夫れ霊界物語を播読するに、其舞台の世界的なるは政も注目すべき点の一なるが如し。或は北米スペリオル湖の湖畔に教を垂れ、或は南米智利の山地に教義を説く。或は亜弗利加の蕃地に進入し、或は北欧の広野に孤影を曳き、或は万里の波濤を越え、或は雲山霞壑を踏み破る宣伝使の活動は、真に伝道師の範とするに足る。而して翻って大本の現状を見る。何ぞ其の退嬰消極的の甚しきや。其教を説くもの其足跡の及ぶ所、僅かに本土の内に限れり。……世界人類済度の経典を与へられたる我等は、或は徒らに身魂の因縁性来を生噛りにして泰平楽を並べ、或は排外的思想に没入して自ら小さくなるの愚を避け、大に之を活用して世界的神国成就の実現に努力すべきなり。噫丶人類は今や救主の出現を待ちて無明暗黒の世界を模索しつつあるに非ずや。……(「巻頭言「神の国」大正12・1・10)
たしかに『霊界物語』のときおよぶところは、ひろく世界の全域にわたり、ただたんに日本のみには限定されていなかった。しかもバハイ教徒の来訪があり、世界に飛躍しようという気持はだんだんと上から下へと浸透してゆくのである。
六月一八日(旧五月五日)には、三代出口直日と出口大二との結婚式が教祖殿でとりおこなわれ、報告祭には五六七殿に約三〇〇〇人の参列者がつめかけ、翌日盛大な祝宴がひらかれた。そして一八~一九日の一両日にわたって、みろく殿では『霊界物語』をそのまま脚本とした神劇がおこなわれた。これには王仁三郎みずからが西王母に扮して神劇が演じられ、出演者はすべてで五五人というまことにおおがかりなものであった。
はじめて神劇をこころみたのは、前年の節分大祭のおりであったが、それは小規模なものであった。そのときみろく殿内の東側に仮設された舞台はこわさずに存置され、その正面に大八洲彦命の神霊がまつられた。そしてその舞台で夕拝後、三味線入りで『霊界物語』の音読が毎夕かかさずつづけられてきたのである。
神劇や三味線を用いて、一般信者の教義への親しみをふかめ、平易に大衆化してゆこうとするところにも、これまでにみられないあらたな側面がうかびあがっている。大正末期から昭和のはじめにかけでは、国内の社会や文化のうえにも、あらたな変化がおとずれつつあった。とくに大衆とか民衆とかいう言葉がひろまり、民主々義を要求する大衆運動がおこり、世論の尊重、政党内閣の必要をとく民本主義の主張などもおこなわれてきた。
そして労働運動・農民運動も前進を示し、普通選挙法の議会通過を願う要請もいちだんとたかまりつつある。この時期が大正デモクラシー期とよばれるのも理由のないことではない。民衆勢力の擡頭は、大衆文化のひろがりにも見出される。中里介山の「大菩薩峠」が大衆小説として多数の読者をひきつけ、「キング」や「文芸春秋」が発刊されて、その発行部数がのび「船頭小唄」や「篭の鳥」が流行し、やがて「からたちの花」や「宵待草」などが一世を風靡するようになったのもこのころであり、洋服が一般化し、ラジオも日常生活のなかへととりいれられていった。こうした時代のうつりかわりを、大本の動向はいちはやく反映し、積極的に教義の大衆化がはかられたということができよう。
一九二三(大正一二)年の八月七日、王仁三郎は教主補大二・宇知丸・加藤明子・河津雄をともなって綾部を出発し、九州阿蘇杖立温泉にむかった。八日には熊本分所(奥村貞雄宅)について二泊し、一二日には杖立温泉梅屋旅館(現在白水旅館)に旅装をといた。王仁三郎は、八月三〇日までここに滞在し、入湯のかたわらエスペラントの作歌集をつくったことは前述したとおりであるが、その間、各地からつぎつぎとたずねてきた信者に面会し、書画の揮毫をした。九州各地の新聞はもとより、東京・大阪・台湾の新聞にいたるまで「大本教の王仁阿蘇に現はる」として、興味的な記事をさかんにかきたてた。
八月三〇日、杖立温泉を出発した王仁三郎一行は、熊本市の奥村宅に二泊、九月一日には山鹿に投宿し、翌二日、三玉村の観音堂と不動岩に参拝した。ちょうどそのときに、東京大震災の号外がとどけられたのである。帰路鹿本・三井・久留米の三支部にたちより、五日には福岡の原田俊隆宅に一泊し、六日下関駅で少憩をとっているとき、王仁三郎をみかけた乗客たちは、大震災は大本の予言の適中したものだとして、「大本勝った、出口さんえらい」などと口々に放言したという。また西遊中、各新聞は「王仁」とか「王仁三郎」とかよびつけにして、茶化した記事をのせていたが、関東大震災がおこると、それらの筆調にわかに変じて、「大本の予言適中」とか「この惨状に符合して宣伝を始めた」とか報じはじめた。そしてそのよび方も「王仁三郎氏」にかわってきた。
王仁三郎は七日の夕刻綾部に帰着したが、その間一ヵ月にわたる巡教の旅は、九州の信者たちを感激させ、事件後の沈滞した気分をふるいたたせるのにおおきな成果をもたらした。西遊の期間、王仁三郎はいたるところで揮毫をなし、また歌をいろいろと詠んだが、それらの歌は「西遊雑詠」として「神の国」に連載されている。
王仁三郎は杖立温泉の土産としてもちかえった竹の杓子一六〇本に、歌をしたため、自署し拇印をおして役員・信者にわたした。これがのちに「み手代」といわれて、病気平癒のお取次に用いられることになったもののはじめである。
九月一日突発した関東大震災にたいして大本では、井上留五郎を慰問団の先発として災害地に派遣し、ついで岩田・高木・御田村・植芝・宇城らをつぎつぎに派遣した。そして救助品を発送するとともに、被害者や避難してきた人たちへの救援につとめた。大震災の直後から、元信者の参綾やあたらしい求道者がめだって増加してきたが、教団は沈黙と慎重の態度を持し、このさい大宣伝にのりだすようなことはとくにつよくいましめていた。
関東大地震は、東京府ほか八県の被害がとくにはなはだしく、死者は九万一八〇〇人、行方不明は四万人、負傷者は一〇万人をこえ、家屋の被害は総計六一万八〇〇〇戸と報ぜられた。被害金額は当時の金で一〇〇億円にのぼるといわれている。なお大混乱のなかで流言蜚語がさかんにおこなわれ、多数の朝鮮人が虐殺された。そして一時は戒厳令がしかれたほどであった。かねて当局によって思想の悪化がさけばれていたが、大震災を契機に民衆運動もいっそうたかまってきた。これらの動きにたいしてこの年一一月一〇日には国民精神作興の詔書がだされ、京都府では、同月二〇日に府令がだされて、諸団体にたいして不穏な言動をつつしむようにとの注意がなされた。大本でもつぎの通知を全国各地方に発している。
……目下の如き人心あらぬ方にのみ傾きし際、積極的に宣伝の必要有之と一応考へられ、かかる意見を持する方も有之侯へども、九月七日付を以て御通知申上候通り、予言めきたるものと其筋より見倣されをるお筆先の如きは、この際、人の前にて読む等のことは、絶対に中止されたく、今は、沈黙して、十一月十日焼発せられたる民風作興の詔書により御行動相成度、右御報告旁々得貴意候。
大震災に直面した教団は慎重な態度をとった。
事件後の大本のあらたな機運をもりたてていったものとして、二代教主を中心とする巡教のあることを忘れるわけにはいかない。
二代教主は、事件後昨年末までに四国をはじめ三代直日とともに、北陸・東北の各地を巡教し、白山・月山・塩釜神社などにも参拝した。随行は岩田久太郎・渡辺宗彦。ついで二代教主は出口大二とともに九州各地を巡教、随行は谷村真友・加藤明子であった。一九二三(大正一二)年には、四月二三日綾部を出発し、関東・東北の各地をへて五月二日には北海道にわたり、全道各地を巡教して五月二四日帰綾した。このときの随行は湯浅仁斎と吉原亨の両人であった。
つぎに一一月二〇日には綾部を出発して、台湾にむかい、二五日には基隆に上陸した。そして台北・嘉義・台南・図南・高雄・屏東・火山廟・日月潭・二水などを歴訪巡教し、一二月六日には基隆を出発して、一〇日に帰綾した。そのときの随行は高木鉄男・佐伯史夫・坂内あさほか一人。これで二代教主の全国巡教がいちおうおわったのであるが、二代教主らの各地への巡教の旅ははじめてのことであり、しかも事件後における当局の監視のもとに、大本が積極的な宣伝をさしひかえていたときであっただけに、地方信者らにとってはおおきな喜びと確信とをあたえるものとなった。
こうした動向とならんで注目すべきものに、史実編纂への動きがある。
一九二三(大正一二)年の五月一日、教団内部に大本史実編纂部が設置された。王仁三郎によってそのことが〝厳御魂瑞の御魂のふみて来し道あかしする史実編纂〟とうたわれているが、部長には出口宇知丸が就任し、年譜を横尾敬義、伝記を外山豊二が担当することになった。翌一九二四(大正一三)年の五月五日には、これを大本史実編纂会となづけ、瑞月文庫の編纂・裏の神諭の蒐集・大本教祖伝・神諭の年代順整理・開祖の生誕(天保七年)より大正一二年までの大本史実および史実写真の蒐集などをおこなうことになった。宇知丸というのは旧姓佐賀伊佐男(愛媛県大洲出身)のことで、一九一八(大正七)年一〇月以来本部に奉仕し、同一一年一〇月出口家にはいって、宇知丸と命名された人である。
一九二三(大正一二)年四月現在の地方機関は、支部二四・会合所一五七・参究会一一、そのほか東京確信会など会名のつくもの九、大連には至誠社とよぶものができており、全国あわせて二〇二ヵ所。四ヵ月後の同年八月にはさらに豊明山別院(大阪府)をはじめ、会合所一〇、参究会六が増加している。
なお事件公判の進行状況について、ここで若干補足をしておくと、第一次大本事件の大阪控訴院における第一回公判は一九二二(大正一一)年の六月二一日にひらかれており、王仁三郎・浅野・吉田の三人が出廷した。裁判長は林安宅、立会検事三橋市太郎で公聞は禁止された。弁護人は江木衷・花井卓蔵・平松市蔵・足立進三郎の四人、ほかに特別弁護人として、井上留五郎・岩田久太郎・岸一太の三人がくわわっている。同月二三日には第二回、一二月一八日には第三回、翌一九二三(大正一二)年六月二一日第四回の公判がひらかれ、立会検事は三吉検事にかわった。このようにして第二審の審理が進められていったのである。公判進行中にも、つぎの発展の素地が、前述のようにくりひろげられていたことを再度想起すべきであろう。
なおこの年の二月には、栗原白嶺が単行本『聖徒か逆徒か』を東京堂で刊行し、事件下における大本信者の立場から、ひろく世に訴えているのも見逃せないところである。
一九二三(大正一二)年も暮れんとするとき、綾部在住の信者のあつまりであるみろく会の席上で、
事件以来狂乱的状態から一変して、やや天の岩戸が開けるやうな心地がしだしてきたが、これも時節の力で結構なことである。……愛国主義が誤って排他におちいり、自己愛になってしまっては善くない。世界同胞の考へを持たねばならぬ。排他は神意に反する。……今後世界を愛し、人類を愛し、万有を愛する事を忘れてはならぬ。善言美詞を以て世界を言向和はすことが最も大切である。……大本は大本の大本でもなく、また世界の大本でもなく神様の大本、三千世界の大本であることを取違ひしてはならない。……世界愛、万有愛の神の愛におしひろげて、大きな精神になって貰はねばならぬ(「神の国」大正10・新年号)。
という王仁三郎の言葉が、参集の信者に語られた。
エスペラントの採用と海外の各宗教との提携などにみられる一連の動きは、大本の世界化のためのひとつの布石であった。ここで王仁三郎が、偏狭な自己愛をいましめ、世界同胞と「万有愛」を強調したことが、やがて人類愛善主義となって開花してゆくのである。たしかに事件直後は、はやくも、あらたな胎動がはじまっていたのである。
〔写真〕
○新築された天声社 全景 文撰部 鋳造部 p705
○一九二二─大正一一年から神劇・宣伝歌の合唱がはじまった(上)少女による宣伝歌合唱(中)大正日日新聞の檄文(下)神劇─いずれも春季大祭 p707
○大正11~12年には綾部の神苑が整備された 左手前より受付・炊事場・天声社・黒門は撤去され玉垣が築かれた p708
○杖立温泉 王仁三郎自筆の絵葉書 p709
○不動岩 北面より眺む p710
○関東大震災 丸の内の亀裂 p711
○白山登山口における二代すみ子(中央左) 三代直日(右) p712
○北海道巡教の二代すみ子(馬上左) p713
○大阪控訴院に出廷の王仁三郎(左)と浅野(右) p714