文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第4編 >第3章 >3 王仁三郎一行の足どりよみ(新仮名遣い)
文献名3索倫山よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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王仁三郎と松村は宗教家として武器をもたず、そのほかのものはすべて銃をもつことになった。一行は四月二八日に、下木局子に到着した。この地は黒竜江省と熱河省、さらに外蒙古との連鎖点にあり、別名を索倫山という。黒竜江省に属するところの要害の地である。西北自治軍はここに仮本営をおいて、軍編成をはかることになった。
ここでとくに注意されるのは、西北自治軍が、別に「内外蒙古独立軍」とされたことであろう。まえにものべたように、張作霖の腹は、盧に軍兵招撫を主務とすることを命じていたのであって、それ以上は禁じていた。いまや、盧と王仁三郎は、全蒙古を「独立」させるための軍の総帥となったのだ。これは、奉天側の意志と矛盾する。これがあとに問題をのこすことになった。
この地において、つぎのような幹部編成がおこなわれた。
太上将 ダライラマ 素尊汗 出口王仁三郎
上将 パンチェンラマ 王文真 松村真澄
上将 総司令 盧占魁
中将 旅長 張彦三
中将 旅長 劉仲元
中将 参謀 侯成勲 岡崎鉄首
中将 旅長 張桂林 マンダハン
中将 副司令 楊崇山
少将 副司令兼旅長 鄒秀明
少将 副司令兼旅長 大英子児(ターインヅル)
少将 副司令兼旅長 何全孝
少将 副司令兼旅長 包金山(具勒)
このほか、軍法処長・秘書・副官・連長・排長・司務長なども任命された。軍事顧問には大石ら日本人四人と巴彦隆(蒙古王貝子)とがなった。この間に、各地から武器を携帯した兵があつまってきた。また五月六日には萩原敏明が、西王母の衣裳と宣伝使服などの用品をつんできた。これは四月二八日、奉天についた国分義一・藤田武寿・加藤明子・大谷恭平らの手で綾部からもちはこばれたものであった。
ところが、このあたりから張作霖側が盧の軍を牽制しはじめる。一三日、洮南にいる三井寛之助が情報をよこし、張作霖が馬賊討伐のため、大部隊を索倫にむけたといってきた。奉天軍の手で公送されるはずの武器・弾薬もとどかず、交渉にあたっているはずの楊崇山からの連絡もない。すでに、一一日に王仁三郎によってよまれた歌には、
官兵の出馬と聞いて我同志索倫入りに悩むなるらむ
というのがある。兵があつまりつつあったといっても、約一〇〇〇人にもたらぬもので武器も充分ではない。『王仁蒙古入記』にのせられている、盧が東三省張副官にあてた書面(五月八日付)では式器の不足が訴えられ、おくってくれることを懇願されている。それゆえこの独立軍はなお奉天側の鼻いきをうかがわねばならなかったのである。そのような状況下に、奉天側が軍をだしてきたのである。二一日には、この軍が盧占魁討伐の目的をもつものであることがしらされてきた。したがって、集結した兵をどの方面にすすめるかが、おおいに問題となって議論された。
この日付で、張作霖は特派交渉署員にあて、盧占魁軍に日本人がいるから、日本側(奉天総領事であろう)と交渉せよと指令した。その全文はつぎのようなものだった。
探報によると、「近ごろ聞くところでは『盧占魁は日本人王仁三郎とむすび、洮南から胡匪を招集して蒙境におもむいた』と。盧が購入した武器とその経費は、すべて王仁三郎から供給され、ソーロンに根拠して蒙熱(蒙古・熱河)を擾乱しやうとくわだてている。その一方、王仁三郎はまた人種・宗教などの説を利用し、もって蒙民の心を収攬しやうと期している。その人種の説に「日本民族はもと蒙古人種からきたのだから種を同じふしている。ともに努力し外侮に応じることを望む』といふ。宗教は大本教といふ。宗教はもとより国籍はない。その流布する説にいはく「方今、世界大戦がおはつてのち、五民族がよろしく宗教を奉じて潜心懺悔して初めて未来の塗炭を免れることができ、また実力をのばし先祖フビライの光のために北方に発展し、もって中国を統一し、団結してアジア、極東の大国となり、欧米などの諸国に抵抗すべし』と、盧某はもと盗賊であり、はやすでに司令部および本暑が洮南、安広などの県と駐在の軍隊に打電し、勦討することを命じている」と。もし、この情報のやうに、日本人多数がそのなかにいるなら、日本領事に出むいて交渉すべし。
というものであった。さらに五月二三日には奉天総領事にたいし、張作霖側は王仁三郎以下の逮捕を申し入れた。さきには、軍器輸送まではかった奉天側が、一転して盧討伐にかわったのである。
そのころ、王仁三郎のもとへ三井と佐々木からの情報がはいってきた。それは、洮南附近で盧占魁の名をかたる小馬賊が横行し、このため官民ともに困っており、張作霖は大々的な討伐軍をさしむけるかもしれない、というものであった。これにたいして、盧はこれは盧と張作霖がめぐらした計略で、東三省内の馬賊を、討伐の名目で索倫方面に追いはらって、盧占魁がこれを糾合する策なのだといったという。あるいは、そうした黙契があったのかもしれない。しかし、盧の軍に参加しようとした馬賊たちが、途中掠奪をしきりにおとなったことは事実であったらしい。被害をうけたものが地方長官にしきりにとどけでているのもそのためである。そこで張作霖側もすてておくわけにはいかず、討伐を命令したのだともいわれている。それ以外にも、奉天側が討伐にふみだした理由としては、盧が奉天軍閥に対立する直隷派呉佩孚と内応するおそれがあるとみたこと、出口王仁三郎が資金をだし、清朝再興の野心のあること、また王仁三郎は盧軍を利用し、蒙古に王国をつくろうとし、愚民をたぶらかしているなどとの情報がつたわっていた(「出口氏の入蒙と盧占魁の死」秋城生、「遼東新報」)。
西北自治軍をつくることについては、さきに張作霖もみとめていたが、じっさいにはこの西北自治軍は、内外蒙古独立軍と称していたのであって、この点も奉天側を刺激したひとつの理由と考えられる。このことと関連して想起されるのは、岡崎鉄首が翌一九二五年の第二次奉直戦のさい、直隷派に内応したとして奉天側から追求されたように、盧や岡崎は、直隷派と奉天軍閥との対立を利用して漁夫の利をしめ、蒙古に覇をとなえようとしたと思われるふしのあることである。
さて、こうした状勢のなかで王仁三郎は上木局子に拠をうつして、しばらくここに滞在していた。盧は集結していた兵たちに、蒙古救援のため来臨した大活仏(王仁三郎のこと)は奇蹟をおこなうことができると公言しているので、王仁三郎にたいして雨季でないのに雨をふらしてくれという。そうでもしなければ、もう兵士たちを精神的に統合しえなくなっていたのである。そこで王仁三郎は松村を指導し、トール河で潔斎修行をさせて、雨をふらしめたという。
六月二日には、上木局子の仮殿に盧ら主要メンバーがあつまって会議をもった。この会議の眼目は、なお時期をまつかどうか、出発するとすればどの方向にむかうかにあった。盧占魁は、銃器が不足しているために出発をこれまでおくらせていたが、仕方がないから進発しようと決心したという。かれのいうところによれば、綏遠・チャハル方面にまずむかい、ついで外蒙にむかうという意見であった。
ところがこの日急報がはいり、奉天軍と、闞朝璽の洮南師団が、約三〇〇騎で突然襲撃してきたとつたえてきた。交戦するか非戦をとるかについて議論がわかれたが、急速西北をさして出発することになった。そしてその進路は盧に一任された。車馬の準備がととのわず、糧食の輸送もかぎられていたので、兵をへらすこととなった。
〔写真〕
○公爺府元老・老印君の本宅 中央は老印君と家族 p739
○索倫山─下木局子司令部での記念撮影 前列右より猪野 小林 大石 岡崎 松村 王仁三郎 盧 楊 蒙古王 後列右より温 五人目坂本 左端井上 p740
○行軍 左端が王仁三郎 p740
○上木局子 鄒団長仮営での記念撮影 p740
○吁盛哉神軍陣形 山河草木靡威風 左より何 松村 中央が王仁三郎 一人おいて植芝 p741
○上木局子での王仁三郎(左) 洮児河畔の林のなかでのひととき (右)たびたび民家を訪問した 左が温 右は白 p742
○張作霖から特派交渉署員にあてた訓令の一部 p743
○張作霖側から奉天総領事にあてた王仁三郎一行逮捕の要請文 p744
○民衆とともに 中央が王仁三郎 p746
○王仁三郎が神懸りとなった岩窟 p746
○行軍中最後の撮影 中央轎車の人が王仁三郎 p746