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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第1章 >3 教団発展への動きよみ(新仮名遣い)
文献名3本部の体制よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2017-08-25 18:56:43
ページ66 目次メモ
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本文 〈組織と人事〉 このようにして、教団はめざましい発展の機運をむかえた。それは、第三者からも「何しろ大本教は破竹の勢をもって発達してゐるらしい。将来恐るべき勢力を得るかも知れない。今日欧州に進出してゐる状態によれば、たしかに世界的宗教だと云つていいと思ひます」(「神道各派評判記」─「宇宙」昭和5・1)、などといわれたくらいである。
 こうしたなかで、一九二九(昭和四)年の七月三〇日には、三代直日に長女がうまれ、聖師によって「直美」と命名された。女の世継ができたので、出口家一族や信者のよろこびは一方ならぬものがあった。
 発展に対応して、教団組織もさらに確立されてゆく。
 更始会は、聖師入蒙の年にあたる一九二四(大正一三)年に発会し(上巻四編三章)、とくに熱心な信者が会員となって、それらの人々には宇宙紋章が交付されていた。しかし、会規もなかったので、一九二九(昭和四)年の六月には、あらたに規約かさだめられることになった。それには「本会ハ地上天国建設ノ為メニ活躍セラルル瑞霊真如聖師ノ御心ヲ心トシ、絶対的信仰ナル麻柱ノ精神ヲ以テ、此ノ大神業ノ為メ不惜身命ノ活動奉仕ヲ為ス者ヲ以テ組織ス」とあり、聖師を総裁として会長には宇知麿が任命された。そして、会員は月々応分の会費を納入し、これが教団の経費にあてられることになる。このときまでの会員は三三二七人であったが、これ以後新入会員も増加していった。
 活動機関である大本本部ならびに大本瑞祥会についても、昭和四年の八月、翌五年の四月と九月、昭和六年の二月と八月に、教勢の進展にともなってつぎつぎに組織の充実がはがられてゆく。そのなかでも規約がいちじるしくあらためられたのは、一九二九(昭和四)年の八月の改正である。その主要点をあげると

⑴、大本瑞祥会はこれまで総務部に属していたが、拡大されて総務部からはなれ、亀岡に本部をうつしたこと。
⑵、これまで聖師のもとに直接おかれていた更始会・人類愛善会・世界宗教連合会・明光社のほか、いっさいの機関を大本総裁のもとに統轄して、大本内事部・大本総務部・大本瑞祥会の三つの機関を並置したこと。
⑶、大本総務部(綾部)には祭祀・霊祭・史実・庶務・会計・作業の六課をおき、綾部聖地の業務を主管させたこと。
⑷、これまで大本天恩郷とよばれた宣伝を主とする機関は大本瑞祥会に編入され、第一・第二天声社も瑞祥会の所管となり、その結果、大本瑞祥会は宣伝・編集・地方・時習・庶務・会計・作業の七課と天声社で組織されたこと。

などである。
 役職員は総裁井上留五郎・大本内事部主事高木鉄男・天恩郷(内事)主事御田村竜吉・同主事補大国以都雄・総務部主事東尾吉雄・同補橋本亮輔・大本瑞祥会長出口宇知麿・同補御田村竜吉・岩田久太郎が、それぞれ任命された。
 なおこの年の二月には信教宣伝使の各級をさだめて、大宣伝使・正宣伝使・准宣伝使・宣伝使試補の四階級がつくられ、それをさらに細分して、「大宣伝使は大宣司・権大宣司・中宣司・権中宣司・少宣司・権少宣司の六級、正宣伝使は大宣掌・権大宣掌・中宣掌・権中宣掌・少宣掌・権少宣掌の六級、準宣伝使は大参教の一級、宣伝使試補は参教・権参教・参教試補の三級」の一六階級をきめ、それぞれ発令された。
 同年の一一月二八日になると、大本瑞祥会「本部」の名称は、欧州本部の新設によって、「総本部」とあらためられた。
 一九三〇(昭和五)年の四月には、教主補・総裁という役名は廃止され、総統・総統補・主理の役名がもうけられた。そして総統には聖師、総統補には出口日出麿、主理には井上留五郎が就任した。また地方代表は選挙制にして、同年の六月には第一回三〇二人の賛襄を新任するとともに、協賛という役名は廃止された。
 同年の九月には、内事部と総務部とが併合されて大本本部と改称され、「大本は総統の下に大本本部及び大本瑞祥会を設く」とあらためられた。綾部においては内事課を新設して大本本部のもとに七課とし、天恩郷には「天恩郷主事及び主事補を置き、天恩郷に於ける内事事務を処理す」とあらためて、天恩郷で取扱っていた別院および分院は大本本部(内事課)の所管となり、その事務は大本瑞祥会地方課に委嘱されることになった。

〈文書宣伝〉 文書宣伝としては、「人類愛善新聞」が精力的に拡張されていったか、このほかに大本宣教のみを使命とする「瑞祥新聞」が宣教にもちいられた。これまで旬刊であったこの新聞は、一九三〇(昭和五)年からは月刊となり、翌昭和六年三月からはB5判一六頁だてにあらためられた。主として神諭や教義の解説などを掲載し、全くはじめての人たちに大本を紹介する新聞として編集方針を改め、対外宣伝に活用されることとなった。なお大本宣教の機関誌「神の国」(月刊)は、一九二九(昭和四)年三月から、これまでのB6判をA5判にあらため、対内的連絡機関誌で
ある「真如の光」(旬刊)も、一九三一(昭和六)年一月からB6判をA5判とし、それぞれ内容が充実されてきた。
 金沢で発行していた日刊紙「北国夕刊新聞」は、一九二九(昭和四)年の一一月に、宇知麿が社長に就任して、大本の径営にうつることになった。土井三郎が副社長としてもっぱらこれにあたり、「天恩郷だより」をのせたり、聖師の作歌や『霊界物語』の一部を連載して、宣教の一端をになってゆく。なお、一九三一(昭和六)年七月には、新聞に連載された『大本開祖伝』が単行本として出版されている。
 その他、月刊雑誌の「明光」・エス文「緑の世界」・ローマ字「言葉の光」の刊行がつづけられており、一九三〇(昭和五)年五月からは月刊「昭和青年」が発行された。『霊界物語』は一九二九(昭和四)年四月に第七二巻までの出版をおわっている。歌日記は『二名日記』全一巻・『東北日記』全八巻・『日月日記』全一三巻・『庚午日記』全一〇巻・『更生日記』七巻までが刊行され、歌集としては『花明山』・『彗星』・『故山の夢』が刊行された。そのほかの単行本としては『王仁文庫』一〇巻、『道の栞』、『道の大本』、『裏の神諭』、『大本讃美歌』、『祝詞略解』、『霊の礎』、『水鏡』、『月鏡』、日出麿著の『ひとむかし』、大本を紹介する『大本の話』、富士津日水勇の『浄土真宗を脱け出でて』などが刊行されて、宣教に活用された。

〈祭事関係〉 大本の春秋の大祭は、一九二五(大正一四)年の秋から、綾部で二日、亀岡で一日の三日間にわたっておこなわれていたが、一九二七(昭和二)年の秋からは、綾部で三日、亀岡で二日の五日間にわたっておこなわれ、この期間中はいずれの日に参拝してもよいことにした。なお、一九二九(昭和四)年から春の大祭を「みろく大祭」とよび、秋の大祭を「大本大祭」ととなえることになった。そして、一九三〇(昭和五)年四月からは、天恩郷における大祭には、月宮殿から神輿の渡御がおこなわれている。
 大本の分所・支部や各家庭に奉斎するご神体は、主として開祖染筆のご神号、または筆先をさげられたもの、聖師が直接染筆したもの、三代直日染筆のものなどであったが、開祖昇天後は、ご神体・おひねりなどの神務は、もっぱら直日にうけつがれた。
 分所へは、みろくの大神・国常立尊・竜宮の乙姫の三体、支部や各家庭へは、それらのうちどれか一体をさげて奉斎することにしていた。しかし遠隔不便な地域で入信するものができたときは、特派・駐在宣伝使が仮にご神号を自筆して仮奉斎させることが許されていた。これは後日聖地参拝のおり、あらためてご神体をうけ、正式奉斎するまでの便宜的なものであったが、この制度は一九二九(昭和四)年八月以降は中止された。そして、本部ではあらかじめご神号を軸物にして用意し、別院・分所などにあずけておき、また、宣伝使がもっていて正式奉斎ができるまでの仮奉斎としてまつることになっていた。この軸物は日出麿教主補の染筆であった。ご神体の下付は本来、綾部五六七殿の祭事課で取扱うものであるが、軸物にかぎり天恩郷大祥殿で取扱うことにしていた。
 一九二六(大正一五)年八月、聖師誕生祭のときから、神殿や神床の扉はつねに開扉しておくことにあらためられた。閉扉しておくことは神光をさえぎり、神と人との和合をさまたげ、神を押し込めておく「型」ともなるという理由であった。それで本部はもちろん、分所・支部・各家庭の神殿や神床の扉もこのときからいっせいに開扉された。
 神前の簾は一九二八(昭和三)年二月から、平常のときは昼夜ともにさげたままにしておくことにしてあったが、一九三二(昭和七)年九月から、いつも巻きあげておくことになった。また信者が奉斎している各家庭の神前の簾の紋は、すべて十曜の神紋を遠慮して丸に十の裏紋にさだめられ、幕や提灯などの場合もこれにならって丸に十の紋としていたが、一九三二(昭和七)年六月から一般に大神の簾は十曜の神紋を使用してさしつかえないことになった。
 一九三一(昭和六)年四月に、別院・分院・分所・支部の神前にかかげる神旗が制定され、申請によって下付されることになった。この神旗は長旗で「みろく神旗」ともいい、また「にしきの旗」ともいわれていた。昭和六年の春の大祭まじかになったとき聖師は二代教主に、鶴山の機場で長旗を織りあげるよう委嘱され、吉田艶子が担任してつくり、大祭に五六七殿前にたてたのがはじまりで、この長旗の中央右側は天火結水地にちなむ青・赤・紫・白・黄の五色を三段、中央左側は白地に赤色で三・五・七の横筋を四段ずつに織ったものでこれを縫い合せ、上部中央に十曜の紋をいれたものである。その後、別に鶴山つづれ織で、黄色の生地に青五本・赤六本・紫七本の横筋をいれ、上部に十曜の神紋を赤糸でししゅうしたものを、別院・分院・支部に下げることになった。そしてその大きさは、一号は鯨尺で長サ一丈二尺(四メートル五六センチ)・二号は七尺五寸(二メートル八五センチ)、三号は五尺六寸七分(二メートル一五センチ)の三種類とした。なお、信者が戸毎にかかげる十曜の旗も、特大四巾(一メートル五二センチ)・大三巾(一メートル一四センチ)・中二巾(七六センチ)の三種とし、さらに手旗も頒布されることになった。
 一九二七(昭和二)年四月から礼拝のおりに讃美歌(神歌)を奉唱することにさだめられ、一〇月からは、「大本皇大神守り給へ幸へ給へ」「惟神真道弥広大出口国直日主命守り給へ幸へ給へ」「惟神霊幸倍坐世」と、それぞれ二回ずつとなえることにさだめられた。そしてこの礼拝のしかたを「みろくの礼拝」とよばれることとなった。そして一九二九(昭和四)年一月六日までは「惟神真道弥広大出口国直日主命」と奉称していたものをあらためて、「惟神真道弥広大出口国直日主命」ととなえることとなり、地鎮祭・立柱式・上棟式などの招神はすべて「大本皇大神」と奉称することに統一された。したがって、祖霊祭祀の場合の「幽世大神」もこれを廃して、「大本皇大神」と奉称することにあらためられた。
 祭式の指導は、これまで瑞月先生閲・五六七殿編の「大本祭式」や瑞月著の「霊葬祭式」が綾部の常盤堂(大本神具販売店)から発行されてはいたが、随意におこなわれていた。一九二六(大正一五)年九月からは聖師によって大本の祭式がさだめられ、あらためて祭式講師が任命されて、その普及統一をはかることになり、その最初に任命をうけたのは聖師の実弟小竹玖仁彦であった。
 一九二五(大正一四)年一一月からは、女性も祭員をつとめることとなり、服装は格衣に袴を着用し笏を持ったが、冠はもちいないで下げ髪とすることとされた。
 一九三二(昭和七)年四月から、守護神の奉斎は大神と同床せず、祖霊の下座にいつきまつることにし、祖霊と守護神を礼拝するときの拍手は、二拍手とさだめられた。
 八雲琴の奏楽はふるくからおこなわれていたが、一九二三年(大正一二)からは田中緒琴が主としてこれを奏している。また天恩郷では一九二六(大正一五)年から、神木大銀杏の実を末広のおそなえとして信者・参拝者にさげわたすことになった。一九二三(大正一二)年から妊婦の腹帯は、妊婦五ヵ月目の塩釜神社月次祭当日(旧二七日)にしめはじめることにし、うまれた子供のお礼まいりは、一九二九(昭和四)年六月から、男子は三一目目、女子は三〇日目におこなうことにした。なお妊婦には腹帯ばかりでなく、安産のためのおひねりもさげられた。
 一九二二(大正一一)年から初夏には水難よけとして和知川で修祓がおこなわれていたが、一九二六(大正一五))年からはこれを年中行事とさだめて、和知川清祓式ととなえることになった。
 各家祖霊の霊璽には、大正の初期に、鏡と五色の絹糸などをとりつけていたが、一九二五(大正一四)年にはこれを紙の垂手だけとし、その後、麻をもとりつけることにした。このころ霊璽
を御帳台にまつる信者もあったが、これはかたく禁じられた、
 祖霊の敬称については一九二八(昭和三)年四月以後は

 /三〇才以上/一五才以上/七才以上/六才以下/流産児
男/毘古/比古/若子/稚子/男児
女/毘女/比女/少女/稚女/女児

ととなえ、すべての祖霊をもれることなく丁重に合祀することになり、純然たる大本式に改められた。新霊の招魂のときは、今までは一つ火だけを点じ、室内の灯を消して招魂したが、一九二七(昭和二)年七月からは室内を明るくしたまま招魂し、一つ火は五十日祭まで消さずにおいていた。しかし一九三一(昭和六)年一月以降はこれも廃止となった。
 墓標については、松材をもちいていたが、のちに杉材を使用することとなった。石碑は天津神算木にのっとって、一九二八(昭和三)年ころまでその頭部は稜形にしていたものを、丸みをもたせることになった。墓石は四寸(一二センチ)角、二尺(六〇センチ)の高さが普通とされ、台石は、一番下が二尺角の高さ四寸、その上が一尺六寸(四八センチ)角の高さ四寸、その上が一尺二寸(三六センチ)角の高さ四寸の三段にし、それが小さい場合は、その比率で倍加したらよいとされた(『水鏡』)。

〈造営関係〉 綾部では、一九二八(昭和三)年の一一月一三日に、本宮山において長生殿の地鎮祭がおこなわれた。また一九二九(昭和四)年の四月一四日に本宮山で地鎮祭をとりおこなった穹天閣は、一九三〇(昭和五)年の四月一日に完成した。この穹天閣は第一次大本事件のさい取り壊された、もとの本宮山神殿の材料を用いてたてられた記念の建物である。そしてここが綾部における聖師と二代教主の居館にあてられた。また、三月三一日には、聖師の揮毫による「弥勒殿」の懸額(横四間─七・三メートル 高さ八尺─二・四メートル)が、五六七殿の内正面にかかげられた。
 この年の九月二四日には、東石の宮のご神体が、本宮山上に移築された石の宮に遷座された。一〇月一日には、本宮山に工芸館が完成して、二代教主により鶴山織などの機業が本格的となり、一二月一日には、同じく本宮山に史実館が完成したので、史実課はそこへうつった。
 一九三一(昭和六)年の八月二二日には、長生殿の基礎工事が完成して、穹天閣の美観とともに本宮山上の面目が一新した。石材は茨城火口岩・黄御影石が使用され、工事は吉田春治、田口清吉(石材加工)が担当した。
 亀岡の天恩郷では、一九二八(昭和三)年の一一月に第二安生館か完成し、参拝者の宿泊の設備がととのってきた。一九二九(昭和四)年の一〇月二〇日には智照館が完成し、そこは写真館にあてられた。さらに一二月二七日には豊生館が完成して、男子奉仕者の宿舎にあてられた。
 一九三〇(昭和五)年四月一日には城址の大銀杏のもとに、春陽亭・秋月亭ができあがり、眺望がとくにすぐれていたので、主として賓客用にあてられた。この年の一一月一四日には、明光社の付属館として七月苑が完成し、翌一九三一(昭和六)年二月一日、月光亭が建てられて月宮殿・高天閣の神饌所とされた。ついで八月一八日には天恩郷東北隅(現在の亀岡市浄水場)に一〇畳の間か四一室の木造二階建が完成したので、豊生館をここに移し、従来の豊生館は緑生館として女子奉仕者の宿舎とされた。こうして天恩郷の諸設備は急速にととのっていった。
 一九二六(大正一五)年ごろから聖師によって「霊国、天国を移写した聖場には時じく花が咲いていなくてはならぬ」と指示され、花壇や温室をつくっていたが、それが次第に拡大されて、天恩郷は四季を通じて花卉類が美しくにおっていた。しかしすでに神苑は手狭く拡張の余地がなかったので、隣接の東側の土地(当時竹藪および田地─現在の万祥殿・東光苑・植物園・中の島など)を買収することになり、一九三〇(昭和五)年八月二八日と九月一日の二回にわたり、一万一○○○余坪を買収した。それらの交渉にはすべて宇知麿があたり、この買収費・登記雑費を合算すると、五万六七〇○円であった。これは主として松並高義の献金によったものである。

〔写真〕
○北国夕刊新聞社 金沢 p69
○みろく神旗 鶴山つづれ織 本部用 長さ六メートル 巾六〇センチ p71
○千年松の献木 岡山 p72
○穹天閣 綾部本宮山 p74
○完成した長生殿の基礎 白十字の礎石は樹々の緑にはえて 綾部本宮山 p75
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