文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第2章 >2 皇道運動と大本よみ(新仮名遣い)
文献名3内外多事よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2017-09-13 16:15:05
ページ150
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皇道大本は、挙国更生・満蒙博・防空展・皇軍慰問・戦傷病者見舞・戦死者慰霊・愛国恤兵財団の後援・国防思想の普及・国体閏明運動など多彩な運動を展開した。したがって本部はもちろんのこと、各分所・支部の全員は、いきつくひまもないほどの活動をつづけた。堅い信仰を内面にもつ信者・会員たちは、本部の指令は神命にもとづくものであり、諸運動は神の経綸で、神業であるとうけとめていた。そのため活動も真剣であり、神業奉仕としての信仰的な気持から活動が継続された。この私欲をこえた真面目な活動は社会に強い印象をあたえ、これらの諸活動にたいする敬意と信頼は日ましに増大していった。
一九三三(昭和八)年四月一八日、日出麿総統補は伊藤栄蔵をともなって上海の巡教に出発したが、上海事変がおこった直後には東島猪之吉・小高英雄が派遣され、その後さらに深水静か派遣されていた。上海においても大本の名は注目されはじめたのである(五編四章)。
五月二一日、亀岡で昭和少年隊が結成された。これは第二の国民を養成する目的で一五才未満の少年を指導するためにつくられたものである。少年隊は昭和青年会に所属することになった。このころ綾部には錦綾少年隊ができていたが、これも少年隊に合流し、その後全国各地で結成された少年のあつまりがすべて結合されて、統一的な組織となった。
六月二〇日には、出口王仁三郎聖師の生母である上田よね刀自が八六才で昇天した。二二日には全国から代表者があつまって、聖師の生家のある穴太において盛大な葬祭がおこなわれた。
七月一三日には、満州の有力な団体である在理・在家裡の一行九人が、団長祖憲庭にひきいられて聖師を来訪した。祖団長は「全満を通じ東部支那は勿論であるが、在理がその大多数を占めている。吾々の仲間は神の実在を信じ、天理人道を重んじる。天理を重んじ天理に従ふ心が世界人類のすべてに行き亘つた時、地上天国は実現する。……日本は模倣文明に苦しんでゐるではないか。……日本人は満州人を唯殴る蹴る撃つといふだけではいかぬ。……人類愛善会とは既に事変当時から合同提携したが愛善会の趣旨は直ちに多数の会員にも了解され……人類の平和はかうした信仰団体が、中心にならなければ臨み得られない」と悟り、日本との協和親善と大本の提携とをさらに深めようとした。帰国にあたって、彼は「……日本の皇道精神と満州の王道精神とをとり入れ、打つて一丸とした理想の大亜細亜主義に立つて、所謂光は東方よりを実現せしめねばなりません……御会と提携して頂いた結果、事変中と雖も打撃を受けることがなかつた。御会の会員章をつけてゐた結果、匪賊等と明瞭に識別され無用の犠牲を出さなくて済んだ……」と決意をのべ、感謝の意を表している。
七月二六日、東京の代々木練兵煬において、荒木陸相列席のもとで軍器の献納式がおこなわれ、昭和青年会・昭和坤生会からは、献金がなされた。
八月五日には、聖師生誕祭に集まった昭和青年会員によって、亀岡東光苑で毒ガスの防止実演がおこなわれ、将来にそなえて空襲のさいの毒ガスヘの心得が一般に公開された。
一方満州での宣伝も活発であった。康平県は、当時人口三二万、面積東西二五〇里(九七五キロ)・南北一六〇里(六二四キロ)で北は内蒙古につらなる重要な地域であったが、ここでは人類愛善会に共鳴する人々が多く、知事以下有力な官民が会員となった。その結果世界紅卍字会・聖道理善会・万国道徳会・県農会などの斡旋で、県内五五ヵ村の村長が村民の意を代表して協議会をつくり、満場一致で全県人ことごとく人類愛善会に入会、各戸ごとに愛善会章入りの表札を掲げることとなって、亀岡総本部あてに入会願いや、愛善県支部設置許可の申請がとどけられた。これは他県にも波及し、入会者の数もますます増加して世人の注目をあつめた。また八月二八日に満州国特命憲法制度研究特使として来朝した満州国立法院長趙欣伯は、長男の宗陽には十曜の神紋のついた肌守りをさげさせ、自分も同様の肌守りをとりだして、大本信者・人類愛善会員であることを示し、滞日中は大本の信者や人類愛善会員と交遊して親睦をはかった。一方在理会からも人類愛善会の旗五〇〇〇本を申込んできたし、九月一七日には人類愛善会の門標一万五〇〇〇枚を急送するようにと依頼してきている。
ちなみ一九三三(昭和八)年一二月現在の人類愛善会満州連合会の支部総数は、五九(満州国五六・関東州二・蒙古一)にのぼっている。そのうち日本人の支部長は一六支部、他は満州人または現地人でしめられており、それらの支部長には現地の要人や道院の有力者がなっていた。
九月一八日には、京都市岡﨑公会堂で、満州・上海両事変戦没者慰霊祭が、昭和青年会本部主催のもとに、陸海軍・各関係団体・遺族などを招待して盛大に執行された。
一一月二五日には亀岡天恩郷の東光苑北側に南面して建てられた教碑・歌碑三基の除幕式がおこなわれた。碑文は聖師の雄渾な筆になるもので、中央の教碑には、〝鶴山に妻は錦の旗を織り吾亀岡に万代を教ふ〟ときざまれ、教碑の文は追懐歌で、右側に〝いとけなき頃は雲間に天主閣白壁はえしを懐かしみけり〟〝旧城跡落ちたる瓦の片あつめ城のかたちを造りて遊びぬ〟とあり、左側の歌碑には、〝玉の井の池に湧き立つ真清水は美都の三魂の命なりけり〟〝寝なからに月を仰ぎしあばら家のむかしの住居吾眼に新らし〟と記されていた。また、天恩郷月照山麓にたてられた前田夕暮歌碑の除幕式も同時におこなわれ、これらの除幕式は本部・明光社関係者をはじめ多くの歌人が参列して、盛大に挙行された。
一一月二八日に、京都市岡崎公会堂において開かれた愛国一四団体主催の近畿国民大会には、昭和青年会も参加した。その大会では大日本生産党・国社党・神武会・京都大同倶楽部・愛国青年会・弥栄日本人同志会・皇道会・愛国社・神州報国会・敬天愛人会・殉国青年同盟・興国青年同盟・洛北青年同盟の諸団体とともに、つぎのような決議がなされた。「外目捷に迫れる国際危機に備ふべき軍備国防の充実完備を期すると倶に、軍備軽視外交を排撃し、内君側の奸臣、財閥既成政党を打倒し、資本主義諸機構を是正し以て皇道維新を断行し、皇威を四海に発揚せん事を期す」。
このころの昭和青年会は愛国団体として有力な存在になっていたので、各団体が何かの運動をおこすときは、必ず昭和青年会の意向をたずねるまでになっていた。
〔写真〕
○出動する自動車隊 松江 p150
○昭和少年隊の結成 亀岡 東光苑での分列行進 p151
○自転車隊の活躍もめざましかった p152
○東光苑歌碑 中央は教碑 左右は懐古歌碑 亀岡天恩郷 p153