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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第3章よみ(新仮名遣い)
文献名3創立一周年よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2017-09-30 18:30:43
ページ199 目次メモ
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本文  一九三三(昭和八)年三月二七日に、日本政府が国際連盟を脱退する旨の通告を発してから満二ヵ年を経過した。一九三五(昭和一〇)年三月には脱退の効力が発生(連盟規約第一条)して、名実共に国際連盟から離脱したことになった。昭和神聖会は、二七日に「方今世界の情勢益々紛糾し、皇国内外の事態いよいよ緊張を要すべき秋とはなれり、此の際我等九千万同胞は、昭和八年三月二十七日渙発せられたる詔書の大御心を奉戴服膺し、如何なる艱難試練に当面するも勇往邁進、神洲臣民の大使命遂行を期すべきなり」という声明を発表し、「国際連盟は世界平和、国際協調の美名の下に、白色人種の既得権をのみ擁護し愈々これを伸張せんとする陰謀の府」であると批判して、孤立日本の覚悟を国民にうったえた。
 四月一〇・一一日両日、昭和神聖会・昭和青年会・昭和坤生会は各地区の代表三〇〇人を召集した。そして統管代理日出麿・副統管宇知麿・三千麿の引率のもとに、伊勢の両大神宮に、「皇道宣揚祈願参拝」をおこなった。昭和神聖会は、そのときに反国体学説問題にたいする声明文を発表している。すなわち「当局の執りたる処置は一時の瀰縫策に過ぎずして極めて不徹底なり、該学説思想はその因由する所寔に深く、皇国の精華を毒したること実に甚大にして、固より二、三の著書の発売禁止或は字句の訂正等に依りて根絶し得らるべきものに非ず……」というのがそれである。「人類愛善新聞」が昭和一〇年四月下旬号に「天皇機関説の全貌が曝露された。皇帝を空位に置かんとする独逸政治家の伏線に過ぎない君主機関説の直訳移入者は一木喜徳郎博士であつた。それを謳歌しそれを祖述したものが即ち美濃部達吉博士である。而して岡田啓介大将は、その美濃部博士と国体観念に於て全く同一であると公言す。……国民の大部分が国礎破壊者に対し余りに無知無識であった。而も天日昭々として凡ては爼上にのぼつた。五・一五事件の被告諸君が、更に血盟団事件の被告諸君が、泣いて祖国に叫んだところは果して何ぞ。……天皇機関説撃滅は、全国民忠誠の表現だ。今や一九三六年の国際危機は目睫に迫つた。世界を相手に敢然奮起する秋が来たのだ。いづくんぞ内に学匪鼠賊の跳梁を許すべけんや」という檄文を掲載しているところにも、はげしい排撃運動の意気ごみがうかがわれる。
 一方統管の地方旅行は節分祭後もやすむまもなくつづけられた。二月一〇日和歌山県勝浦をかわきりとして、一一日木本・一二日新宮・一四日湯浅・一五日兵庫県洲本・一六日阿万・一七日奈良・一八日彦根・一九日長浜と近畿一円をめぐり、二二日は島根県益田・二三日山口県花岡・二四日広島県呉というように中国地方へおもむき、二八日には千葉市での干葉・干葉郡・香取各支部の合同発会式に臨席した。
 さらに統管は台湾各地の昭和神聖会の発会式に臨席するために、三月六日に亀岡天恩郷を出発した。大国・下位・深町・北出らをともなって、神戸から吉野丸に乗船し、九日には基隆に上陸した。ただちに台北にむかい、まず台湾神社に参拝、おわって草山の台湾別院に宿泊した。ついで一二日には台北鉄道ホテルにおける昭和神聖会台湾地方本部・台北支部の発会式をおわり、一三日汽車で南下して、一四日台南・一五日高雄・一七日嘉義・一九日台中・二〇日彰化・二四日花蓮港・二六日基隆の各支部の発会式をおわって、二七日吉野丸に乗船、三一日ぶじ亀岡にかえった。このころから統管の精力的な行動はやめられるようになった。亀岡・綾部の神苑のみまわりや樹木の手入れ、移植などに余念のない日がつづく。そして昭和神聖会運動は副統管の宇知麿にまかされるようになった。
 そのころ北海道では昭和神聖会の地方組織を拡大するため、非常な意気ごみで統管の渡道を待望して準備がすすめられていたが、統管は渡道を中止した。かわって宇知麿が、下位・深町を同伴して北海道へむかった。四月二九日東京を出発し、五月一日札幌市公会堂での昭和神聖会北海道地方本部の発会を最初として、三日旭川・四日小樽・六日帯広・七日山部の大本北海別院・九日函館の順で地方組織拡充のための旅がおこなわれた。
 六月一日、昭和神聖会は映画部を設置し、副統管の臨席のもと、東京多摩川に玉川研究所の開所式をおこなうことになる。部長に原真平、次長には中山勇次郎が任命された。一七ミリ半トーキーを採用し、まず映画「皇軍と少女」一〇巻の制作がはじめられた。
 昭和神聖会が創立されてから、一周年の七月二二日がきた。このとき統管によって「人類愛善新聞」に、「昭和神聖会結成一周年に際して」と題するつぎのような所信が発表された。

昭和維新とは実に体主霊従より霊主体従に世を立直し、以て天則に順応した弥栄の道にすべてを更生せしむることである。……正しき愛の家族的精神を国家に拡大してそこに大家族精神に基く輝く日本が生れ、それを全人群に押し及ぼし地上の万類に至らしめて、ここに人類愛善の大理想が実現するのである。……明治維新は王政復古といはれた。だが昭和の御維新は進んで神政復古であらねばならぬ。……吾々の前途にはいばらが横はる。だが終りまで忍ぶ者は救はれる。もし終りまで堪へ忍ぶことができなかつたならば、結局それは神に対する信仰が無かつた証拠である。……真誠は力の根源である。内には不撓不屈の精力となり、外には万有を化育する威力を発褌する。かくて我々が信仰の正義に立ち、真誠より発する力を得ることに依つて、始めて天下を動かすことができる。神の国とは力と正義が並行する国である。皇道国とはまた力と正義がならび存する国である。……だが力のみを養成して信正を立てず、或は力を主として正義を従とすることがあるならば、それは体主霊従の邪道で、必ず「お出直し」をせねばならないこととなる。

 全会員に、自己批判して、反省と信仰にたいする覚悟をあらたにすべきことが要請されるのである。
 昭和神聖会創立一周年の日にあたって、昭和神聖会の会則が改正された。この改正にともなってあらたな役職員が任命された。統管出口王仁三郎、副統管内田良平・出口宇知麿はそのまま再任し、役員には参議がもうけられ、参議長高木鉄男・次長東尾吉雄・参議若干人の任命のほか、昭和神聖会の役員・人類愛善会の役員・皇道大本の総務など四六人の就任があった。統管部には、参謀長下位春吉、次長出口三千麿・大国以都雄、参謀高木・東尾・深町霊陽・井上留五郎・岩田久太郎・中山勇次郎・御田村竜吉・森良仁らが任命された。また東京の総本部長は副統管宇知麿の兼任とし、次長に中山・広瀬義邦が就任した。
 ちなみに、七月一八日現在における過去一年間の運動実績の報告によれば、「一、地方組織=地方本部二五、支部四一四、会員賛同者概数八百万。二、実行運動=皇道宣揚運動、大家族精神運動、神社参拝奨励運動、国防運動、華府海軍軍縮条約廃棄運動、天皇機関説絶滅運動、愛善陸稲奨励運動、その他。三、成績=講演会開催数二、八八九(入場者総数九九八、四二五)、皇道宣揚展覧会開催数二四八(入場者総数六一四、八七五)、皇道講座開催数七八(聴講者総数五、九二九)、関係各大臣、枢密院、貴衆両院各正副議長等へ提出した決議文(華府海軍軍縮問題一八〇、反国体学説問題一五六、その他の問題二二)、愛善陸稲普及─農山漁村飯米自給及農村救済のため(講演会、座談会開催数六三三、映画会二七八、講演、座談、映画会入場者総数一一三、九五五、実地耕作指導二七〇、組合設置数二八)」となっている。わずか一年間にこれだけの運動が各地でおこなわれたのである。本部はもちろん、地方の各会員の献身的活躍のほどがうかがわれる。
 運動と併行して文書宣伝活動も活発におこなわれている。『祭政一致の大道』『皇道経済我観』『華府条約を即時廃棄せよ』『天皇機関説撃滅』『愛善陸稲耕作法』のほか、『万人が心から喜ぶ政治』『統管随筆(一)・(二)』』『皇道維新と経綸』の小冊子をつぎつぎに刊行し、B6判で三二頁前後の雑誌「神聖」が一九三四(昭和九)年一〇月以来毎月発刊されて、運動の発展に寄与した。
 こうした実践の背後に、聖師の信念と指導があったことはいうまでもない。聖師の立場は「回顧四十年」(「神聖」昭和10・10)にも察知される。

余が始めて「皇道に目醒よ」「日本人の使命を覚れ」と広く世間に叫んだのは明治三十年頃であつて、当時の我国は余りにも欧米の物質文明に眼を奪はれ、……皇基振起の大事を忘却せる所多く、……恐らく遠からざる将来に皇国を危殆に導くものであると、深く憂慮せざるを得なかつた。それで斯の如く暗黒の谷に突進せんとする激流を導いて、光明の野に注ぐ為には、どうしても自ら惟神の大道を修め広く皇道の大本を闡明する以外に途なしと信じ、余の一生を世界覚醒の大義の為に捧ぐべく決心したのである。……併し我国は神国であり、至誠を御国に捧げる純情さへ貫いたならば、神明も必ず照覧あることを固く信じ、事の成否は唯神の御心に任せ、己が身は祖国の礎石とさへなることが出来れば有難いことであると観じて、動もすれば撓まんとする我心に自ら鞭打つて来たのである。……斯くて新聞に雑誌に、或は芝居や浪花節にまでも、邪宗よ迷信よ不敬罪よと嘲り罵られ、国を挙げて余を悪魔か謀叛人かの様に印象づけられて仕舞つた。……その間、世界も移り日本も変り、而して余の周囲もまた浮沈転変の一大絵巻物をなした。……今や万人の囗から皇道維新の声が叫ばれ、全人類の心に世界革新が要望されてゐる時、辿り来りし我過去を思ひ、非常時日本の現状を眺め、而して将に来らんとする世界を心に浮べて感慨の一入切なるを覚えるものである。昭和六年、突如として満州事変が勃発した。これを契機として声高く挙げられたのは「昭和維新断行」の叫びである。政治に経済に外交に教育に沈滞の極に彷徨してゐた我国は、俄然皇道の叫びに依つて光明への転換を見出さうとして、国家の現状に不満を抱いていた人々は一斉に立上つたのである。……皇道精神とは霊主体従の精神であるといふことである。故に先づ一番大切なことは、我々自身が水晶の誠心に魂を清めることであり、九千万の同胞をその精神に悔改めさせることである。誠の魂を作らずして神政は決して実現できない。霊魂の改造を行はずして国家の革新は断じて完成されない。……日本精神とは霊主体従の精神の意であつて、物質よりも霊魂を重んじ、社会制度よりも国民の精神を正しくして国家を治めんとするものである。……故に皇道運動は飽まで思想の善導であり魂を悔改めしめる運動であらねばならぬ。……余が過去四十年間進み続けて来た道はこれであつたのであるが、余に従つた多くの人々もまた世間一般の人々もなかなか斯の所以をハツキリと理解し得る人が尠く、またそれを説いても其の真意を了得するだけの思想的準備が出来てゐなかつたのである。余は今、斯の霊主体従の真意がハツキリ判つている敬神尊皇の士と共に、皇道維新の達成に一路直進せんとするものである。

 皇道維新と霊魂改造との統一にたいする独自の見解と決意が、「回顧四十年」にも見出されるのである。

〔写真〕
○天皇機関説撃滅の大講演会 弁士は林逸郎 岡山 p199
○昭和神聖会函館支部の発会式 壇上は出口宇知麿副統管 p200
○昭和神聖会映画部玉川研究所 東京 多摩川 p201
○愛善陸稲の奨励 亀岡天恩郷での全国 p203
○昭和神聖会は一年間で全国に414の支部を設け賛同者は800万をかぞえた p205
○ p206
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