文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第4章 >2 教団の充実よみ(新仮名遣い)
文献名3二代教主と鶴山織よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2018-07-22 01:28:27
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三代教主直日は「つる山織と銘打ったのは母からですが、その源は教祖さまからです。教祖さまは織物はなさらなかったようですか、糸ひきが大へん上手で、教祖さまのひかれた糸は光沢があって普通の人のひいた糸とは違っていたということを聞いています。その機の元を受けついで母が立派な織ものにしたのです」(昭和40・1)と語っているが、大本での機の歴史は開祖にはじまっている。そして一九三一(昭和六)年七月一四日、二代教主すみ子によって、〝裃をほどき高天原で機を織る天地経綸の大きなる謎〟とよまれているように、大本では「機の仕組」といって機は神の仕組に型どられ、機織りに神業上の重要な意味をもたされていた。
このことについては一九二一(大正一〇)年一月号「神の国」誌に発表された出口すみ子談「錦の機」の中にも、「私か十九の時でござりました。何の気なしに押入れにあつた破れ裃を解きまして、糸まりをつくりましたが、機が織りたうてかなはず、機織るすべは知らず、近所のおかみさんを頼んで経糸だけを立ててもらひ、その裃の糸を緯糸に織つておりますと、教祖様はそれをごらんになり、……お澄やお前は自分の勝手でそれを織つてをるように思うてをるぢやろうが、皆神様からさせられてをるのざ、これには深い神様のお仕組のあること、因縁ごとざとのお言葉、そのとき私は教祖様はまたおかしなことを仰せられるくらいに思つてをりましたが、お筆先にも『破れた裃を解いて、すつくり緯糸に織りて、世のツクネ直しのかたをして見せたぞよ』とありますが、世の中は上と下とが睦み合ひ助け合ひ、他人良がれて行きさへ致しますれば、円く楽しく安らかに治ってまゐりますものですが、今の世の中は上と下とがハダハダになつて、もさくさが絶えず、上下共に難渋いたしてをります。……大本の誠が天地に通りましたなら、世の中はおだやかに治まります。上下揃ふて元の昔に復るのでござります」と機織りの発端と神のゆかりがのべられている。その後京都の西陣の信者から糸屑をもらいうけてその糸屑を水でぬらしては梳にかけ、乾かしてつなぎ、工夫して緯糸に織り込み、美しい模様に織りあげたことかあつた。そのことについて「捨てられる役立たない糸屑も、地の高天原に上げられ、いろいろと手入され工夫されまして、立派な錦の機に織り上げられ、末代の宝となりまするが如く、世に落ちてをつた人、落されてをつた身魂、そのままなら役立たない屑、罪の深い身魂が神代からの因縁、身魂の性来によりまして神様のみ恵みで引寄せられて、行を積み罪をとつていただき身魂に徳をつけ、身魂を水晶に研き清めて神のお役に立たせていただき、結構なご用を勤めあげて、万古末代の名を残さしていただくことになるのであります。……神様がこの度の大望な御神業を『錦の機の仕組』とも、また『いろは四十八文字の仕組』とも仰せられてをりますが、フト気づきまして機織の道具を調べて見ますと、大小とり交ぜ四十八、竹ベラ一本でも無くては機は織り上らんのでござりますが、丁度四十八、本当に不思議ではござりませんか。お筆先に『出口上田は経緯じや、機織にたとへて仕組てあるぞよ』ともまた『神の機織る人にさへ、どんな模様ができるといふことの判らん仕組であるぞよ。……この大本は地からは変性男子と変性女子との二つの身魂を現はして、男子には経糸、女子には緯糸の経綸をさして、錦の機を織らしてあるから、織り上りたら立派な紋様ができてをるぞよ』ともござります」と物語られ、ここにも、「錦の機」「機の仕組」の意義が解明されている。
一九〇九(明治四二)年五月に綾部の大本に機織部を設けて大槻伝吉を主任とし、仏国式メカニック器械をつかって絹紋織ならびに手織木綿縞織をはじめ、信者の婦女を就業せしめてしだいに拡張し、大正一〇年ころには祭祀にもちいる装束類をも織り出し、地方各支部・会合所の注文にも応ずるまでになっていた。また明治四二年には湯浅小久が、聖師の命によって、北桑田郡周山から綾部に移住して機の仕事に従事した。湯浅は十曜の神旗・開祖の使用する布団の生地や縞の着尺地を織っていたが、二代教主は日に一度か二度は必ず機場にきて、色々な糸屑をあつめてきてはつなぎ合せたり、織模様をさしずした。また開祖も、「大本といふ所は、型の出るところやでな。これは機の仕組や、これから世界の機を織るのや」とさとし、昇天の少し前には「ワシが亡くなるまでに四十八かせで織ってくれ」といわれたという。ところが第一次大本事件に「錦のハタ」について当局からの誤解をうけたために事件によって一時中絶のかたちとなった。しかし二代すみ子はひそかに教主役隣接建物の一室に手織機をすえつけ、栗山こと・吉田つや・上窪あい等にてつだわせて、緯縞の着尺やガスの布団地、また京都から屑糸におとす織りじまいの経糸をとりよせ、コート地などを織っていた。その後、機場を統務閣や神武館へうつし、さらに一九三〇(昭和五)年四月、神武館と大八洲神社社務所の建物が鶴山(本宮山)に移築され、それぞれ工芸館・文芸館と名づけてここに機場をうつした。一九三一(昭和六)年六月一日には、工芸課が本部機構として新設され、ふたたび本格的となった。この年の四月、京都高等工芸学校出身の杉本晋一が参画することになり、杉本が特許をうけていた屑糸ひき伸ばし紡機(一名チョキチョキ)を入れ、五月には一二台の手織機をすえつけた。六月三日には製品はすべて「鶴山織」、帯地だけを「竜宮帯」と呼称することにした。
同年一二月鶴山頂上の岩磐露頭に、綾機神社が完成し鎮座祭がおこなわれた。祭神は稚姫君命で、第一次大本事件の際、天王平に鎮祭されていた稚姫神社の神霊を教祖殿に仮遷座してあったのを、綾機神社の祭神として鶴山に鎮祭したものである。一九三二(昭和七)年二月、印刷工場を改造して機織場(神光社)とし力織機を入れた。同年四月一五日、京都市岡崎で開催された満蒙博覧会に鶴山織機二台をすえつけ、実演を公開し即売した。同月二〇日には、京都大丸百貨店で開催された織物博覧会に袴地・着尺・帯地・白生地を出品して好評をえた。七月、東京国技館で開催された満州国博覧会に織機をもちこみ、鶴山織の実演と即売をおこなった。八月にも倉敷市で開かれた満蒙博に出品している。こうして各地からの要望によって出品するたびに鶴山織の声価はたかまり、製産にいよいよ活気がくわわったが、一方教団関係の大本神旗・艮坤の大金神旗・宣伝使服・人類愛善会旗・昭和青年会旗・昭和坤生会旗・明光社旗・大日本武道宣揚会旗・青年会服・坤生会服・守袋・み手代袋・守護神用被覆・祭服類・霊界物語布表紙など、多種多様な需要に応じ、工芸課長杉本晋一・次長中倉栄蔵以下五八人の専属課員は懸命に働きつづけたがなお手不足のため、全国の信者によびかけ女工を募集する状況であった。昭和九年七月からは鶴山真綿もつくられている。
製産が拡大するにしたがい、屑糸つむぎの仕事を、綾部地方の一般家庭の婦女に賃仕事として内職させるようになり、このころすでに、百二、三十軒にもおよんだ。「中外日報」(昭和9・2・20)は「つづれ織」と題して「綾部の大本教主澄子さんは、つづれ織を創始して今や五十台の機械を据付け、百有余人に業を与へ、うつぜんたる一勢力を構成しつつある。餓死線上に追はれたるものにパンと業とを与へ、廃物のつづれ切を利用更生の一異彩として活かすことは、宗教女性として腕の冴えを示すものと称せられ、現代の社会に価値を有するものであると識者は注意しかけて来た」と論じ、これとほぼ同じ意味の記事が「大阪毎日新聞」「華洛新聞」などにも報道されている。したがって各地の婦人団体で団体見学するものがふえ、家庭の副業としてもおおきな話題となった。
「中外日報」の「鶴山織を視る」と題した昭和一〇年二月の記事の中には「私は寝ても覚めてもハタのことばかりや、まあ糸気狂いやな。クダにかけてる指先から私の魂が皆糸に吸こまれてゆくやうな気がして、その為め私は早や死にするのやないかと思ふわ。この間こんな歌が出来たんや……夜も昼もわが魂は鶴山の織り行く錦の中にすむなり……この歌の通りやね。私はこれさへしとつたらええのや、どんなに縺れた糸でも私かするとすぐにほどけるからな」と、二代すみ子のなみなみならぬ熱意と自信のほどがつたえられている。
一九三三(昭和八)年のなかばごろより二代教主は織物を構成する糸・染・デザイン・組織について本格的にとりくんだ。経・緯ともに手引き糸を原則とし、真綿よりの紬糸・屑繭からののべ糸・玉糸などに適度の撚りをかけ、経・緯の力の調和をはかった。また植物染について研究をはじめた。そして苦心探求の結果、昭和一〇年二月に技術の伝統をうしなっていた植物染の手法にたどりついた。このことに関しては同年四月号「真如の光」の「二代教主のお話」に「自然を見ると赤や黄や紫といろいろの草や本や花があるが、あの色を出す工風はないかしら、あの花で染たらどうだらう、あんな花が咲く以上は、木にも根にも何かがあるのではないかしらと、いろいろと考へ神様にもお願ひしました。ところが、神様から、これで染て見よ、あれで染てみよと、いろいろな草や、花や木のことを教へて頂きました。先づ梅、松、杉、桃、榎、紅梅、椋、へんだら、せんぶり、桑の本、笹の葉、南天などであります。それから私としても工風しまして、茄子、瓜、トマト、黒豆、そば、菊などを使ってみますと、それは見事なものができました。色染はみごとなものができましたが、あのみごとな色を永く保つことはできないものだらうかしらと考へました。どんな色で染ても、洗つたり、日に照らされたり、またそつとしまつておいても元の色のまま保つことはできません。今度はそのことばかり考へて夜の眼も寝ないことか幾度もありました。恰度二十日程前の晩であります(三月一五日のお話)。その晩も色止めのことが気になって一晩中一睡もできませんので、そのまま朝のお礼にみろく殿へ参らして頂きました。その時、色止めのことをご祈願いたしますと、『鉱泉につけよ』と神様がおつしやりなさいました。不思議なことがあるものよと思ひまして早速その通りにしました。……鉱泉につけたものを今度は水で洗つてみましたが、少しも色はおちません、日に照らしてみましたが少しも色が変りません。それからいろいろと試験してみました結果、色によって鉱泉につけると、色に変化がありました。それも時間の長さ短かさによつて度合が変ります。また同じものでも朝と晩とて変化がある……」とある。
この話のなかの鉱泉というのは、旧大本神苑内の教祖殿裏、金竜池にそうた斜面に湧出していた鉱泉で、かねて胃腸病などに特効があるとして、おおくの信者が活用してきたものである。この鉱泉に草木染をつけると、さまざまなかわった色ができてきたので、京都染織試験所へもちこみ試験してもらった結果、雨・汗・洗濯・熱湯・日光等にも変色しないということが、昭和一〇年三月九日に証明された。鉱泉処理された草木染は渋味がかった色で、沈潜した奥ゆかしい光沢となり、気品の高い感じをあたえる。草木染については「薊枋で下染めした赤色は紫色に、くちなしの黄色はうす緑色に、番茶の茶色はねずみ色といったふうに、植物染料で染めた糸を鉱泉に浸すと、落ちついた微妙な美しさに変化して、しかも色あせしない特長をもつようになります。この鉱泉で染めた糸で手織したものを、母は〝つるやまそうもくぞめ〟と名付けておりました」と、三代直日によって回想されている。
また「母は美的感覚の面でもまことに斬新奇抜な着想をもっていました」と三代直日が語っているように、デザインについても工夫がこらされた。そこで四月二七日、東京上野の美術館で開催された第一〇回国画会展工芸部に「つるやま草木染綴錦」外一点を出品したところ、みごとに入選した。こうして機業的な鶴山織とは別に美術工芸的な鶴山織が製産化されつつあったが、五月一七日、京都府蚕糸連合会創立五十周年記念大共進会が綾部で開催されたので、鶴山織を出品した。この大共進会には郡是製糸はもちろん鐘紡など大手筋の出品がほとんどであったが、これら出品物にいささかの遜色のない鶴山織は非常な注目をあび、一般から好評をえた。六月二五日号の「アサヒ・グラフ」に「信仰に産れた工芸品」と題して、鶴山織の写真と記事が二頁にわたって掲載されたほどである。同年一〇月東京上野の松坂屋で開催された全国手染手織展に出品し、英国のエリアム・モリスの工芸運動になぞらえて激賞された。それは展覧会の出品作品が、実用性をうしなっていた当時の工芸界に一石を投じたものでもあった。そのためにわかに注文が殺到し、昼夜兼行で製産するほどになった。製産された鶴山織は、綾部の神光社・亀岡の智照館・天声社売店から販売されたが、また全国の信者が取次販売したり、なかには行商するものもあった。
鶴山織はこうして社会の話題となり声価をたかめたのであるが、織り上げられたもののなかにまだ欠点があった。屑糸・紬糸の緯糸にたいする経糸か弱く、いわゆる横裂けするきらいがあった。そのため二代教主は工夫をかさね、一九三五(昭和一〇)年には屑糸紬織りの、経糸と緯糸の力に平均がとれた美事な織物を織り上げることに成功した。ここに二代教主の心血をそそいだ、いろは四八文字にちなむ四八台の織機が、鶴山山上でよろこびの音をかなでるようになったのである。
一九の時から五二才のこのときまでの、二代教主の創意と努力がついにみのったのである。一二月四日には役員・奉仕者・綾部在住信者が招かれ穹天閣で祝宴を開かれ、過ぎ去った苦労が物語られ、よろこびをたがいに分ちあった。昭和一〇年一○月号の「昭和」誌に二代教主は「ゆくゆくは世界一の大きな工場にしたい、……強い、はげない、ためのいいものを作って、皆様によろこんでいただきたいといふのが私の願ひです」とその抱負が語られている。
三代の出口直日は、教団の蔭にあってご神体やおひねりの染筆、守護神の命名などの神事に仕え、表にたつことには遠慮がちであったが、信者からは「三代さま」として敬仰されていた。一九三〇(昭和五)年に綾部を訪れた歌人の前田夕暮は、当時の三代直日を評して「漉きたての紙のやうな色と匂と手ざはり」と表現し、「素直であり、まことであり、清らかで、親しみ深い人」(「昭和」昭和7・7)と言っているが、当時の信者がいだいていた敬仰には、神諭に示された「水晶魂のお方」という信念のほかに、夕暮が感受した人間的魅力のそれに近似した感情があった。
結婚されてからは夫日出麿の内助につくすとともに、つとにはじめていた短歌・茶道・謡曲・八雲琴や書道・染織工芸など、ひろく日本の伝統芸術に精進してひたむきであった。ことに歌の道は、梅田信之のあたえた『歴代御製集』や『勤皇志士和歌集』の書物によって入門の緒をえ、湯川貫一の古今集講座によって和歌の手ほどきをうけていた。その後日出麿師の万葉集釈講によって短歌の精神を会得したといわれ、「明光」の木の花集選者となり、一方では若山牧水の「創作」に投稿をつづけた。牧水の没後(昭和三年)は、自由律短歌に入り前田夕暮の「詩歌」に投稿した一時期があり、やがて定型律短歌に復し、一九三四(昭和九)年ごろ中河幹子の「ごぎゃう」に入社した。歌会にも折りにふれて出席し、歌人との交わりもいく人かあった。
当時の短歌作品について、「『創作』以来一貫してゐるのは純真である。トリックがない。黙々として見凝め黙々としてよぢ登る質で、タッチの鮮かさも色彩の華やかさもないが、線に素朴さと潤ひとがある」(「昭和」昭和7・6)と夫の日出麿は語っており、歌人の楠田敏郎も「窕子(直日の雅名)氏の歌には深さと虔ましやかさと静かさかある。その反面に燃へるものと圧するものとがある」(「昭和」昭和7・6)と評していて、歌壇ではめすらしい迫力をもつ作者として定評があったと伝えられている。〝畦豆の明るき黄葉に雨ふらばさびしからかと見つつおもひぬ〟(「創作」)、〝背なの児のつぶらにみはつた目を感じながらホギホギ荀を折つている〟(「詩歌」)、〝萩は葉をとぢそめにけり陽は入りて夕ひととき明れる庭に〟(「ごぎゃう」)を当時の作品から紹介することができるが、本格的に作歌に集中するのは、後にアララギの夏山茂樹門で「はにつち」同人として、本来そなえていた方向に精進する頃である(八編一章)。当時のペンネームには木の花暁丸・中川窕子・橘雪・葛原けい等がつかわれていた。
そのほか、茶道は裏流の長谷川宗美に、謡仕舞は宝生流の中野茗水に、八雲琴は田中緒琴に、書道はかな書を能勢照郷(行成流)に、染織工芸は絵更紗のほか、母の二代すみ子に縞物染手織を習うなど、一つには神諭に示されている「ミタマの立替え立直し」に、一つには「ミロクの世」に入る信仰者の生き方につながって、わが国の伝統文化の研績に精進していた。しかし当時の役員の多くはこれを理解せず、逆境のなかを歩まねばならなかった。
交友関係としては洛北、寂光院の智光尼、清泰庵の瑞光尼をあげることができる。
昭和四年七月三〇日に長女の直美が出生し、ついで昭和七年二月一三日に次女の麻子、昭和一〇年二月一九日に三女の聖子が出生したので、神事につかえ、精進はつづけられながらも育児に重きをおいて心をそそがれた。「昭和」(昭和10・10)の「育児に就て」の記事に「直美を育てるについては……今から考へるとあんな厳格に育てたのは可愛さうだつたと思ふ程きびしく、善いこと悪いことをはっきり見別けを付けるやうに教へました」と語られている。
昭和六年八月一九日、聖師の五女尚江は中野貞四郎と結婚し、貞四郎は三千麿と聖師から命名された。昭和八年一一月一四日、六女の住ノ江は高橋義衛と結婚し、昭和一〇年一月二日聖師によって義衛は五十麿と命名された。
〔写真〕
○マユから糸をひかれる二代教主 綾部 鶴山 p250
○二代教主をはじめ総動員でくずマユから糸がのべられた 工芸館 p252
○綾機神社 綾部 鶴山 p253
○神光社に動力織機をすえ製産に拍車をかけた 綾部 p255
○鶴山では終日ハタの音がたえなかった いそしまれる二代教主 p257
○出口家の人々 左から出口日出麿夫妻 出口五十麿夫妻 出口うめの 出口宇知麿夫妻 出口三千麿夫妻