文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第1章 >1 弾圧の動機よみ(新仮名遣い)
文献名3昭和神聖会と国家改造運動よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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昭和神聖会の発会式においてもっとも警視庁をしげきしたのは、まず東京九段にある軍人会館の使用である。軍人会館は建設されてまだまもないことで、軍関係者以外の使用はゆるされていなかった。ここで一民間団体の昭和神聖会が発会式をあげたのである。しかも各地方から参集した大本側の代表者が、同館に宿泊し会合したことが警視庁の疑惑をふかめた。ついで副統管に内田良平をすえたことである。頭山・内田といえば、国粋右翼の大御所と目されていた人物である。そして内田は大日本生産党の頭首でもあった。政党として結成した大日本生産党の頭首が、昭和神聖会の副統管となったのであるから、昭和神聖会は政党かともうたがわれ、また右翼を傘下におさめた革新団体ともそんたくされたのである。さらに、発会してまだ下部組繖もできぬうちに、海軍省の要請にこたえて華府海軍軍縮条約廃棄の急先鋒となり、世論の喚起にたちあがった。昭和神聖会の主催する世論喚起の講演会には、現役の軍人が講師としてたち、要路の大官の軟弱方針、英米追従の暴露に熱弁をふるったのであるから、内務省側の警戒心もいっそうふかまった。『古賀手記』に「統帥権の蔭にかくれて、われらの手の及ばぬ所で勝手気まゝに振舞ひ」とのべ、また「軍部をおさえないとあぶない。右翼をバックにして軍部が出すぎる。これをなんとか牽制しなければならない」とものべている。『唐沢手記』には、「九段の軍人会館であげたその発会式は多数の現役軍人も列席して盛大を極めたものだった」とあり、そして「国内では右翼並びに軍人と手を握って国家革命の機を醸し……」とみなしたのである。「昭和神聖会の組織された当時に於ては早くも今次の検挙を断行すべき大方針が内務省及び京都府当局との間に確立した」(『古賀手記』)としるされているのは、昭和神聖会の発会が、宗教である皇道大本を検挙する大方針を確定するにいたる序曲となったことを物語っている。軍人・右翼団体等の国家革新運動の潮流が、昭和神聖会の発会と運動のひろがりとたかまりによってもりあがり、時局を背景として、国家権力にたいしての革新運動側のいどみかかる陣容がととのうたとみたのである。
一九三四(昭和九)年の内務省警保局調査による『社会運動ノ状況』には「合法的国家主義運動に対しては必ずしも直ちに之を警察取締の対象とすべきに非ざるは勿論なるも、究竟目標の正当性に架託して直接行動手段に訴ふるが如きは、如何なる場合と雖も之を容認し得べきに非ざるを以て、非合法的国家革新運動に対しては其目的動機の如何に不拘、断乎として検挙取締の徹底を期しつつある所なるも、此種運動の過去を辿れば、安田善次郎暗殺事件(大正十、九)、浜口首相狙撃事件(昭和五、十二等の前哨的事件を始め、昭和六年の所謂三月事件、十月事件等の陰謀に次ぎて血盟団事件(昭和七、二)、五・一五事件(昭和七、五)等の勃発するありて将に社会的一大変革をすら思はしめたるが、その後に於ても依然として断続的に不穏計画行はれ、昭和五年以降、本年末迄に検挙せる事件は大小二十一件に達せり」と書かれている。そこには国家主義革新運動がしだいにねづよく拡大されてゆく様相をのべ、昭和九年にはいってからの事件中には、統天塾同人事件・満州国紙幣偽造事件・興国東京神命党事件等にみられるように、不穏計画資金の獲得を目的としたものがあって、資金源にたいして昭和神聖会は全国的に講演会をひらき世論喚起の急先鋒となったは抜本的対策をたてなくてはならぬことが指示されている。そして昭和神聖会を有力な資金源の一つとして注意するとともに、「究竟目標の正当性に架託して真接行動手段に訴ふるが如き」傾向が全然ないとはかぎらぬと疑惑視している。そのため全国の昭和神聖会員の言動に注意し内偵をすすめることになった。京都府警察部の特高課長杭迫軍二の日記(『杭迫日記』)によると「此のころ頻りに大本の不穏情報に接す」(十二月中旬)とあり、その内容には、「王仁三郎は某地に於て信者に対し、一千万人の神聖会々員を得れば十万人の代表者を選び、皇道経済確立を敢行すべく二重橋前に勢揃ひし、大衆運動を為し、血を見ずに昭和維新を断行する考へなり(近畿某県より)」「神聖会々員の某-今に一千億円の紙幣を発行し、土地が国有になるから借金は支払はなくともよい(東北某県より)」等の情報を得たとのべ、「皇道大本の外廓団体たる昭和神聖会を東京九段の軍人会館に於て結成し、政界、財界、右翼団体等の諸勢力を糾合し一大政治的進出を企図するに至り、従来の宗教的仮面を脱却して俄然社会改造運動の一翼として世の視聴を蒐むることゝなる」「(八月上旬)大本の各種勢力を総動員し、昭和神聖会地方本部の拡充に狂奔し、所謂皇道政治、皇道経済の請願署名運動の名の下に賛同者を獲得し、愈々其の政治的動向を顕著にす。この頃皇道大本並に是をめぐる外廓団体の各種行動中に、単なる宗教団体乃至は政治的団体と認めて放置し難き片鱗看取せらるゝに至る」としるされている。そこで昭和九年一二月下旬、特高課長杭迫のもとに、あらたに係員が配置せられ、極秘裡に第一次の内偵が開始された。その内偵によってあつめられた不穏情報と称するものは、「(イ)土地を為本として一千億円の稜威紙幣を発行し、以て皇道経済を断行するに非らざれば平和な地上天国を期待すべからず。(ロ)神聖運動の貫徹の為には決死的覚悟を要し、五・一五事件以上の犠牲も敢へて辞すべからず。(ハ)動員は総裁王仁三郎のみ独り之が命令を為し得るものにして、独断にて又は地方本、支部等に於て之を試みるは越権の沙汰なり。(いづれも十年二月節分祭での幹部の言動)」「遠からず紙幣津波が来る。(東北某県より)」「国内某所に金塊多量に包蔵され、みろく神政達成の資金として準備され居れり(近畿並に東海某府県等より)」などであった。こういう情報があつめられつつあったおり、一九三五(昭和一〇)年一月中旬に「島根県に於ける大本の決死動員計画、および北海道における動員計画がおこなわれた」との報告がもたらされた。さらに鳥取県で過激な文字で表現された非常動員計画文書なるものが入手され、これらの動員計画をしった昭和神聖会本部・昭和青年会本部では、「出口宇知麿や大国以都雄等と一連の幹部は、言動或は各種出版物の統制に名を藉り、之れが揉み消しに焦慮し、且つ大本の所謂部外情報(官庁、公衛その他右翼、財界方面を含む)蒐集に努め、猜疑警戒の度を加へたり」(『杭迫日記』)という報告がなされている。
こうした当局の執拗な内偵にたいして、信者・会員にたいし言動に注意せよという警告がしばしばおこなわれ、場合によっては「宣伝使解任」、「信者除名」というきびしい処置がとられたこともあった。しかしながら、あたらしい信者や会員のなかには、言葉のとりちがいや咀嚼不充分で、当局の疑惑を促進する言動をなすものも一部にあった。そのため昭和一〇年節分大祭の各会連合会議の席上、聖師から言動に注意せよといましめかだされ、また新聞・雑誌の記事についても、誤解されないよう文字のつかい方までこまかく指示された。
当局の大本にたいする内偵の状況は、つぎの史料などからもうかがうことができる。一九三三(昭和八)年九月頃より、「現日本社会の苦悩を可及的完全に迅速に除去すべき方策を科学的に検討し発表する」ことを目的として、里見岸雄主宰の国体科学連盟を脱退した船囗万寿・石井秀雄・岡本清一らは経済国策研究会を結成した。そして「現下国家の危局」にさいし「明治以来の大国是を変更し、国民経済の根本に徹底せる革正を施す為には、一大権威と一大英断を以て局に臨み得る一大勢力内閣(皇族内閣)の出現を必要とする」として、「中堅国民は一致結束して天皇に上奏請願を奉呈すること」を意図して、中央における国家主義団体の堕落した幹部を排除し、中堅幹部ならびに地方の純真なる青年の団結により国家改造の断行を促進し、他方、陸軍省のパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」の実現を側面より鞭韃するため、全国的に「改造断行請願運動」をおこした。しかし、他の団体の全幅的協力をうることができず。昭和一〇年五月ころには資金が涸渇してしまった。この運動に関し、内務省警保局の秘密調査によると、「一時資金難にして自然解消を伝へられたる程なりしに拘はらず当時俄かに活気を呈し、斯かる運動を開始するに至れる点等に関しては、各方面より本運動の裏面には必ずや相当有力なる背景乃至支援あるものとの疑惑を以て注視せられたるところにして……其当時巷間に流布せられたる浮説的情報を綜合すれば、凡そ次の如きものありたり。出口王仁三郎(皇道大本教総統、昭和神聖会統監)の支援。─本運動の裏面的後援者として最も有力に伝へられたるものなるが、出口は昭和九年十一月十七日、大本教の宣教道場たる京都府南桑田郡亀岡に於ける『神庭会議』、及同年十二月上旬横浜の大本教別院に於て開催せる『神庭会議』に参列せる際、大日本生産党総裁内田良平、新日本国民同盟委員長佐々井一晃等と会見したる際、請願運動の費用として相当巨額(或は二十万円と云ひ或は十万円、一万円、二千円等金額一致せず)の資金を支出すべきことを約束し、既に一千円を支出せりと伝へられたり。(但し右金額が如何なる経路を辿り改請本部に手交せられたるかは明瞭ならず)」とのべられている。さらにこの点については当時内大臣秘書官長であった木戸幸一の日記、昭和一〇年二月八日の項にはつぎのように記されている。「唐沢警保局長、相川保安課長、吉垣事務官来庁、国家改造上奏請願運動並に農村救済請願運動の状況を詳細に聴く。……〔保安課長兼高等課長内務事務官相川勝六の名刺に書かれたメモ〕……資金の出所が不明、出口〔王仁三郎〕─田中光顕─満洲との説もあり……」。ここにも資金出所に関する内偵調査にかなりの重点がおかれ、しかもその内偵については、上層部と密接な連絡のもとにおこなわれていた様子が見出される。
二・二六事件に連坐した斎藤瀏少将の著書『二・二六』の中に、石原広一郎のことが書いてある。この石原は出口聖師と数回会見し、国家改造につき意見を交換したことのある人物であって、その名は大本の信者間にも相当しれわたっていた。その石原の紹介で斎藤が横浜の大本別院で聖師に会ったということを書いている。「躍る者、躍らす者 陸軍々人─政治ブローカー─大本教出口王仁三郎」の章の中に、「(出口王仁三郎が)……現下の情勢をどうみるかとか、国家改造は必須の事だが、これに就いての意見はどうかなどと尋ねて、……やがて小さな手帳を繰って、『貴方は陸軍将校田中隆吉といふ人を知って居るか』と尋ねた。『知りません─名は聞いて居りますが…』『では田中軍吉といふ将校を知って居ますか』『矢張知りません、それらの将校が何にかしたのですか。……何にかそれらの将校が仕事をする─それで金でも出せと言ふのではないですか』……『斎藤さんこの何日に陸軍の青年将校が国家改造に起っと言ふが知って居ますか』と思ひがけぬ問であった。…『一体貴方の許へ出入する政党人、政客は誰です』『長島隆二─桂太郎の……』『札附きの人ですね、お金を出せといふのでせう、事が成就したら貴方を何にかにするからと』……」とかかれてある。
この問答の中にも、運動資金の問題がクローズアップされている。したがって国家革新運動団体の動きが活発になればなるほど、まず資金ルートの背後に出口聖師を想定する傾向があった。久原房之助が亀岡天恩郷をたずね、出口聖師と皇道経済について論じあった当時も、資金関係のことではないかと内務省側は調査している。
一九三五(昭和一〇)年、天皇機関説排撃に端を発する「国体明徴運動」がおこった。これについて内務省警保局の秘密報告書には、「本問題はその初発形態は一、二個人の言説に対する排撃にありたるも、漸次運動の進展に伴ひ政府当局に対する不信認態度と化し、更に運動は一転して全国的に自由主義排撃の大雨となりて、本年中に於ける最も重要なる政治的社会問題とはなりたり」といっている。「最も重要なる政治的社会問題」となりつつあった天皇機関説排撃運動の、その民間における世論の急先鋒となったのが昭和神聖会であった。問題の口火を切った国士館教授蓑田胸喜をはじめ、貴族院議員菊地武夫・三室戸敬光・井上清純らは、昭和神聖会の運動基盤にのって講演会をもよおし大衆によびかけた。さらに代議士で予備陸軍少将の江藤源九郎や愛国法曹連盟の林逸郎らが、昭和神聖会を基盤に国民にうったえた。林はのちに、つぎのように回想している。「……大本へ行った理由は、天皇機関説を排撃するには資金がいるが、無条件に引き出すのは宗教団体がいい。そこで天理教から引出すか、大本教から引出すかにしようということになった。……(林が大本教をたずね、出口王仁三郎に資金を依頼したところ)、金を出すわけにいかんけれども講演することに対して応援しようということになったのです。……それが天皇機関説排撃運動の全国的な狼火になったわけです。それで岡田内閣が非常な打撃をうけて、岡田内閣が何んとかして大本を潰さねばいかんということになったのが検挙の大きな原因です」。
この運動はじっさいに政治問題となり、三月二〇日の貴族院では政教刷新の建議が可決され、二三日衆議院では、「国体明徴に関する決議」がおこなわれた。しかしなおも、天皇機関説を信奉する教授・官公吏を即時罷免すること、岡田首相・一木枢密院議長はそれぞれ引退辞職することなどがはげしく追求された。そのため、天皇機関説にかたむいていた一部の司法官や内務省畑の官吏のなかには、この運動にたいする執拗な追及団体として昭和神聖会を敵視するものもあった。
この問題はさらに発展し帝国在郷軍人会全国大会となり、「統帥の大権を紊り、我国体を破壊するもの」として、在郷軍人会からも追撃され、江藤源九郎らが美濃部博士を告発したにもかかわらず起訴猶予処分となったことにたいして、「右翼団体並に三六倶楽部系郷軍の大部分及貴衆両院議員の一部等に於て轟々たる非難擡頭」(内務省警保局調)して「猛然たる反撃運動を開始するに至れり」、「即ち或は政府は人事問題(一木枢相、金森法制局長官の進退、其他重臣ブロックの問題等)に累を及ぼさんことを憂へて今回の如き処分を為したりとして、政府の国体明徴問題に対する誠意を疑ひ、或は政府自ら国体の尊厳を破壊するものとなし、最早や現内閣に対しては本問題の徹底的処置を期待するは至難なるを以て、一日も早く倒閣の上目的を貫徹すべし等の主張」をしたので、川島陸相・大角海相も強硬態度で閣議につめよった。そこで政府は第二声明文を発表して政府の見解を明らかにしたが、在郷軍人会・右翼団体・昭和神聖会は、「最重要問題たる人事問題に一言も触るゝことなきは、本問題の徹底的解決を為すの誠意なき証左にして寧ろ空文に等しきもの」とし、追及の手をゆるめなかった。そのために南九州地方に於ける特別大演習中すら、強硬分子の不穏計画があるとの流言がなされたほどであった。
昭和五、六年以来、結成された国家革新団体も、この運動には統一的共同目標にむかって協力した。警保局が「頗る熱烈且つ執拗なる運動は、資金の豊富及びその傘下に擁する有力多数団体の勢力と相俟って」とのべているように一大政治問題となり、これに呼応する軍部の態度とあいまって、内閣は風前の灯の状態であった。すでに海軍軍縮条約は廃棄され、国際連盟からも脱退した日本の孤立、準戦時経済による国民生活の破壊など内外に緊迫した空気がみなぎり、国家革新の声もますますたかまりつつあった。昭和神聖会を、当時もっともおおきな右翼的団体とみなし、軍部関係とも密接なつながりがあるとにらんでいた内務当局は、国際連盟脱退の世論をあふり、海軍軍縮条約廃棄の世論の導火線をつくり、いままた国体明徴運動の主力的な役割をはたす資金の豊富な団体として、治安上「何んとかせねばならぬ」との決意をかためてゆくのである。大本の検挙を断行した直後の一九三六(昭和一一)年一月に、相川警保局保安課長の指令によって、田中・松崎両内務属が亀岡に急行し、「皇道大本の資金調査」「大本関係団体の資金関係調査」に没頭したのもこのためであったろう。
こころみに資金関係からみると、各講師の旅費宿泊費、講演会会場費、ポスターやビラなどの宣伝費、各種パンフレットの配布、「人類愛善新聞」一〇〇万部におよぶ頒布、会員・信者の地方におけることごとの動員数などを算上するならば厖大な計数にのぼるのである。これらすべての経費を信者が自主的に負担し、しかも信仰基盤の上にたっている昭和神聖会・昭和青年会の底力は、当時のいかなる団体も足もとによれないものであった。大本の弾圧はこうして決定的なものになってゆく。
〔写真〕
○昭和神聖会の結成で当局は狼狽し弾圧への決意をかためた 東京軍人会館での発会式 p334
○当局はスパイをつかって情報あつめに狂奔した p336
○すぐれた組織力は当局をおそれさせるに十分であった 地方の昭和青年会動員計画書 p337
○内務省警保局がひそかにあつめた大本に関する情報は詳細をきわめていた p339
○天皇機関説排撃運動は当時の最大の政治的社会問題に発展した 人類愛善新聞 p341
○大本関係諸団体の動員力は一頭地をぬいていた p343