文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第1章 >2 検挙への準備よみ(新仮名遣い)
文献名3大津会議よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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一九三五(昭和一〇)年三月下旬、当局が大本の出版刊行物をあますところなく調査していたころ、「関西に比なき印刷所あり、不断に訓練を為せる弁論部あり、演劇部あり、又レコードあり、音楽部あり、今や映画の武器を備ふ。而して之を運転する豊富なる資金あり、蓋し宣伝に関する文明の利器を総動員せり」(『杭迫日記』)といわしめるほど、大本教団はますます発展していった。五月以降、聖師は昭和神聖会の運動には表面にたたず、地方への出張も中止した。ただ亀岡天恩郷にとどまって、綾部の長生殿・亀岡の万祥殿の建設や自伝の映画撮影、また『天祥地瑞』のなかから神聖歌劇を上演することに没頭していた。そのうち従来開放的であった亀岡天恩郷の東光苑自動車入口、透明殿・光照殿の各通用門を閉鎖し、苑内入口を二ヵ所とした。これは大本側がなにかを予知して警戒しだしたのではないかと当局はかんぐっている。そのころ大本では「神聖」という独自の年号を使用しているとか、「奏上」という言葉を使用しているとかの情報も集められて、それらの情報もまた不遜不敬の裏付けとされた。この奏上というのは神前にのりとを奏上するという場合に使用されていた言葉である。
京都府の特高課は、大本の文献を調査するにあたり、警察部庁舎内でおこなうことは、新聞記者その他の疑惑をおこすおそれもあり、また調査がもれるかもしれないと警戒して、あらたに滋賀県大津市膳所に別荘(山中盛槌所有)をかりうけた。杭迫らはここをアジトとして極秘裡に大本文献を読んでいった。四月上旬からは京都市内にもアジトをもうけ、「犯罪容疑箇所」とみとめられる文章を摘記した原稿の印刷をはじめ、八月下旬には三〇〇冊をこえる単行本の整理を、つづいて九月中旬には雑誌・新聞および不穏情報の整理を完了するにいたった。その原稿は一万枚をこえ、印刷についやした用紙は二二万枚であったと杭迫は日記にしるしている。
こうして刊行物の下調べが一段落すると、杭迫はただちにこれを内務省に報告した。その結果、内務省(永野・古賀・尾形)、京都地方裁刊所検事局(小野)、京都府特高課(杭迫・高橋・奥永・蔵本・小川)の三者会談がおこなわれることになり、昭和一〇年九月二一日から、大津市膳所のアジトで、夜間ひそかに内務省側の資料と京都で作成した資料の検討を開始した。もちろんこの会議には京都府警察部長の薄田美朝もときどき参加した。「此の時各府県会議員選挙に当り、社会の全視聴、全く之に傾注し、然も此の期間休祭日多く大事密行に最も適す…。京都よりの往復は個々に或は電車、或は円タクに依り、出入りにも隣人の注目を避く」(『杭迫日記』)と書かれているような慎重さであった。一〇月上旬までつづけられたこの会議で、当局側は大本の根本思想についての検討をくわえた。
この会議については古賀は、「当初は単なる不敬に目標をおいていたが、これは単なる不敬ではない、大本教主が天皇の地位にたたなければいけないというような思想だと、およその見当がついた」と語り、また「未だ治安維持法違反に就ては研究の余地あるも、不敬事件は間違ひなしとの見透しを得たので各々引上げて、京都側は主として具体的検挙の計画に着手し、本省側に於ては永野事務官の私邸をアジトに構へて、更に深く教理を研究し、治安維持法違反即ち国体変革部分の抽出に努めて、漸く十一月下旬現在事件の中心理論となって居る現界、霊界の主宰神関係、所謂一厘の仕組に辿りついた」とも記している。
これらの談話や手記からみて、大津会議は大本検挙にとってじつに重大な会議であったといわねばならぬ。この大津会議が大本の運命を最悪のものにしてゆく。昭和九年秋ころに「放置し得ざる邪教」との認識をいだいた当局は、同年一二月下旬より京都府特高課長を中心に本格的な内偵を開始した。そして昭和一〇年三月にいたって、昭和神聖会の活動を封ずるために、大本にたいするなんらかの行政的処置を予想して、刊行物の検討をはじめたのであった。その結果三週間におよぶ大津会議となった。第一は従来のばくぜんたる不敬団体・不穏団体という容疑からおおきく飛躍前進して、不敬罪によって大本教団に鉄槌をくだすことができると確信をふかめたこと。第二に不敬罪よりさらに一歩すすめて国体変革を企図する教団という容疑をはじめてもつにいたったこと。すなわち犯罪の比重が不敬から治安維持法違反へと転換する契機となったこと。第三に、そのため従来の、なんらかの処置といったあいまいな予想ではなく、断乎たる処置、すなわち検挙を明確に決意するにいたったと推定されること。第四に、この会議以降、京都地方裁判所検事局および京都府警察部は具体的に検挙計画の作成に着手し、内務省では教団を「地上から抹殺」するに足る法理論の作成を開始したこと。これら四点をみるならば、大本にたいする疑惑は、大津会議をへて、検挙という明確なかたちをとるにいたったことが判明する。ことに治安維持法違反という重大犯罪への理論づけをおこなうことが、この会議で決意されたのである。大本絶滅の目的を達成するためには、不敬罪(「五年以下ノ懲役」旧刑法第七十四条)ではたりず、「死刑又ハ無期懲役」(第一条)を規定した治安維持法を大本に適用する必要があるとしたのである。
〔写真〕
○鶴山山上の聖師 昭和10年秋 三女の八重野とともに 綾部 p360
○奥永不可止 高橋誠治 p361
○小川貢 蔵本岸松 p362