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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第2章 >4 弾圧の嵐よみ(新仮名遣い)
文献名3冷たい社会の風よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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ページ462 目次メモ
OBC B195402c6243
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本文  全国的につぎつぎと検挙の手がひろげられ、警察の取締りがますますきびしくなっていくとともに、社会の冷たい風が大本信者の上につよく吹きあれてきた。ことに忠君愛国の精神が喧伝され、国体意識がもりあげられつつあったときでもあったので、諸新聞が一せいに「逆賊」「邪教」「叛逆者」などと国賊視をあおったことで、世人の大本信者にたいする眼はいっそう冷やかになっていった。
 世間の冷たい眼、嘲笑、悪罵、いやからせ、こうした迫害は、おおかれすくなかれ信者の誰もが体験させられたことであった。氏名のかわりに「大本教!」などとよばれたり、ところによっては村八分にされたり、社会的地位をはぎとられるものもすくなくなかった。「天人ともにゆるすべからざる逆賊」として、まるで罪人のあつかいであった。こうした残酷なしうちにたえきれずに、住みなれた町や村を出てゆく人々もあらわれた。
 ついで職業への影響もみのがすことはできない。迫害はついに生活をもおびやかすことになる。勤人のなかには左遷や転任させられたり、昇級やボーナスが一時停止させられた人がかなりおおく、とくに公務員の場合はそれが顕著であった。なかには事件の性格が国家的な事件であるとして、当然のことのように解職された人もいる。長年勤続した職場をおわれ、退職金さえとりあげられた信者、教師であった人が教師の免状を剥奪されたという極端な例さえある。しかも社会に放り出された人々の再就職は、大本信者というだけで絶望的であった。
 自分で商売をいとなんでいた人々の被害もおおきかった。「国賊の家の品物は買うな」といわれ、まず客足がへり、収入が激減した。ひとたび失った信用を回復して立ち直るのにはながい年月を要し、なかには立ち直ることができず、閉店して転住した人もあった。問屋から取引を停止されて商売ができず、ついに先祖伝来の土地を手放し没落した老舗もでた。官公庁の納入を手広くおこなっていた人は、納入を禁止され、ついに廃業のやむなきにいたった。精神的迫害ならまだしも、このような経済的打撃は直接生活にかがあるものであるだけに、より深刻であった。
 社会のつめたい風は家庭のなかにもようしゃなく吹きこんできた。家中そろって信仰していた家庭には動揺がなかったが、そうでない家庭の場合には、家族間の争いがおきて、肉親のものや親族から棄教・転向をせまられたり、絶交されたりした。ついに離縁されるもの、勘当されるものまででるにいたった。また縁談もなつかしく、まとまっていた話も破談にされた。
 もっともいたましかったのは信者の子弟たちであった。学校にゆけば友だちから悪罵され、のけものにされ、罪人の子のあつかいをされる。家にかえれば近所の子からののしられて石をなげつけられる。そのうえ、学校の教師までが教壇の上から、「弓削の道鏡」をひきあいにだしてあからさまに非難するという場合さえあった。このため信者の子弟のなかには学校へゆくのをいやがり、休学したり転校していくものもあった。こうした打撃が、一部の子弟には心のきずあととしてのこり、それか今日にいたるもなお信仰への障害となっている例すらある。
 一方、こうした迫害のうずのなかにあって、理解の手をさしのべた人々もあった。勾留された信者の釈放とその復職に努力してくれた人、生活難におちいった信者のために家賃をさしひいてくれた人、別院の破却のさい、建物の保存に尽力してくれた人、迫害される信者の子弟をかばってくれた教師などがそれである。しかしこうした個々の好意のみでは、怒濤のごとき弾圧の嵐を緩和することはできなかった。そして、おいつめられた信者のなかから、ついに死にいたる者もでた。ある被告の妻は、たびかさなる当局の追及とつめたい社会の激浪にたえかねて、ついに発狂しみずからの生命をたった。娘の不幸をかなしむのあまりみずからの死をはやめた父親の例もあった。京都に住んでいたある理髪師は、当局の取調べのショックと、子供七人をかかえた生活苦のため精神に異常をきたし、きびしい寒気のなかで、ゆきだおれとなり、一週間後にやっと家族に遺骨がひきとられるという悲しい犠牲者もあった。

〈当時の出口一族〉 にわかに逆賊視されるにいたった出口一族のその後の動静はどうなったか。大検挙のあと、綾部では出口すみ子と直日が上野の桜井同吉宅に禁足を命じられ、警察官が昼夜詰めて監視していたが、一二月一九日には、並松の祥雲閣に隔離しようとした警察側の意向をしりぞけて、上野の月光閣にうつった。警察官は一ヵ月あまり月光閣に詰めていたか、その後向いの家を借り、見張りの警察官をおいてたえず監視をつづけ、そして一日おきに小林刑事が来訪するという軟禁生活がつづけられた。手紙の宛先や差出人の住所氏名まで一々調べられ、一般の出入りも差しとめられた。しかしなかにはかくれしのんでたずねてくる信者もあった。すみ子は「大本がこんなになっても、何にも心配せんでもよいのやで、……何しろあと一厘の仕組は直にもいうてないぞよとお筆先にも出ておるさかい、とにかく腹帯をしっかりしめておかげをいただいておくれよ」と語り、以前とかわらぬ力づよさで、たずねてくる信者や手伝いの人たちをはげまし、自若とした生活態度がつづけられていた。
 亀岡の天恩郷内に住んでいた直日の妹の八重野(伊佐男の妻)・尚江(貞四郎の妻)・住ノ江(新衛の妻)の三人は、一二月一三日に天恩郷をおさない子供たちとともにおわれ、町のはずれの荒塚東股に一軒家を借りて、三世帯いっしょに同居することになった。警察から監視され、月々の生活費は警察より最低生活に必要なだけてわたされて、わびしい窮屈な生活かはじまった。大谷敬祐は、この東股の世話手伝いをすることになったが、彼もまた昭和一一年三月二七日に検挙された。
 唯一の心のたよりとなっていた母のすみ子が、三月一四日綾部から連行されて京都五条署に留置されてからは、綾部・亀岡の不安はおおうべくもなかった。
 検挙以来接見は禁止されていたが、とくに許されて、四月九日むめの(うめの)は父の王仁三郎に、八重野は夫の伊佐男に各一〇分間ずつ接見をゆるされた。実に四ヵ月ぶりのことであった。翌日の新聞には「獄舎に父と涙の対面」とか、「四ケ月目の対面、おゝわが父よ、夫よ、王仁三郎の娘等接見許可」という見出しで報道した。
 そのころのことが、〝死にたしと吐息もらせばをさな子は死ぬなといひて膝によりくる〟〝いつひかれて行くべき吾か幼らと春日の庭に刻をしみつつ〟と直日によって詠まれているが、直日から六月六日付で中京区刑務支所の伊佐男あてにはじめて出された手紙には、つぎのようにしたためられていた。「わたしはほんとの百姓にはとてもようなりませんが、農のくらしはしたいと思っています。……今迄きいたこともない納税のはなし家ちんのはなし、そういつたことを管理人の近松光二郎氏からきかされまごまごしています。月まつのはらいもやつとこのごろなれてきました。母からはこの間げんきな手紙をもらいましたが、まなつにならぬ中にゆるされてかへつてほしいとねがつています。あの人はいままでのくらしぶりがお百姓のやうでしたゆへ、たべものには何のふじゆうもかんじないことと思ひますが、夏の暑さにはよはい人ですし、蚊に病的によはいのと水がのみたい人ゆへ、それのみしんぱいでなりません。元男はまだ起訴になりませんので、一度もたよりがなくてこまります。……これからつゆがきます。いへにいて子供たちの遊ぶさまを見ていてさへも、きがうつとうしくなりますのに、そちらにいらつしやるかたのことを思ひますと、たまらなくなります。わたしたちも一生けんめいしゆう行するつもりで、どんなこともせねばならぬと思ふてをります。……おからだおだいじにそればかりねんじています。けふでまん半としになりますね」。この手紙も警察の検閲で押収されてしまい、伊佐男はこれをうけとることかできなかった。
 そのころ直日の住まっていた月光閣でも家宅捜索をうけ、直日らもやがて検挙されるのではないかといううわさが流されていたか、ついに事実となって、六月一七日にはまず八重野が京都の川端署に護送された。二二日にはむめのが亀岡署に留置され、その後京都の五条署に移された。ついで二九日には直日が、妊娠していたにもかかわらず綾部署に留置され、威圧的な取調べをうけた。ちょうどそのとき、直美・麻子・聖子が麻疹にかかり容態がおもわしくなく、直日の心痛はひとかたならぬものがあったが、信者の西崎医師のはからいで、一〇日目の七月八日にはひとまず帰宅を許された。〝なみだ流れてやまざりにけりゆるされて帰るほどうのつゆの日の照り〟は、そのときの直日の即詠である。
 三人の取調べに関し、「京都日出新聞」(昭和11・7・10)は「暫く鳴りをひそめていた大本事件摘発戦線に俄然活気を加へ、その取調べから更に重大な新事実の展開を見るものと期待されてゐる」と報道したが、なんら新事実も発見されず、むめのも八重野も一ヵ月ちかくの留置で帰宅を許された。その後、尚江や住ノ江も亀岡署に一週間ばかり毎日出頭して取調べをうけたが、七月二八日には姉妹五人とも起訴猶予と決定された。
 直日は、取調べにあたった小川貢警部補から、「お前の父母および主人亡き後は、子供等を日本国民として恥ずかしくないやうに育てよ」といわれ、小林綾部署特高部長の下書きしたつぎのような始末書を、そのとおり強制的に書かせられた。

不逞不敬ノ大反逆思想ヲ抱イテオリマシタニモカカハラズ此度寛大ナル御処置ニヨリ起訴猶予ノ恩典ニ浴シマシテ感謝ニタヘマセン。今後マスマス謹慎イタシマシテ日本国民トシテノ本分ヲツクシタイト存ジテヲリマス、此儀御誓約モウシ上ゲマス   出口朝野

 「父母および主人亡き後」と言われたことに、直日は不安を感じさせられ、「大反逆思想」を抱いていたとされる点に、どうしても腑におちないものがあった。
 亀岡の東股に住んでいた八重野・尚江・住ノ江の姉妹は、六月九日に中矢田農園の元鈴木治作宅(現うちまる宅)に移転した。手伝いの大には暇をだし、親子九人の水入らずの生活であったが、これまでのせまい一軒家からみれば、間どりもおおいので、子供たちは大喜びであった。
 父の王仁三郎からは、半年ぶりで五月八日(四月三〇日付本人出)に手紙(封緘ハガキ)がきたので、姉妹たちはむさぼるように読んだが、その後はおりおり文通がなされるようになった。八重野あて四月三〇日付の手紙には「何事も見ざる聞かざる言ざるの心持がよろしひ……寂しいでせうが此上は時を待つより仕方ありませぬ。是から姉妹たちは真の人生の味がわかり却て幸福になる事でしよう。それも皆の心掛次第にて」とあり、五月二〇日付の手紙には「追々暖かに成りますゆへ夏ものの用意を姉妹よりて考へておいて下さい。そしてむす子たちの衣類もよろし九たのみます」と書かれた後に、「子や孫の行くさき思ひ一日だも世に長かれと祈りこそすれ」の歌一首がよまれていた。ついで六月二七日の書信には「何事も天にまかせて一切苦を忘れ、雄々しい婦人として世に生きる様考えられ度、親類にも相談して明るく暮して時の到るを待つがよろしい。父は極めて元気、これ斗りは御安心下され度く」とかさねてしるされ、一一月四日付には「私は不相変頑健です。外の人々へは遠慮して発信せず、又外からは手紙ももらひませんから出しやうはなし、何もわかりません。又々たより下さいいる。
 すみの八月四日付八重野あての手紙には「わたしわにちにちまことにきげんよくしております。こちらわかぜとうしもよし、うちにおるときよりもくらしよいです。これでせんだくもしたり、いろいろようじがあります。くだものもはいつています。なにふそくとゆうこともありませぬ。ひるはいろいろのほんをよみ、よさりはよくねてひとねいりであります。そちらでおもうほどつらいことわないです」としるされていた。これら書信の行間には子を思う親の情があふれ、のこされた出口家の人たちにとっては心のささえともなった。
 警察に留置されて帰ってからの直日の生活態度は、出産の日も近いうえ、七才の直美と操(むめのの長女)、四才の麻子、誕生すぎの聖子と病気がちな幼子四人をかかえて、いっそうきびしいものになっていった。夫元男の消息はいぜんとして知らされず、家事を手伝っていた石原アヤ・斎藤梅子・田辺雪江なども、奉仕者は一人のこらず離散させようとする警察側の圧力で、やむなく手伝いを辞退させ、家の中のことは自分一人で処理されるようになった。四月からは長女の直美が小学校に入学していたが、〝はじめての学芸会にもゆきがたき悲しき母を見よゆるせかし〟と詠まれているように、世のつねの母のよろこびをあじわうことさえゆるされなかった。八月二日には長男の梓(京太郎)が生まれた。さっそく勾留中の夫元男に手紙で知らせたが、なんの返事もなかった。その年の秋もふかまった一一月、はじめて夫元男からの手紙があった。検閲で消された薄墨のしたには、「はじめて手紙ゆるされしうれしさ」とあり、夫をおもい子の未来を念ずる人としての、悲しみはひとしおであった。もともと月光閣への転居を心よく思っていなかった警察側は、「逆賊」といわれたものが、王仁三郎にちなむ名称の「月光閣」に住なことは不都合だとして、その後も三日にあげずやって来ては転居を強要したので、昭和一一年の一一月下旬、直日は寺山のふもとの藤山に移転した。はやくより、警察は「月光閣」の名が不敬であるとしていたが、そのこともあり、また、直日はとりわけ山野に自生する草花をこのんだところからみずからをも雑草にたとえ、月光閣以来自分の住居は「雑草居」となずけられていた。しかしそこには、〝神わざをなすのが原の玉草は踏まれにじられながら花さく〟の歌にもにた、不屈の心境がつよくひめられていたのである。
 大検挙がおこなわれてから満一年後の昭和一一年一二月八日付「大阪毎日新聞」は、「邪教大本検挙一周年、幹部は鉄窓に呻吟、大殿堂は廃虚に、四十万の信徒は転向離散、その後の綾部、亀岡」という大見出しで、半頁以上にわたる特集記事をかかげている。そのなかには「幹部たちが鉄窓にあるとき、亀岡、綾部両地の豪華を胯つた大建築物は、徹底的破却の運命に遭ひて、天恩郷や本宮山上に毅然として聳えた月宮殿やみろく殿など、今は一切が地上から跡かたもなく消え去つて、訪ふものは悲哀を伝へる松籟ばかり……廃虚の一段高いところに三百年余を経た銀杏の老樹がすつかり葉を落ち枯らして、師走の空に寒さうに聳え立つてゐる」とその荒廃ぶりをのべているが、この一年の間、吹きつける社会の風はつめたく、警察の監視もまたけっしてゆるめられることはなかった。とくに直日の苦労はなみたいていではなかった。信者の出入りはできるだけことわり、町民との接触もほとんどなかった。病弱な子供を養育し、差入れには心をつかい、手のひらをかえしたような冷々とした環境のなかでの孤独で不自由な生活であった。しかし、そうしたなかにあって、直日は、〝厳として微動だになき祖母の一生の信念われにあらしめ〟と祈り、作歌や習字は一日としておこたられず、きびしい修業の態度をくずされなかった。また、歌友の西清子(郡是病院長夫人)は事件後も直日との友情にかわるところはなかった。
 藤山にうつってからも、出産の手伝いに亀岡穴太の長久館から転居してきた妹のむめのとその長女の操が、雑草居に同居していた。近くに住んでいた石原アヤはあいかわらずたずねてきては何かと手伝っていたし、その後斎藤梅子も手伝いをゆるされて、直日の生活はややおちつきをとりもどした。しばらく遠ざかっていた茶道にもしたしみ、直美と操を稽古に通わせた。子供の養育や差入品をととのえるあい間には、ときには子供づれで近くの野山に出歩くこともできるようになった。また徳島から美馬邦二などかくれしのんでたずねてくる信者や、手づくりの品を送ってくれる信者もあって、心のなごむときもあった。しかし、〝堪へ堪へてゐる故にかも手鏡にうつせる顔のいたくとがれる〟とみずから詠まれているように、忍耐の日々がつづけられ、出産後も心身のやすまることがなかった。そのため昭和一二年一月には腎盂炎をおこし、一五日から二九日まで京大付属病院に入院している。
 昭和一二年の五月ごろ、はじめて、山科の京都刑務所で夫の元男との面会がゆるされた。しかし京都から帰った直日の心は粉々にうちくだかれていた。そのときの心境を直日は、〝たはやすく泣けぬわれかも帰り来て一人となれば涙にじみ来〟とかきとめられている。

〔写真〕
○海外でも家族の写真から神床を切りとるほどきびしかった そこには当局のおろかさと狼狽ぶりがうかがえる 台湾 p458
○聖師の巡教をねがう信者の努力もむなしくなった 南洋宣教の拠点であった開栄社 ポナペ島 p459
○連絡はとだえたが南米での宣教活動はたゆみなく継続された 弾圧をつたえた現地の新聞 p461
○社会の重圧がのしかかり信者の生活はおしつぶされていった ヤジ馬のむれあつまる大阪分院 p463
○とらわれの肉親をあんじ写真はがきが工夫され消息がつたえられた 左から麻子 出囗直日 聖子 直美 梓 出口むめの 操 綾部月光閣 p466
○一枚の手紙にも干渉と制限がくわえられたが聖師は信者や家族に丹念にかきつづけた p468
○出口家の人たち 亀岡中矢田農園 左より 出口八重野 雄美 和明 出口住ノ江 義江 都留江 尚雄 三千恵 出口尚江 p469
○わが心苦悩にみつれ君とあそぶ今日の一日はもの忘れをり お茶の弟子にまねかれて……左から2人目西清子 5人目出口直日 p471
○官憲は住む家にさえうるさく干渉し月光閣からの転居を強要した 藤山の雑草居におちついた出口家と側近の人たち 左から5人目出口直日 綾部 p472
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