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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第3章 >1 予審よみ(新仮名遣い)
文献名3予審での取調べよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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ページ499 目次メモ
OBC B195402c6312
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本文  検事局での取調べがおわり起訴されたものは、検事から予審判事あてに予審請求書(公訴事実)が提出されて予審訊問か始められた。一九三六(昭和一一)年三月一四日、京都地方裁判所において出口王仁三郎以下六人にたいする第一回の予審訊問があった。大本事件担当の予審判事は、西川武・松野孝太郎・山本武・今井敏夫の四判事であった。ついで五月一日から二日間にわたって、西川予審判事は田辺検事とともに綾部の皇道大本総本部へ、松野予審判事は玉沢検事とともに亀岡の本部へおもむき、それぞれ実地検証をおこなった。第一回の予審訊問は型のごとく勾留訊問がおこなわれるだけで、第二回から本格的な取調べとなった。まず東尾が五月二七日から、第二回の訊問をはじめられ、ついで井上・伊佐男・高木について訊問がすすめられていった。東尾は翌一九三七(昭和一二)年の七月二三日に第二七回(一年四ヵ月)をもって、伊佐男は七月二七日に第三九回(一年四ヵ月)をもって予審訊問がおわった。王仁三郎に関する取調べはこれよりおくれて、一九三六(昭和一一)年の一〇月六日に第二回訊問が始まり、第三回は翌昭和一二年五月二六日とさらにおくれている。そして一九三八(昭和一三)年四月八日に第五七回をもって訊問がおえられたが、その間約二年の歳月を要した。
 大検挙後一年たった昭和一一年一二月八日の「大阪毎日新聞」が「京都地方裁判所予審部では西川予審判事が主任となり松野、今井、山本各判事を督励して予審を急いでゐるが、何分にも被告は五十八名の多数であり、事件の内容が重大性を持つてゐるだけに慎重な審理を要し、不眠不休の活動をつづけてゐるが、幹部級の取調べは五分通りしか進捗してをらず、明年六月ごろまでに予審が終れば大成功の方で、従って公判開廷はずつと後のことである」と報道しているように、予審の取調べは難行しかつ長期にわたった。これは予審判事四人にたいして被告が五八人という多数であったことにもよるが、予審に期待をかけた被告人たちが、警察での取調べ内容をそのままみとめさせようとする予審判事にたいして、はげしく抵抗したためであった。
 こうしてまず、予審では、東尾や伊佐男の取調べで調書をかため、この調書を基準として他の被告人を取調べ、地方における取調べにもこれを利用した。
 後日、元予審判事の山本は「検察官の聴取書は一つの資料にすぎないので、予審でとりあげられたものがはじめて証拠の価値を発揮する。予審で、警察なり検事の調べや証拠物を見て調べをして、それを膳立てしてその膳を公判に提出するわけです」(「山本談話」)とのべている。
 予審における取調べ状況がどのようなものであったかを、東尾吉三郎がのちに提出した上申書(昭和15・12・27提出)を抄出して、うかがってみることにしよう。

西川判事殿ハ 警察ヤ検事局デノ陳述ヲ覆スヤウナ言ヒ訳ハ一切聴カヌ ソレナレバ何時迄モ未決ニ置イテ考ヘサセル 信仰ニ隠レテ不逞ノ事実ヲ曖昧ニスル様ナ事ハ断ジテ許サヌ 此処ハ裁判所ダ 信仰ノ話ハ一切聴カナイト頭カラ圧ヘテ了ハレルノデアリマス尚 予審ハ第一ニオ前ヲ調ベ 夫レカラ順次ニ全被告ニ及ブノダカラ オ前ガ手数ヲカケルト夫レ丈ケ皆ノ調ベガ遅レテ行クト申サレテ煙草ヲ吹カシ 何ヲ申上ゲテモ頭カラ圧ヘラルヽ計リデアリマス ソシテオ訊キ下サル事ハ一ツトシテ私ノ答ヘヲ其儘ニ耳ニ入レテ下サリマセヌ…コレガ神様ノ裁キダト思ハヌカ 国体ヲ犯ス大罪ナラ万死スルトモ赦サレマイト最早決定的ナ態度ヲ示シテ圧迫セラレルノデアリマス 斯様ナ次第デ予審ニ於テモ余儀ナク勢ヒニ圧サレテ 判事殿ノ御考ヘ通リノ調書ニ只盲従ノ署名ヲ致シテ来タノデアリマス 私ノ毎日ノ出廷ハ判事殿ノ御指図ニ依ツテ文献ノ中カラ色々ナ資料ヲ引手出ス事ガ仕事ノヤウナ形ニ成ツテ居リマシタ 何日ノ事デアリマシタカ 判事殿ガ大本ノ目的ヲ尢モ能ク纒メテ書イタ箇所ヲ探セト申サレマシタノデ 私ハ王仁三郎全集カラ「皇道維新ニ就テ」ト題スル冒頭ノ一章即チ「皇道大本ノ根本目的ハ世界大家族制度ノ実施実行デアル云々」ヲ御覧ニ入レマシタ 判事殿ハコレダ コレダト仰セニナツテ 尤モ能ク要領ヲ尽シテ居ルトオ喜ビノヤウデアリマシタ 私ニトリマシテハ正々堂々ノ大本ノ主張ヲ指摘シタ心算デアリマスガ 凡テヲ表看板 偽装卜見ラルヽ見方カラハ 反対ニ悪意ニ解釈セラルヽノデアリ 其ノ御解釈通リニ是非ナク私ニ認メサセラルヽノデアリマシタ 私ノ拘禁生活ハ此時已ニ百余日ニ及ビ 平素カラノ蒲柳ノ質ハ心身共ニ衰耗致シマシテ 加フルニ予審判事ノ斯カル態度ガ 私ノ魂ヲ警察当時ヨリ尚以上ノ失望ト不安ニ陥レテ了ツタノデアリマス 相被告ノ栗原七蔵ハ私等ト同ジク中立売警察署ニ収容セラレテ居リマシタガ 突然収容中ニ死亡シタ事ヲ隣房ニ在ツテ目撃シ 私ハ其ノ死因ガ不審ニ堪エナカツタノデアリマシタ 今此処デ私ノ所信ヲ貫カンガ為メニハ果シナキ拘禁ニ耐ヘナケレバナリマセン 私ノ体力ガ夫レニ耐へ得ルヤ否ヤガ不安ニナリマスト同時ニ 自分ハ断ジテ栗原ノ死ノ轍ヲ履ンデハナラヌト考ヘマシタ 一日モ早ク保釈ヲ許サレタイト念ズル心ハ全ク虎ロヲ逃レントスル如キ思ヒデアリマス 如何ニシテモコノー身ヲ公判ノ日迄持チ耐ヘテ心事ノ潔白ヲ立テサシテ戴カネバナラヌ 夫レハ自分ノ為ニモ 全体ノ為ニモ執ル可キ道ノ只一ツデアルト考ヘルヤウニナリマシタ 予審ニ於テハ警察ノ如キ暴行ハ受ケマセンデシタガ 暴行以上ノ此ノ不殺ノ殺ニ遇ツタノデアリマス 遂ニ予審ニ於テモ再ビ真実ニ非ザル調書ニ対シ 命ゼラルヽガ侭ニ盲従セネバナラナクサレテ了ツタノデアリマス

 不法な拷問などによってゆがめられていた警察聴取書を是正すべき予審の取調べが、すべてこのような調子であった。警察の聴取書にもとづいて、事実に相違する調書が作成されていったのである。
 つぎに事件の中心人物であった、王仁三郎に関する取調べ状況はどうであったか。ここでは王仁三郎自筆の上申書(昭和16・10・25提出)を抄出しておこう。

被告ガ帰神ノ事ヲ申上ゲ様ト致シマスト 大変ニオ怒リニナリ大声デ怒鳴ラレマシテ強ク否定サレマスノデ 帰神ヲ抜キニシマシテハ大本ノ真実ヲ上申スルコトガ出来ナイノデ大イニ困リ 遂ニハ黙スルニ至リマシタ……予審判事殿ハ大本ニハ一ツモ良イト思フ様ナ事実ハ発見出来ナイ徹頭徹尾悪イ事板バカリダ 良ク見エルノハ「表看板」ダ「保護色」ダ「暗示」ノ陳列ダト仰セラレマシタ 被告ノ申上ゲル答弁ハ一言モ調書ニハ記入シテ下サラズ 出口伊佐男 高木鉄男 東尾吉三郎以上三名ノ予審終結書ヲ基トサレテ 毎日午前九時頃カラ一枚ノ厚イ紙ニ万年筆ヲ以テ自問自答ノ創作ヲナサレ 被告人ニ対シテハ一言ノ御訊問モナク 彼ノ様ナ大部ノ調書ヲ十ケ月ノ日子ヲ要シテオ作リニナリマシタ 其ノ長イ間ヲ予審判事殿ノ御温情ニヨリマシテ三個ノ椅子ヲ与ヘラレ 之ヲ横ニ列ベマシテ一日中横臥シ 夕刻ニナツテ心ニモ思ハヌ恐ロシキコトノ書カレタル調書ヲ読ミ聞カサレ泣イテ署名拇印ヲ押シ 看守サンニ病体ヲ抱ヘラレ乍ラ監房ヘ帰リマシテ ヤツト息ヲツギ重湯ヲ頂イテ寝マシタ……
予審判事殿ハ被告ニ向ツテ 盤古大神ハ即チ瓊々岐命ダラウ 被告ハソノ様ニ陳ベテ居ルカラト申サレタノデ 被告人ノ者ガソンナ事ヲオ答スル筈ガアリマセン 大本ノ沢山アル文献ノ何処ヲ探シテモ無イカラ間違ヒダラウト申シテモ御採用ニナラズ 到々調書ニナリマシタ コンナ無理ハナイト悲シミマシタケレドモ ソンナ奇怪ナ説ノナイ事ハ御調ベヲ頂ケバ一目瞭然御判リ下サルト存ジマスル
昭和一二年八月初旬病ヲ冒シテ予審廷へ出頭致シマシタラ 劈頭第一ニ西川予審判事殿ハ被告人ニ向ツテ左記ノ言ヲ仰ツシヤイマシタ 此ノ頃漸ヤク三十人許リ予審ガ終結シタノダガ 而シオ前ガ此被告人ノ供述ハ私ノ意見ト違フナドト云ツテハナラヌ 老被告ノ内ニハ最早死亡シタモノガ二三名アルノダ 気ノ毒トハ思ハナイカ オ前ガ異議ヲ唱ヘルナラバ全部ノ被告ノ再予審ヲセナクテハナラナイ サウナルト今后更ニ三年ノ日子ヲ要スル被告ハ此ノ冬ヲ迎ヘテ心配シテ居ルノダ オ前ハ宗教家トシテ是等ノ老被告ガ哀レト思フナラ 一切ヲ肯定セヨトオツシヤツタ ソコデ被告人ハ犯罪ノ証拠ノ確タルモノヽナイノニ予審判事ガ苦シンデ居ラレル サウデ無ケレバ赤裸々ニ被告等ノ供述ヲ肯定セヨト云ハレル訳ハナイノダ 併シ乍ラ元々無実ノ大本事件 コンナ忌ハシイ罪名ヲ負ハサレテ 如何ニ全被告ガ気ノ毒ダト云ツテ 紋モ型モナイ啌ヲ供述ハ出来ナイ 仮令一生涯予審ニオカレルトモ 一死ヲ賭シテモ 大本ノ真実ヲ認メテ頂ク迄ハビクトモ動カヌト云フ固キ決心ヲ致シテ居リマシタサウシタ処ソノ翌日出廷ノ折 廊下ヲ手錠ヲカケラレ悄然トシテ曳カレテ行ク一人ノ被告人ガ王仁三郎ノ目ニ不図留リマシタ 之ヲ一見シタ被告王仁三郎ハ暗然トシテ落涙シ 折角ハリツメタ決心モ忽チ砕ケテ了ヒマシテ先ハ先ノコト 公判ニ於テ事実ノ真相ヲ申上ゲル事ト覚悟致シマシテ 心ナラスモ予審ノ調書ニ署名拇印シテ多数ノ被告人等ヲ一日モ早ク保釈シテ頂キタサニ涙ヲ呑ンデ敢行致シマシタ

 予審での取調べがいかに不当なものであったか、また予審調書が、いかに作成されたかは、以上の王仁三郎と東尾の上申書のみをとりあげても推察することができる。しかもこうした事実は最高幹部にとどまらずすべての被告に共通していた。ここでふたたび出口貞四郎の第二回上申書(昭和16・11・30提出)を引用しておこう。
 「西川予審判事の御取調べ振りは、其の頑強不屈、強硬に自分の意思を押通される所は正に警察検事局以上で、其判事は警察、検事局の聴取書を読んで、其れを更に一層厳重に、手きびしく記録せられて行くのでありました。肉体的な拷問こそ無けれ、其の無法なる論法、冷酷無情の取調べは、実に警察検事局より遙に以上のものでありました。譬へて言ふなら、警察、検事局では最初足枷をはめて、自由を失はしめはするが、その足枷に附いた綱は或る程度延ばして、或る範囲の自由を許されるのでありますが、予審に於ては、足枷をはめた上に、更に其の綱を一捲き一捲き締めつけて行くといつた感じでありました。……か様な次第で、全く裏切られた予審の調べは、全く想像にも及ばぬ無法振りで、判事の自問自答の中に、裁判上最も重要なる予審調書なる形式が作られて行つた」のであるとうつたえている。
 予審での取調べでは、弁護人の介入は一切許されず、予審判事の意のままにすすめられた。被告人たちの申立ては故意に無視され、大本教義にもない理論を、予審判事の予断にもとづいて威嚇的態度で一方的におしつけられた。各被告人はその期待をうちくだかれて、悲憤の涙をのんだのである。
 一九三七(昭和一二)年一二月二八日、東尾・伊佐男・高木・井上らの予審終結がまず決定された。翌昭和一三年の四月三〇日には王仁三郎、七月一五日には元男、九月一三日にはすみの予審終結がそれぞれ決定され、同年一〇月三日には五九人の被告全部の予審終結決定かおわった。起訴されたのは六一人であったが、その間、拷問による岩田久太郎の獄死、宮川剛の病死といういたましい犠牲があり、検挙されてから実に三年に近い歳月が経過していたのである。そして五九人ことごとく治安維持法違反、うち一〇人は不敬罪等の併合罪で、全員公判に付されることとなった。しかも、全員の予審終結をまつまもなく、昭和一三年五月一六日には公判準備手続がはじめられ、同年八月一〇日には第一回の公判がひらかれていた。西川予審判事の報告(『思想研究資料』特輯第66号)によれば、被告人および証人の訊問は一〇一三回おこなわれ、予審終結までの記録総数は七万九四六二枚に達したという。
 これまでに保釈をゆるされて出所した者は三分の一の二〇人であり、このときなお末決監に勾留されていた者は王仁三郎・すみをはじめとする三九人であった。

〔写真〕
○予審準備公判第一審がおこなわれた京都地方裁判所 中京区 p499
○今井敏夫 山本武 松野孝太郎 西川武 p500
○苛酷な取調べのなかで信仰はさらに強固となった 妻の病気で一夜の出所をゆるされた出口伊佐男 p501
○昭和12年7月 日中戦争が突発し日本は破滅への道をあゆんだ p503
○事件の予審経過をのべた極秘文献 司法省の思想研究資料特輯第66号 p506
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