文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第4章 >2 第二審の公判(大阪控訴院)よみ(新仮名遣い)
文献名3第二審よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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第一審判決後の第二次大本事件は、被告人全員による控訴によって、大阪控訴院にうつることになったので、弁護事務所は嵯峨保二の配慮によって、一九四〇(昭和一五)年の六月八日に、京都から大阪市北区中の島二丁目(渡辺橋詰)の北国毎日新聞社(のち北国新聞社と合併)大阪支局内にうつった。主任には三木弁護士があたり、日向良広・田上隼雄・木庭次守らが事務担当となり、差入れにも従事した。
第一審の有罪の判決によって、公訴事実の問題点があきらかになったので、その証拠資料をさらに検討し充実するため、まず大本教義についての資料作成がおこなわれた。これに必要な大本文献は寺田岩三郎らによってひそかにとどけられた。
同年の一〇月四日には、控訴院において裁判所側・検事局側と弁護人側とが集まって、訴訟進行についての協議がおこだわれた。裁判長は大阪控訴院第三刑事部長の高野綱雄、陪席判事は吉田幸太郎・田村千代一、書記は豊田真三である。係りの検事には第一審担当の検事小野謙三にたいし、ふたたび上司より内命があったが、小野が固辞したので、第二審では検事平田奈良太郎がこれを担当することとなった。弁護人は第一審と同様の態勢でのぞんでいる。
協議の結果、公判準備手続はひらかないで審理がすすめられることになり、第二審第一回の公判は一〇月一六日に大阪控訴院でひらかれた。王仁三郎・すみ・伊佐男をのぞいた被告人井上留五郎ら四七人が出廷し、ほかの五人は病気で欠席した。平田検事が公訴事実をのべたのち、裁判長は公開を停止し、各被告人にたいする訊問をおこなった。被告人は異口同音に第一審の判決で認定された公訴事実は、根本的に、被告人らの意思と相違するので控訴したむねを答えた。さらに弁護人側からは公判廷における速記の許可をもとめたが、これはゆるされなかった。しかし陳述を補足するための上申書の提出がみとめられた。
第二回の公判は一〇月二五日にひらかれ、王仁三郎・すみ・伊佐男および前回病気で欠席したもののうち御田村龍吉ほか二人が出廷した。裁判長の訊問にたいし、王仁三郎はじめ全員が公訴事実を否認し、公明正大な判決をうけたいため控訴した旨を主張した。
弁護人から申請した綾部・亀岡・穴太の実地検証は採用され、高野裁判長はじめ吉田・田村の陪席判事、平田検事、弁護人一〇数人は、一一月四日に綾部を、翌五日には亀岡と穴太を実地検証した。
弁護人側では、個人別の事実審理にはいるにさきだって、全弁護人の名をもって上申書を提出し、「大本教義上の歴史的叙述」にふれた。これは大本の全文献にわたって、天地剖判から現在にいたるまでの大本の史観をまとめ、さらに公訴事実における教義上の問題点について解明したものである。
事実審理は被告人一人ずつについて公判が分離してひらかれた。その第一番は王仁三郎であった。同年一二月一一日および一三日と二回にわたってひらかれたが、一三日公判廷よりの帰途、王仁三郎は裁判所の階段で足をふみはずし、右足を捻挫したので休養することになった。ついで出口すみについては一二月一八日に、伊佐男については同月二〇日および二三日に開廷された。
その後、王仁三郎の右足がなおったので、年もあけた一九四一(昭和一六)年の一月九日から公判が再開され、一月二三日まで続行された。都合七回で王仁三郎についての分離公判がおわり、ついで東尾吉三郎をはじめとする各被告人の分離公判がつぎつぎにおこなわれ、七月の下旬をもって終了した。高野裁判長の取調べは終始慎重で、しかもすこぶるきびしかった。なお陪席判事は五月から吉田判事にかわって土井一夫判事が担任した。その間静岡県の伊藤伊助が昭和一五年の一二月一〇日に病死し、総務であった御田村龍吉が昭和一六年の一月二九日に病死したので、両人の公訴は棄却された。同年五月二七日には出口伊佐男の実母佐賀シナヨが病死した。そこで同日夕刻に伊佐男は勾留を一時停止され、出所して、大阪天満署の巡査二人の監視つきで、郷里愛媛県の大洲にかえり、葬儀に参列して三〇日の朝帰阪し、ふたたび入所した。
同年七月には仝弁護人の名で、補充訊問期日決定についての上申書が提出され、全員無罪を確信するむねの上申をなし、これと前後して「被告人出口王仁三郎ヲシテ霊界物語ノ口述ヲ続行セシメ其ノ実況ヲ御検証相成度」しとの検証を申立てた。しかしそれは採用されなかった。
八月二六日からは被告人全員が出廷して併合審理となり、公判調書が読みあげられた。裁判長はこれについて被告人に意見の有無を問い、なお利益となる証拠があれば提出することができると告げた。二六日には王仁三郎の分、二七日にはすみと伊佐男の分があり、二八日にはその他の被告人にたいし、主として信仰および教義の点について確かめた。高木鉄男は病気によって、八月二六日に公判手続きが停止された。
九月一一日には全弁護人は王仁三郎(支障あるときはかわりに伊佐男)にたいする一〇五項目におよぶ補充訊問の申請をした。それは第二審の当初に提出した「大本教義上の歴史的叙述」のなかから、問題点を抜萃摘記したものである。さらに同月一六日にはそれに八八項目を追加し、なお各被告人にたいする合計一〇八項目の補充訊問を申請した。
九月一六日より一八日までの三日間にわたり、併合審理で公判がひらかれ、補充訊問がおこなわれた。そのなかで王仁三郎や伊佐男にたいし、大本教義上の歴史観につき裁判長から質問があり、これにたいして大本の神観や史観があきらかにされた。一八日には弁護団から王仁三郎にたいする精神鑑定の申請がなされたがこれは採用されなかった。
一〇月には弁護人より大本の予言に関する上申書や神がかりに関する上申書を提出した。九月以来弁護人側からつぎつぎと提出された証拠調べの申出書により、一〇月七日から証人調べがはじまった。七日には警察で取調べにあたった高橋誠治・小浦定雄・飯田外次郎の三人、翌八日には昭和三年三月三日みろく大祭のおり、至聖殿に昇殿しておりながら起訴されなかった浅野遙・中野岩太・梅田常次郎の三人にたいする証人訊問もおこなわれた。
同月一一日には証拠物件として、京都府警察部特高課から皇道大本検挙事件に関する日記帳、大本幹部信者の認識調べ、大本特殊行動調べ、大本事件に関する重要指令通達晝および証拠品要旨抜萃を、また内務省警保局保安課から同じく大本事件証拠品要旨抜萃を、京都地方裁判所検事局および京都府特高課から梅田常次郎(信之)より押収したお筆先の写本全部を、それぞれ取寄せることに裁判所は決定した。
さらに高野裁判長らは同月二二日に、松田盛政が自殺未遂となった中京区刑務支所を実地検証し、田村・土井の両陪席判事らは二四日に島根県の大本地恩郷別院跡を検証して証人吾郷勝哉を訊問し、二五日には大本島根別院跡を検証して証人錦織貞雄を訊問した。このように裁判所側の態度はいよいよ積極的になった。。
一〇月二九日には宮城県警察部長杭迫軍二(元京都府特高課長)を、一一月四日には海軍中将浅野正恭を証人として、それぞれ現地の裁判所に依嘱して訊問した。これには林・富沢の両弁護人が立会っている。
大阪控訴院に出廷をもとめての証人訊問はひきつづいてすすめられ、一一月六日には深町孝之亮(霊陽)・佐藤尊勇・福井精平・松永友吉、七日には室田勝太郎・中島義延・井口太郎吉・塩見清・植田太一、八日には唐沢俊樹(元内務省警保局長)・市毛五郎・水野満年、一二月四日には谷本和雄にたいする証人調べがあった。
一一月二〇日に裁判所は、京都地方裁判所の民事部から、土地返還請求事件の証人調べの調書全部を証拠物件として取寄せることに決定した。大本の民事訴訟が刑事事件にも反映するようになったのである。
一二月三日には、大阪弁護士会館の講堂において、かって全国的におこなわれた皇道展覧会の実演が、もと昭和青年会員数人によっておこなわれた。高野裁判長や平田検事らも非公式に列席し、弁護人たちも立会ったが、その説明内容と青年たちの説明態度は、裁判長や弁護人たちに非常な感銘をあたえたという。
公判廷での陳述を補足するため、出口すみは八月二三日と九月二四日に、王仁三郎は一〇月二五日と二六日に、伊佐男は一〇月ニ日と一一月一六日に、その他東尾吉三郎・出口貞四郎はじめ各被告人も、それぞれ上申書を提出した。
一二月ニ二日から三日間にわたって、検事平田奈良太郎による論告がおこなわれたが、その内容は第一審における小野検事の論告にもとづき、さらに予審終結決定の「盤古大神即チ瓊々杵尊」をそのまま肯定する立場をとってこれを補充し、予察調書を全面的な証拠とした。そして第一審判決どおりの求刑をおこなったのである。
弁護団としては、事実審理における裁判長の訊問の要点から、この事件の問題点をつぎの一三項目にまとめた。それは一、なお及び王仁三郎は神の霊代なりや 二、筆先及び霊界物語は神示と思ふや 三、大本皇大神と大本の所謂天照皇大神は同一神なりや 四、大本の所謂天照皇大御神と天照大御神とは同一神なりや 五、立替立直したる神はみろくの世の主宰神となるや 六、国常立尊の隠退及び再現の事情について 七、素盞嗚尊の神逐再現の事情について 八、国常立尊の隠退及び再現の現界への移写は素盞嗚尊の神逐再現なりや 九、盤古大神の現界への移写は瓊々杵尊及び其御系統なりや 一〇、王仁三郎は世界の統治権者となるや 一一、立替立直は王仁三郎の存命中にあるや 一二、大本はみろく大祭により我国体の変革を目的とする団体となりしや 一三、天孫降臨は伊邪那岐、伊邪那美尊の神勅違反なりやの各項目から構成がなりたっている。
以上の項目にもとづいて立証および弁論の準備をすすめ、一九四二(昭和一七)年の二月一二日から、弁護人の弁論が開始された。まず小山昇は、王仁三郎の説く大本教義とその行動について、三木善建は大本教義上の歴史的叙述を中心として、各六日間にわたる弁論をつづけた。また富沢効は神がかりと不敬の問題について、高橋喜又は大本の主祭神と大本の使命について、それぞれ二日間にわたる弁論をなし、高山義三は「大本の皇道主義は表看板にあらず、いわゆる一厘組は一部少数の異端的信仰の徒であった」との論旨をのべた。清瀬一郎・林逸郎・足立進三郎は三日間ずつ、「大本は宗教なりや」「治維法の適用は相当なりや」「結社組織なる行為成立せず」として、予審調書の信憑性について弁論した。今井嘉幸・竹川兼栄は二日間ずつ総論と各論について、川崎斎一郎・前田亀千代・赤塚源二郎・鍋島徳太郎・竹山三朗・根上信らの弁護人は、各被告人にたいする各論について力説した。なおこのほかに高山は二日間、小山・三木・富沢は各一日間ずつ各論につき論述している。
四四回(四四日)におよんだ弁論がおわりをつげたのは四月一六日のことである。弁論日数は第一審弁論の一三回の約二倍におよぶ日数を要し、各弁護人とも第一審における体験のうえから、さらに調査研究をすすめて、相互のチームワークのもとに、迫力のある弁論がおこなわれた。弁護事務所では、公判の進行とともに、出口発一郎・西村敏雄・境利雄・森うたの・出口融・藤津進・吉野光俊・河村三ツ桜らが臨時に参加して、ぼうだいな事務関係の資料作成や謄写その他の事務に多忙をきわめたが、諸物資の統制下にあってはその苦労はなみたいていではなかった。なかでも大量の用紙の入手には、米と物々交換するなど非常な苦心がはらわれている。
昭和一六年一二月には、病気のため国分義一・出口貞四郎が、昭和一七年一月には米倉恭一郎がそれぞれ公判手続きを停止された。同年六月一六日には総務であった高木鉄男か綾部で帰幽し、六月二五日には亀岡で藤津進が帰幽したので、この両人の公訴も棄却された。
大検挙以来すでに六年八ヵ月の歳月がながれていた。未決の生活をつづけていた王仁三郎・すみ・伊佐男をはじめ、すでに出所していた被告人らは、第二審の判決をしずかに待ったのである。
〔写真〕
○第二審がおこなわれた大阪控訴院 現在の大阪高等裁判所 北区 p596
○第1回公判は昭和15年10月16日にひらかれた 公判期日召喚状 p597
○綾部 亀岡 穴太の実地検証 破壊のあとも生々しい亀岡天恩郷の月宮殿跡 左から4人目高野裁判長 p598
○島根別院や地恩郷別院跡の実地検証もおこなわれた 田村 土井両陪席判事 検事 弁護人団などの一行 地恩郷 p600
○平田奈良太郎 p601
○弁護差入事務所は北国毎日新聞社の大阪支局にもうけられた p603