文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第5章 >1 再建への動きよみ(新仮名遣い)
文献名3暗黒の世よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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一九四二(昭和一七)年から昭和一八年にかけて、国内の諸体制もおおきな転換期をむかえていた。
このころ軍需優先の戦争経済は頭うちとなり、その破綻が深刻になってきた。原材料や基礎資材の生産はゆきづまり、生活必需物資は極度に不足して、労働者の勤労意欲も低下した。昭和一七年後半からは、アメリカ空軍と潜水艦の出動によって、南方や大陸からの海上輸送がおびやかされ、原材料の不足はさらに深刻となった。しかし、それでも政府・軍部は軍需産業に拍車をかけてその破局をのりきろうとした。
軍需産業の促進と生産拡充計画の遂行のため、一九三九(昭和一四)年七月から国民徴用令が公布され、多数の国民が軍需工場におくりこまれていた。しかしそれも昭和一八年を頂点として急速に低下した。そのため昭和一八年からは、学生や婦女子が、つぎつぎと工場・炭鉱・農村へと動員された。一九四三(昭和一八)年文部省統轄のもとに小規模にはじめられた学生生徒の動員は、その後しだいに拡大され、昭和一九年からは中学生・小学生にまでもおよび、授業は事実上停止された。同年一〇月までには約二〇〇万人、翌二〇年二月までには三〇〇万人以上が動員されている。また。昭和一八年には女子勤労報国隊が、未婚の女子を六ヵ月の短期労働に参加させる目的をもって結成された。翌一九年には女子勤労挺身隊に改編され、「無職」として登録されていた一二才から三九才までの未婚女子は、すべてモンペ姿で挺身隊に参加することとなった。こうして学徒と女子挺身隊は昭和一九~二〇年において数量的には労働力の最大の供給源となった。
一方「玉砕」による兵力の不足もめだってきた。三〇代・四〇代の父親たちが徴兵され、昭和一八年一一月には徴兵適令が一年引下げられた。一二月には学生の徴兵猶予がなくなり、学徒出陣がおこなわれた。ついで昭和一九年一〇月には満一八才以上が兵役に編入され、朝鮮や台湾にも徴兵制が実施された。戦争終了時の陸海軍兵員数は七二〇万人といわれ、老幼男女をふくめて一〇人に一人が軍人にとられるという状況であった。このような事態をむかえて大本信者は「くに挙り上は五十路の老人より、下は三五の若者が、男、女の別ち無く、坊主も耶蘇も囚人も、戦争の庭に立つ時の、巡りくるまの遠からず」とある『瑞能神歌』を、目のあたり見るおもいであった。
国民大衆の生活は逼迫の一途をたどった。昭和一七年をさかいとして租税と公債の負担が急増した。その反面、生活に直接関係のある民需生産はさらに低下し、表(1)のように生活物資の不足はいっそういちじるしくなった。通貨は膨張しインフレが昂進した。物価は賃金を上回って急上昇し、実質賃金は表(2)にみるようにめだって下落した。家計はさらにくるしくなったことはいうまでもない。しかし国民にたいしては「決戦生活」「欲しがりません勝つまでは」のスローガンのもとに、耐乏生活が強要された。
一九四三(昭和一八)年六月、大日本婦人会は全国の支部長会議を開催して、「一、誓って飛行機と船に立派な戦士を捧げませう。二、一人残らず決戦生産の完遂に参加協力いたしませう。三、長袖を断ち、決戦生活の実践に蹶起いたしませう」との「総蹶起申合」をおこない、つぎのような「婦人実践事項」を全会員に配布した。
「米英撃滅!! 戦力増強!! これが私達の唯一の生活目標です。物資増産、消費節約、貯蓄増強、健民養育及軍人援護は、銃後の五大要塞です。而も其の守備の大半は私達婦人の責務であります。私達は、第一線将兵の姿を其の侭に、忍苦耐乏を甲冑とし、勤労倍加、生活切詰、一致協力を薙刀として、工夫と努力で守備に撃破に寸分の弛みなく決死の覚悟で、日本婦人の本領を発揚致しませう」(大日本婦人会南桑田郡支部)。一方、政府は常会をとおして、「一億憤激ヲ軍需生産ニ!! 一億憤激ヲ食糧増産ニ!! 一億憤激ヲ国土防衛ニ!! 一億憤激ヲ決戦生活ニ!! 一億憤激ヲ追撃貯蓄ニ!! 一億憤激ヲ松根油増産ニ!! 一億憤激ヲ火災防止ニ!!」(昭和19年12月)とはげしい口調で国民によびかけていた。
しかし、百方手をつくした「鞭撻」にもかかわらず、生産も生活も急速にジリ貪状態へとおいこまれていった。
なかでも食糧の不足はもっとも深刻な問題となった。国内の農・漁業生産はガタ落ちとなり制空・制海権の喪失とともに輸入物資も杜絶した。二合三勺の主食の配給にも、米のほかに麦や馬鈴薯がまじるようになり、ついには大豆・高梁や雑穀類、さらに「ふすま」といったものまでが配給されるようになった。副食も不足し、配給制でも肉や魚はゆきわたらず、特には五日に一回、やっと「にしん」や「すけそうだら」の一片が配給され、だしじゃこ(だしこ)の特別配給があっても一人当り一五匁という有様であった。野菜も不足し「お化けきゅうり」や「ほうれん木」が横行したのもこのころである。都会では一人あたり三日に葱三本ということもあった。自給のために道路や庭先がほりかえされて野菜をうえ、花をつくれば非国民といわれたほどである。買出し部隊が田舎へとくりだし、物々交換の「たけのこ生活」「たまねぎ生活」によってわずかに食糧品を手に入れるという状態であった。
また炊事や暖房にかかせない薪炭がえられず、家具や建具・床板までが燃料となったことはめずらしくない。家庭用マッチなども一人世帯に並型一個、三人世帯まで並型二個、五人世帯まで並型三個、七人世帯まで並型二個と徳大一個、一〇人世帯まで並型三個と徳大一個、一一人以上の世帯に並型四個と徳大一個という割当で、その配給も不規則であった。衣料の不足もひどく、配給制限から配給切符の点数はあっても買うべき品物がなかった。昭和一九年の国内民需用供給量は昭和一二年のわずか七・四%にまで低下し、一般家庭向はゼロにもひとしく、赤ちゃんのおむつにする古い布地もない状況であった。
だが、こうした物資の不足は、国民のすべてにひとしくあらわれた現象ではない。重臣や政治家、軍人や官吏、軍需会社の幹部や統制会社の役員などの上流階級・特権階級や商人は、役得をわがもの顔に豪勢な生活をしていた。当時流行した「世の中は星に碇に闇に顔、馬鹿者のみが行列に立つ」という狂歌は、その間の事情を物語っている。
聖師は信者に、「闇のあとには恐怖時代がくる。そのつぎにはびっくり箱のあく時代がくる」とかたり、「何もいわずに黙っとれ」といましめられていた。思想・言論への統制はさらにつよめられ、大衆の日常生活の身辺にまで監視の目がひかり、まさに恐怖時代が現出してきた。一九四二(昭和一七)年の九月には典型的言論弾圧として知られている泊事件がデッチあげられた。昭和一八年三月一八日に東条首相は、戦時行政特例法・戦時行政職権特例を公布し、首相の独裁権を強化した。同時に戦時刑法特別法を改正して、「戦時にさいし国政を変乱」しようとするものにたいし、重罰をもってのぞんだ。国政とは、朝憲(国体)、政府・議会・国家の基本的政策をいみし、権力へのいっさいの批判を封殺しようとしたものである。同年五月には岩波書店の「教育」と教育研究会のメンバーが検挙された。三月には日本出版会がつくられ、九月からはすべての出版物・書籍が、原稿またはゲラ刷で事前検閲がおこなわれることとなり、一二月には出版社が一九五社に統合された。昭和一九年七月には「改造」「中央公論」が廃刊命令をうけ、同時に解散させられた。外国の書籍や外国語は追放され、原書をもっているものは「国賊」とののしられるほどまでになった。一方、宗教界では、一九四三(昭和一八)年七月に創価教育学会、九月にはセヴンスデー・アドベンティスト教会が弾圧されている。
しかし、やがて国民大衆の心情にも微妙な変化がみえはじめてきた。戦局の不利はようやく実感として肌身に感じとられるようになってきていたし、耐乏生活も耐えうる限度においこまれつつあった。くわえて弾圧と不合理の横行にたいし、ついに不満をもらしはじめたのである。それは国民のいつわらざる感情であり、終戦をねがう心情でもあった。この実情にたいし当局は、「現下の情勢は、枯草をつみたる有様なれば、これにマッチで火をつければすぐ燃える」危険性をはらんでいると見て警戒をさらにきびしくした。国民大衆の不満の声は「造言蜚語」とよばれ、あるいはこれに「不穏言動」の烙印をおして、手あたりしだいに検挙された。警察当局が検挙した「不穏言動」は、一九四二(昭和一七)年四月以降三〇八件、四〇六件、六〇七件と年々増加しており、憲兵がとらえた「造言蜚語」の数は、一九四四(昭和一九)年には六二三三件にものぼっている。
「暗がりの世」と筆先で警告されてあるとおり、まさに世は暗黒と化したのである。
こうした生活の窮乏と思想の抑圧のうえに、さらに直接の戦禍、空襲と疎開が国民の前におおいかぶさってきた。昭和一九年の一月に疎開命令が出され、直接に戦闘や生産に役だたない老幼男女は、農・山村に縁故をたよって疎開させられた。人の疎開についで建物の疎開がはじまり、おおくの民家がつぎつぎと、軍隊や警防団の手でひきたおされた。三月には旅客輸送が一そう制限されたので、家財を送りたくても貨車はなく、身一つで疎開しようにも切符の入手がむつかしかった。さらに七月には学童の集団疎開がはじまったが、疎開が遅々としてはかどらぬ矢先き、ついにB29爆撃機による無差別大空襲がはじまった。一一月二四日にはサイパン島をとびたったB29が、まず日本の首都東京を襲った。はじめての大空襲を体験した国民大衆は、戦争の災禍・恐怖をいやというほどおもいしらされたのである。当局は「うちてしやまん」(昭和18・2月)をよびかけ、「一億総武装」(昭和19・8月)を力説していたが、すでに敗戦は実感として国民の肌にひしひしと感じられてきた。
国民大衆のくるしみや暗雲は、大本信者のうえにもひとしくおおいかぶさっていた。こうした非常時のなかで、聖師は信者の指導と国民大衆のすくいについて心をくだいていた。聖師の身辺には、一般的思想統制のうえからと、第二次大本事件関係による監視の目が、とくにひかっていた。しかし聖師はこれを黙過していたることができなかった。それは日本や世界の問題から、戦争のこと、さらに個人の身の上にいたるまで、千差万別ではあったが、問われることには答え、なお、みずから語るというように、直接かつ具体的に指導していった。そしてその言葉はたちまち全国の信者にかたりつたえられ、さらに信者を通して一般大衆にも影響をあたえていった。また社会の一部有識者や軍人の間には、かつての聖師の予言警告を思いだして、教示をもとめようとする者もあった。
そのころ、当面する一番の関心事は「戦争の結末」についてであった。すでにのべたように、時々刻々流動してゆく戦局の推移のなかで、聖師は局面の戦闘についてはもちろんのこと、太平洋戦争そのものの結末についても敗戦でおわることを明言していた。信者はそのため虚偽の報道にまよわされることなく、事実を正しく認識し、冷静に事態に対処することができた。聖師の言葉はただ予言のための予言ではなく、信者や国民大衆の苦しみをすこしでもかるくし、戦争そのものを一刻もはやく終結させたいというねがいからにほかならなかった。
したがってその教示もきわめて具体的であった。たとえば昭和一八年には「いよいよ戦争がはげしくなってきた。神諭に『未と申とが腹を減らして惨たらしい酉やいが初まるぞよ』(大正7・12・22)とあるが、今年は末の年で日照りがつづき飢饉になる。羊は下にいて草ばかり食う動物であるから下級の国民がくるしむ。来年は申年で猿は木に住むから中流の人が苦しみ、国民の心が動揺してくる。再来年は酉年で、いよいよ上流の人が困りむごたらしい奪い合いがはじまる。また戦争には病気がつきもので疾病が流行する。大峠は三年の後だ」とおしえ、「いったんは日本は米国の支配下におかれるが、それもしばらくの間や」「日本の敗戦後は米ソ二大陣営の対立……」などと語られた。空襲については、「東京は空襲されるから疎開するように」、「大阪も焼野ケ原になる」といわれ、「九州は空襲だ」ともじられたり、反対に「京都は安全」、「金沢は空襲をうけない」などとものべられている。「広島と長崎はだめだ」とおしえ、伊勢空襲をも示唆し、昭和一九年のころには「全国のおもな都市は灰になる」との警告すらがあった。また竹田にあった日出麿によって、襖いっぱいに東京空襲の有様がえがかれ、側近の者がこれを東京の信者につたえたこともあった。
太平洋戦争の戦禍は、戦線と銃後の区別もなく、すべての国民のうえにまでようしゃなくふりかかってきた。「金甌無欠」とか、「天佑神助」を信じこまされてきたおおくの一般国民にとって、悲惨な現実が具体化してきた。信者は聖師からきびしい戦争体験のなかで、「今度の戦争は生き残るのが第一の神徳だから、お守りをやる」、「日本は敗けても世界のかがみになるのやで、これからどんなこわいことがあっても、神さまにすがっておればよい。惟神霊幸倍坐世といえば神さまにつながる、『月鏡』のなかの悪魔の世界とあるところをよんでおけ」と教えられていた。また出征してゆく信者の子弟は、「すすんで危いところに行かぬよう」とさとされ、また「守ってやるからな」と拇印をおした肌守をあたえられ、はげまされた。やむなく死地におもむかねばならぬ子弟への聖師の祈りはことにふかかった。信者のなかには玉砕をつたえられたサイパン島や硫黄島からすら、九死に一生をえて帰還したものもある。
聖師によって「今は、悪魔と悪魔の戦いで人殺しの戦争だから、力のつよい方が勝つ」とのべられ、神への信仰と人の生命を第一にとうとぶ立場から、するどく戦争を批判されていた。聖師の言葉は、「国体護持」のため「聖戦」ととなえられた当時の戦争指導の方針と真っ向うから対立するものであった。したがって戦争への協力はしないようにとの指導もなされていた。また「大本が弾圧をうけたので、戦争に協力しないですんでいるのだ。これが将来に大きな証明になるのや」と信者たちにいわれていた。
戦争にたいする大本の態度には一貫したものがあった。それは筆先にも示されているところである。たとえば一九一六(大正五)年旧一一月八日の筆先には「この世の来ることを明治二十五年から今につづいて知らしておるのにチトも聞入れがないが、国同志の人の殺し合いというような、こんなつまらんことはないぞよ。一人の人民でも神からは大切であるのに、屈強ざかりの人民が皆無くなりて、老人や小児ばかり残して、あとさき構わずのやりかたであるぞよ。こんな大きな天地の罪を犯して、まだ他の国まで取ろうと致しておるのは、向うさきの見えぬ悪魔の所作であるから……」と明示されてある。
一九三七(昭和一二)年のことである。出征してゆく信者の子弟にたいして、〝大丈夫の心はやりて二つなき命を軽んじ給ふなよ君〟〝死ぬのみが忠義にあらず国の為いのちを愛しみはたらきたまへ〟という直日の歌がおくられたこともあり、また、〝北満に銃とりてゆく君が身はわれがおもひ凝りてまもらめ〟(昭和11年)と祈り、〝天地の神まもり給ふこの身なれば百千のたまもよけてとほれこそ〟と染筆した腹帯をあたえられたこともあった。
一九四二(昭和一七)年五月には日本文学報国会が、ついで一二月には大日本言論報国会が結成され、文筆家の多くは「ペンの戦士」として戦争に従軍した。宗教界でも、昭和一八年四月に聖旨奉戴基督教大会がひらかれ、昭和一九年の九月には大日本戦時宗教報国会が結成されて、戦意昂揚への協力をよぎなくされた。歌人とても同様であった。昭和一七年の直日の歌稿(ちりづか)に、〝時世の衣手ばやくきかえき歌人のそのさかしさにあきれてわれは〟〝このごろは国粋主義がはやるとよきそひてつくれ世の染物師「汝歌人よ」〟とよまれているのも注目される。このころ「ごぎやう」から退会した直日によって、〝われとわが心ぬくめて世の隅にひとりひそかに歌つくらんを〟〝世の底にひとりなりともわれは吾のまことの心うたはんものを〟と書きとめられているが、そこには生命を愛しみ自己に忠実に生きぬこうとする態度がつらぬかれている。
聖節の態度は一貫して戦争の否定と、人類の救済にあった。適切な指示によって戦禍のなかから一人でもおおくを救いあげつつ、大難を小難にまつりかえんとするふかい祈りがつづけられていた。さきにのべたように、予言の適中が事件中の信仰護持の一つのささえとなり、信者に自信をあたえたことは事実であった。しかしともすると、神示の実現として予言の適中のみをよろこぶものがあったことも事実である。こうした信者にたいしては、聖師はきわめてきびしくいましめられたのであった。
〔写真〕
○時代の苦しみのなかで青春を力強く生きぬいた 女子挺身隊 p635
○つぼみは花開かず空に…陸に…海に散った 少年兵募集のポスター p636
○表(1) 主要生産物資一人当り年間消費量指数 経済安定本部調 表(2) 実質賃金指数 総理府統計局調 p637
○戦争遂行にあけくれした日々 上 目ぼしいものは強制的に回収され 下 道路は畑と防空壕になった p638
○空襲は日課となった サイレン警鐘の鳴し方 p641
○農夫姿の出口王仁三郎聖師 昭和18年ころ 亀岡中矢田農園 p642
○保釈出所直後にはいちはやく二代すみ子によって機は再興された 〝けふもまたはたをときつつ糸をくるけふのひとひもしらずくれゆく〟 くず糸をつむがれる二代すみ子 p643
○時世の底に身をしずめてひたすら生命を愛し真実をつらぬく態度がつらぬかれた 三代直日の歌稿 p645