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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第5章 >2 事件の解決よみ(新仮名遣い)
文献名3大審院の判決よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ665 目次メモ
OBC B195402c6522
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本文  一九四二(昭和一七)年七月三一日に、大阪控訴院で判決がおこなわれた第二次大本事件は、大本側よりは不敬に関する上告がなされ、検事局側よりは治安維持法違反についての上告がなされたので、事件は大審院※にうつった。昭和一八年六月、第二次大本事件関係記録三五五冊(予審まで二四〇、第一審四○、第二審七五)が大審院に送達され、七月一日第二刑事部がかりと決定された。そこで大本側では九月に弁護人選任届を提出し、第二審のままの陣容でのぞむこととした。一〇月になって上告審の裁判長は沼義雄、陪席判事は駒田重義・日下巌(審理の途中退職)・斎藤悠輔・吉田常次郎、主任判事は斎藤と決定され、また主任検事は平野利があたることになった。

※ 当時の刑事訴訟法によれば、上告裁判所は原判決に瑕疵ありや否やを調査し、 (一)一定の瑕疵がなく、したがって上告の理由がないときはこれを棄却し、 (二)一定の瑕疵があり、したがって上告の理由があるときは原判決を破毀した上、(1)自ら被告事件について判決をするか、(2)あるいは判決をしないで原裁判所に差戻・移送をすることとされている。したがって上告審は、原判決の当否に関係なく全般的覆審を目的としている第二審とはことなり、原則として、 (一)事実の取調および審理はおこなわれず、 (二)被告人のためにする弁論は弁護人以外はゆるされない。また (三)上告趣意書の提出が義務づけられている。この上告趣意書は、検事および弁護人の弁論の基礎となり、職権事項をのぞくほか上告裁判所の調査の範囲はこれによって定まるため、そのもつ意味はきわめて重要である。上告趣意書および答弁書は公判前に検事・被告人の双方に送達され、上告裁判所ではその検閲と報告書の作成がおこなわれる。公判では、 (一)受命判事がまず報告書を朗読し、 (二)検事および弁護人が上告趣意書にもとづいて弁論する。ついで (三)上告裁判所は上告趣意書に包含されている事項および職権事項について調査をし、その結果 (四)上告の事由が認められたときは異例として事実の審理がおこなわれる。 (五)そして最後に判決がおこなわれる。

 大本側では出口王仁三郎・桜井重雄・浜中助三郎の不敬被告事件についての上告趣意書の作成に着手し、王仁三郎のは、弁護人の高橋喜又・三木善建・小山昇らの助言をえながら、出口伊佐男・貞四郎・東尾らが連日検討をかさねて書きあげ、昭和一九年一月一〇日に全弁護人の名をもって大審院へ提出した。桜井・浜中の上告趣意書は、担当弁護人がこれを作成し、同年一月二〇日までに提出した。
 王仁三郎の上告趣意書には、原審(第二審)判決の第一点より第七点までをかかげ、不敬とされた神諭の二点と短歌六首につき、いずれも不敬の意味でないことを徹底的に釈明し、「原判決が重大ナル事実ノ誤認ヲ犯セルコトヲ指摘」した。なお「原判決が本件予審訊問調書ヲ不敬事実認定ノ証拠ト為シタルハ採証上失当ナリ」として、予審調書の信憑性なき事由をのべた。
 さらに大本側では、一九四四(昭和一九)年一二月一五日に上告趣意補充書を追加提出した。これによれば、「原審判決ニ「重大ナル事実ノ誤認アリトノ理由ニ付キ補充ス」として、「筆先ノ発表翻読ノ禁止ト筆先ノ訂正発表」および「新教典霊界物語ノ発表」の経緯を説明し、「人類愛善運動」と「皇道宣揚運動」の実情を解説し、聖師が、「役員信徒ニ対スル指導」に苦慮した様子をのべたのち、大審院第三刑事部における尾崎行雄にたいする不敬事件の無罪の判決を引用して、「之ヲ要スルニ不敬ノ意図ナキ本件ニ於テハ犯罪ノ成立ヲ阻却スベキモノナリトス」と主張されている。
 一方、原審(大阪控訴院)検事平田奈良太郎は、検事局の配慮により温泉にこもって、約一五〇〇頁・八四万語にわたる上告趣意書をかきあげ、これを刑務所で印刷して、昭和一九年の一月四日に大審院に提出した。検事の上告趣意書には、第一審における京都地方裁判所の裁判長庄司直治の判決を全面的に支持し、「治安維持法違反ノ事実ニ対スル原審判決ノ判示理由ニ付案ズルニ後記詳述スルガ如ク証拠ノ取捨並判断ヲ誤リ重大ナル事実ノ誤認アルコトヲ疑フニ足ルベキ顕著ナル事由アリ」としてその理由をのべ、原審(第二審)判決全般にわたって、異議を申立てている。
 これにたいし大本側としては、検事の上告趣意書全般につき反論する答弁書を一月三一日に提出した。その内容は、「一、検事の事案に対する検討態度に根本的誤謬あり。 二、検事は宗教的考察を欠如す。 三、検事は大本の歴史的考察を欠如す。 四、検事は異端者を弁明せず。 五、不逞目的を有する結社組織の事実なし。 六、検事は証拠を不法に援用せり(大本に隠語なし)。 七、検事引用の予審訊問調書は信憑するに足らず。 八、出口王仁三郎、桜井重雄、浜中に対する原審無罪認定部分について」の八項目にわたっている。
 つづいて答弁補充書をつぎつぎと提出した。七月二七・二八日には、第二刑事部によって亀岡・綾部の実地検証がおこなわれている。
 上告審の公判は、一九四四(昭和一九)年の一〇月七日、第二次世界大戦において日本の敗色がしだいにふかくなったさなかにはじめられた。まず平野検事の論告が、原審検事長から提出された上告趣意書にもとづいておこなわれ、検事は「本件判決の結果は国体明徴の必要愈々切なる現時局下国民思想に影響するところ甚大であります」とのべ、これまでの主張をくりかえし強調した。
 これにたいして大本側弁護人の清瀬一郎・高山義三は一〇月一一日、答弁書にもとづき答弁をおこなうとともに、清瀬は上告趣意書によって弁論をした。ついで高山義三・富沢効は一四日、林逸郎は同月一八日および二一日の午前、今井嘉幸は同日の午後、三木善建は二五日、小山昇は二八日に、それぞれの立場から弁論をおこなったのち、それぞれ弁論要旨を提出した。二八日には弁護人の弁論をおわったが、これにたいして平野検事から「各弁護人ノ上告論旨ハ孰レモ理由ナキ旨」の意見がのべられている(以上『公判調書』による)。なお公判は公開を停止されていたが、内務省および警視庁からはかかさず傍聴にきていた。
 一九四二(昭和一七)年の八月五日に、第二審の高野裁判長が王仁三郎・すみ・伊佐男の保釈を決定したのにたいし、検事は大審院へ即日抗告の手つづきをしたことは前にのべたが、その後、同月一五日には弁護人連名で、大審院あてに「罪証湮滅のおそれ毫末もなく、被告人等に逃亡のおそれなし」との反駁書を提出していた。ところが二年三ヵ月をすぎた昭和一九年の一一月七日にいたって、大審院第三刑事部の三宅裁判長は、検事の抗告にたいし「本件抗告ハ之ヲ棄却ス」と決定した。その理由は「本院ハ慎重ニ被告人等ノ動静ヲ査察シ現実ニ於テ申立人所論ノ如キ懸念ヲ抱クベキ徴候アリヤ否ヤヲ見 仍テ遡テ原決定当時ノ見込ノ果シテ正鵠ヲ得タリシヤ否ヤヲ知ラント努メ爾来今日ニ及ビタルガ 其ノ間被告人等ニ証憑湮滅又ハ逃走ノ意図アルコトヲ疑フベキ事由ヲ認メザリシノミナラズ 本年十月七日ヨリ二十八日ニ亘リテ本院第二刑事部ニ於テ行ハレタル弁論モ平静ニ終結シ 其ノ間以上ノ点ニ付聊カモ懸念ノ漂ヒタル模様ヲ窺フコトナカリシコト顕著ニシテ……」とするものである。大審院は保釈後の王仁三郎ほか二人の動静をつねに査察していたのであり、その間に王仁三郎をはじめ関係者にたいする警察からの監視がきびしかったのも当然であった。
 昭和二〇年に入って東京への空襲が激化し、四月一二日の空襲では大審院の一部が被害をうけて、第二次大本事件関係記録三五五冊のうち二二九冊が焼失した。ついで五月二五日の空襲で大審院は焼失し、小石川竹原町の女子高師付属国民学校に移転した。そのため大審院の機能も1ヵ月余にわたって停止せざるをえなくなった。そして前にふれたように、八月一五日、ついに日本は無條件降伏をしたのである。終戦直後における国家大変動のあわただしいなかで、一九四五(昭和二〇)年九月八日、第二次大本事件にたいする大審院の判決がおこなわれることになった。焼けのこった小石川の国民学校にうつされていた大審院の法廷で、第二刑事部の裁判長沼義雄により、治安維持法違反被告事件および不敬被告事件その他の「上告ハ何レモ棄却ス」との判決言渡しがなされた。これで第二審判決どおりと確定したのである。大審院では主文を読みあげるだけで、理由は読まず、開廷わずかに五分間ばかりで言渡しがおわった。大本側としては東尾吉三郎と比村中が代表して出席し、判決のしだいはこれを電報で亀岡に知らした。
 第二審の判決後において帰幽した被告人は、河津雄次郎・吉野光俊・森国幹造・山県猛彦・米倉恭一郎・木下愛隣の六人で、広瀬義邦・波田野義之輔・関由太郎・石山喜八郎の四人は、応召入隊のためそれぞれ公訴を棄却され、九月八日に大審院の判決をうけたものは四〇人であった。
 治安維持法違反事件にたいする判決の理由は、つぎのとおりである。

原判決無罪理由ノ大部分 例ヘハ国体変革ノ不逞意図ニ直接関係ナキ判示第一ノ大本ノ教理、神観、教義等ニ関スル判示及判示第二ノみろく下生の意義 竝ニ結社組織ノ意思表示ノ有無ニ関スル判示ノ如キハ 畢竟無用ノ説示ト謂フヘク 従テ之ニ対スル検事ノ上告論旨モ其ノ当否ノ判断ヲ須ヰルノ要アルヲ見ス 仍テ右ノ点ニ付 三百五十五冊ニ亘ル本忤記録ヲ精査シ 五万点ニ亘ル証拠ヲ仔細ニ点検シ記録ニ現ハレタル各被告人ノ入信ノ動機、入信後ノ行動等ヲモ参酌スルモ被告人王仁三郎其ノ他結社ノ組織者ト目セラルル者等カ我国体ヲ変革スルノ意図又ハ認識アリタリトスルニ足ル証左ナシ 問題ノ予審訊問調書ハ其ノ内容自体ニ矛盾齟齬アリテ不可解ナルノミナラス多数文献ノ明文ニ反シ輙ク措信スルヲ得ス 従テ原判決カ屡々之ヲ措信シ難シト判示シタルハ証拠解釈ノ専権ヲ有スル原審ノ職権上当然ニシテ 之カ為原判決ニ証拠ノ取捨竝ニ判断ヲ誤リタル違法アリト為スヲ得ス 若シ夫レ大本文献ノ明文ニシテ表看板保護色ナリトセンカ 之ヲ除外スルトキハ白紙ニ庶幾シト謂フノ外ナシ 従テ原判決カ治安維持法違反ニ付叙上ノ如ク証明ナシト認メ 之ヲ前提トシテ各被告人ヲ無罪ト為シタルハ相当ニシテ 理由ニ不備ナク又事実認定ニ重大ナル誤認アルコトナク 之カ審理ニモ不尽ノ認ムヘキモノアルコトナシ サレハ治安維持法違反ニ関スル原審検事ノ上告ハ既ニ此ノ点ニ於テ理由ナキヲ以テ爾余ノ説明ヲ省略シ 刑事訴訟法第四百四十六条ニ則リ棄却スヘキモノトス

 このように治安維持法違反については、予審調書は「措信スルヲ得ス」とし、いわゆる「国体変革の意図又は認識」と結社に関しては「証左ナシ」として、検事の上告を全面的に棄却したのである。
 不敬等の事件についての上告棄却の理由としては、

不敬竝ニ不敬等事件ノ無罪部分ニ付テハ勿論 其ノ有罪部分ニ付テモ其ノ判断ニ付原判決ノ如ク解シ原判決ノ如ク認メ得サルニ非ス 従テ上告審トシテハ事実ノ認定ニ所謂重大ナル誤認アリト認ムヘキ顕著ナル事由アリト為シ難ク 又理由ノ判示 証拠ノ取捨判断其ノ他ニ付不備若ハ違法ノ存スルモノアリト謂ヒ難ク 又刑ノ量定ニ付テモ甚シク不当ナリト思料スヘキ顕著ナル事由アリト認メ難キモノト評決シタリ

とあるように、「認メ得サルニ非ス」とか、「為シ難ク」「謂ヒ難ク」「認メ難キモノ」と消極的な態度の判定で、治安維持法違反にたいする明快な判定とは対照的であった。
 主任判事の斎藤悠輔は、事件の証拠品が大阪控訴院におかれていたので、大阪に出張して証拠品を調査した。また関係のある図書もあわせて研究し、綾部・亀岡の破壊の跡も踏査した。斎藤は当時を追懐して、「治安維持法の方は全然見当ちがいで、問題にならない。不敬の方はあの歌が不敬になるなんて、すぐには理解できない。ただ被告にとって不利益なのは、予審調書に不敬の意味でとりあげられてあったことだ」と語り、評決にいたるまでには不敬事件をも無罪にすべしとの少数意見もあったとのべている。なお「王仁三郎という人は天才というか神がかりですね。霊界物語の中に讃美歌がありましたが、あれはバイブルのそのままをみな七五調の日本の歌にしてしまったのですね。それが三日位で出来ているでしょう。私もバイブルとくらべてみたのですが、よくもこんなことが出来るものだとびっくりしました。修行によってもそういうことがありうるということを、あの事件を扱って感じました。王仁三郎という人は純真な、まあ一つの神という存在でしょうね」とも語られている。
 上告審の弁護事務所は昭和一七年の末に、大阪から亀岡横町の木庭次守宅にうつし、弁護士高橋喜又が主任となった。上告審の公判に関する上告趣意書・答弁書・弁論要旨その他、および民事訴訟関係の書類にいたるまで、謄写・製本し、上告審の判決書はこれを印刷したが、それらに使用した半紙の総数は約八万枚にたっした。これらの作業には、熊本・広島・高松・和歌山・山形などから、木庭・土居重夫・出口融彦・木田繁雄その他一〇数人が、食糧を持参し旅費を自弁して奉仕した。上告審の公判直前、東京の富沢弁護士は「米の代りにサツマ芋(只今はジャガ芋、御飯は朝夕二度に一杯宛)配給の筈故、それを食べて頂くべく候」と東尾あてに書きおくっているが、食糧の欠乏、用紙の不足、交通の混乱というきわめて深刻な事態のなかで、弁護人や事件関係者の苦労はなみたいていではなかった。
 一〇月四日GHQの指令によって、「思想、信教、集会、言論の自由に対する制限を確立または維持」する法令や制度は事実上撤廃された(「政治的、市民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」)。これは日本の民主化にとって画期的な出来事であったが、「国体」「皇室の尊厳」護持のため、特高警察や治安維持法・不敬罪などの維持に狂奔していた東久邇宮内閣にとっては一大打撃であった。まず政治警察が廃止され、内務大臣以下警保局長・警視総監さらに各庁府県の警察部長・特高の全員が罷免された。これらの者はさらに、今後内務省・司法省其の他日本における如何なる警察機関への就職も禁止された。一〇日には治安維持法などの弾圧法令による拘禁者がすべて釈放され、治安維持法・治安警察法や宗教団体法なども即刻撤廃されて、支配権力をささえてきた弾圧機構は崩壊した。
 一〇月一七日、政府はやむなく天皇の名によって大赦令※(勅令第五百七十九号)を公布施行し、「国事犯」「政治犯」のすべてを「赦免」する措置をとった。これによって第二次大本事件の不敬事件も消滅したが、これはもはや形式的手続でしかなかった。第一審で公判停止となっていた出口元男は、一一月七日京都地方裁判所で公判が再開され、二〇日に本人が出頭しないまま大赦による免訴の判決が言渡されている。幹部や信者は、「この事件は一〇年かかる」と聖師からもらされており、昭和一七年の控訴院の判決があった直後にも、「もう事件はすんだ。あとは手続がのこっているだけだ」と語られていたという。その言葉のとおりに、第二次大本事件は一〇年の歳月をへて、世のかわりとともに全く解消してしまった。国家の名によって大本を破壊した支配権力が、「自由」と「正義」の名において糾弾され、その弾圧機構と法令がすべて抹消されたことは、まさに歴史の必然とはいえ、まことに皮肉な結果であった。なお、不敬罪(旧刑法第二編第一章皇室に対する罪)は、一九四七(昭和二二)年一〇月二六日、現行刑法の改正にあたり削除されている。

※ 恩赦は、明治憲法第一六条において「天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス」と規定され、天皇の大権事項として行われていた。しかし新憲法では、恩赦のすべてが内閣の責任において取扱われ、天皇はただ、これを認証するにとどまることに改正されている。恩赦には大赦・特赦・減刑・復権などの種類があり、大赦については、旧恩赦令第三条に「大赦ハ別段ノ規定アル場合ヲ除クノ外大赦アリタル罪ニ付左ノ効カヲ有ス
一 刑ノ言渡ヲ受ケタル者ニ付テハ其ノ言渡ハ将来ニ向テ効カヲ失フ 二 未タ刑ノ言渡ヲ受ケサル者ニ付テハ公訴権ハ消滅ス」と規定されている。すなわち、刑の言渡しおよび公訴がなかったと同様の結果となり、その当然の効果として前科の関係もなくなる。第二次大本事件の場合は「第三条ノ一」に該当し、第一次大本事件の場合は「第三条ノニ」に該当する。
つぎに昭和二〇年一〇月一七日勅令第五七九号による「大赦令」の関係部分を、参考までに摘記しておこう。
第一条 昭和二十年九月二日前左二掲グル罪ヲ犯シタル者ハ之ヲ赦免ス一 刑法第七十四条及第七十六条ノ罪(皇室・神宮・皇陵に対する不敬) 四 刑法第百五条ノ二及第百五条ノ三ノ罪(いわゆる流言蜚語に関する罪) 二十 治安維持法違反ノ罪 三十六 治安警察法違反ノ罪 三十七 新聞紙法違反ノ罪 三十八 出版法違反ノ罪 四十一 宗教団体法違反ノ罪

 一〇年をたえぬいた信者にとって、大審院の判決、さらに事件の解消はこのうえないよろこびであった。しかしこのよろこびは社会一般へはつたわらなかった。「大阪毎日新聞」「大阪朝日新聞」「京都日日新聞」などの片隅に、「王仁三郎懲役五年─大本教上告棄却」「王仁三郎ら十名赦免」などわずか一〇行内外の記事で報道されたが、終戦直後の混乱のなかで、いくたりの人がその記事に目をとめたことであろうか。そのこともあって昭和一〇年に社会につよくやきつけられた「邪教大本」の印象は、事件の解消後にあっても長くぬぐわれることがなかったのである。
 たとえば、東洋経済新報社刊(昭和34年)の『日本近代史辞典』には「……ふたたび不敬罪と少女強姦罪で検挙され……」と誤記されてある。また福音館書店刊(昭和39年)の『日本人名小事典』には「……第二次弾圧をうけ、治安維持法・不敬罪で起訴された…」とのみ記されてあったり、平凡社刊(昭和34年)の『世界大百科事典』には「……王仁三郎はじめ七幹部は治安維持法違反、不敬罪で無期から二年の懲役となった。大審院で審理中終戦となって解消した」と記されていて、第二審の無罪判決および上告審の判決についてふれたものは皆無といってよい。有力なマスメディアとしての新聞が、社会の公器としての立場をうしなって時勢に追随するとき、最大の被害者はつねに民衆であることをしめしてあまりあるといえよう。
 大本事件がすべて解決したので、事件関係の弁護士たちが亀岡の中矢田農園にあつまり、国家にたいする損害賠償請求訴訟の打合わせをおこなうことにした。この席にのぞんだ聖師の言葉は「こんどの事件は神さまの摂理だ。わしはありかたいと思っている。いまさら過ぎ去ったことをかれこれ言い、当局の不当をならしてみて何になる。賠償をもとめて敗戦後の国民の膏血をしぼるようなことをしてはならぬ」というものであった。その言葉にしたがって、損害賠償についての訴訟はいっさいしないこととした。もしその請求をするとしたら、それは膨大な額になったにちがいない。聖師の一言によって訴訟をとりやめたことをきいた識者たちは、「ほんとうの宗教家ということが始めてわかった」とあらためて感嘆した。一方当局側としては、補償問題にたいする大本側の態度について心痛していたことはいなめない。聖師らが保釈出所した直後の昭和一七年八月一三日には、亀岡署の岩田特高部長が中矢田農園をおとずれ、「第一審、第二審ノ判決及補償問題ニ対スル感想」を聴取している事実(『出口うちまる日記』)にてらしても、その不安の様子がうかがえる。
 被告人として長期勾留された信者たちの大多数は、聖師にならって刑事補償の請求をとりやめた。しかしそのなかで生活に窮した人たちは、聖師にゆるしをうけて昭和二〇年一一月七日、大阪控訴院へ請求した。その手続をした湯浅斎次郎・井上省三・瓜生鑅吉・松田盛政には、それぞれ未決勾留の日数に応じ、昭和二八年五月二六日大阪高等裁判所で補償金下付の決定がなされた。これによると一日の補償金額二〇〇円として算定されている。

〔写真〕
○斎藤悠輔 沼義雄 p665
○吉田常次郎 日下巌 駒田重義 p666
○治安維持法違反の無罪が確定した そのよろこびはまず亀岡へ そして全国へ打電された p669
○上告審の判決書 ワラ半紙にガリ版刷りではあったが千金にも価して権力に最後の鉄槌をくだし大本には教団再建の道をひらいた p670
○ある日の出口日出麿師 p673
○上告審の判決をつたえた新聞 その報道は事件当初にくらべてきわめてちいさくなおも有罪を強調していた p675
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