文献名1大本七十年史 下巻
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文献名33 新生への準備よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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一九四五(昭和二〇)年は日本にとって苦難にみちた年であった。しかしそのなかで大本新生の準備はつづけられていった。元旦には、二代すみ子によって、〝ふけいざいちいほういはん(不敬罪洽維法違反)さらになしこころもちよきけさのかちくり〟〝おうそらにふさかるくもをふきはらいかちくりゆわ(祝)うとり(酉)のがんちょう(元朝)〟と染筆された色紙が信者にあたえられているが、その歌には新生の意気込みが躍動しているといってよい。
大本の新生にあたってまず注目すべきことは、聖師による楽焼の手造りであろう。聖師が精魂をこめたその強烈な意欲と色調の潤沢・明朗・滋味・鮮麗な冴えは、信者に新生の息吹きと情熱をあたえずにはおかなかった。
〈聖師の楽焼〉 楽焼は大正一五年からはじめていたが、楽焼に天国のすがたを色彩で表現したいという意欲は未決勾留中からひそかにいだかれていた。出所後もその希望があったが、なにぶん戦時下でもあり、統制のため材料が手に入らず、陶工が転廃業してゆく時世でもあったので、遠慮されていた。その後、京都清水の窯元佐々木松楽が、亀岡の下矢田に転居していることを知った聖師は、一九四四(昭和一九)年暮の一二月二八日、はじめて松楽の宅をたずね、土をひねって見本をつくり、松楽の窯で下焼きがなされた。あけて昭和二〇年の元旦、その茶わん(赤楽)に鳥の一筆画を染筆し、一月三日には釉薬をぬり、はじめて約六〇個の楽茶盌ができあがった。それ以来聖師の楽焼の作業はほとんど連日のようにつづけられた。
材料としての土は、松楽が京都からすこしずつ背負ってはこび、一月一八日からは、中矢田にある家護池の土をこれにまぜて用いた。京都では割木が月に二、三束しか配給されないころであったが、亀岡で特別に買入れてこれにあてた。絵具は松楽が京都から多量にはこんだ。その後石川県小松の瀬領貞通は、聖師から九谷焼の釉薬をもとめられた。しかし統制下で入手は困難であった。そこで九谷の陶工である西村仁太郎(大本寺井支部長)その他の釉薬をゆずりうけて、亀岡へとどけてきた。また、嵯峨保二らからも多量にとどけられ、これらの釉薬が茶碗の色彩に独特の役割をはたした。
楽焼の作業については、松楽は土ねりと窯たきをし、内海健郎は七〇才をこえていたが、「神ながらたまちはへませ」ととなえつつ陶土の土はたきをなし、山川日出子は絵の具皿を担当した。聖師の仕事は深夜の一二時、一時にもおよぶことがしばしばあったが、終始この三人が奉仕した。二月の一〇日から、楽茶盌のほかに水指・杓立・蓋置・香炉・香合・皿・菓子鉢・干菓子鉢・建水・湯呑・神笛などがつくられている。五月以降は楽焼の作業はすくなくなった。
聖師はこの楽茶盌つくりに精魂を集注した。それだけに窯出しの日、焼きあがった楽茶盌がはこばれてきたときは、得意満面のたいへんなごきげんであった。そしてたまたまその場に来あわせていた者に、おしげもなくあたえられた。聖師の健康を案じて無理をされぬようと、すみ子からしばしば注意がなされていたが聞きいれられなかった。その後しだいにその疲労がみえ、〝ふとふれし土まみれなる師の御手の氷のごとくつめたかりけり〟と山川は回想しているが、「腕がうごかん」といって、手づくり中にも休息されることがおおくなった。保釈出所後の聖師は高血圧症状がつづき、楽焼制作中にも寝こんだことがあったほどである。作業は一九四六(昭和二一)年の三月に、三六回目の窯をもっておわりとなり、焼きあげられたものはじつに三〇〇〇個にたっした。のちにこれが「耀盌」として絶賞されるのである。このように聖師の楽焼は、くるしい時代のなかで自己の全身全霊をうちこんで生みだされたものである。なお、このほかに彫刻の用意もされたが、健康のためその着手がみあわされた。
〈内外の動き〉 一九四五(昭和二〇)年の一月一〇日から二月の二日までを鳥取県の吉岡温泉ですごした二代すみ子は、二月三日(節分)六二才の誕生日をむかえた。中矢田ではその祝として謡や仕舞の会がもよおされた。中野岩太の指導によって、すみ子・直日をはじめ一族総出でにぎわった。このころ元男・直日の家族は竹田に住居し、中矢田ともたえず往来がなされていた。
綾部では町の有力者たちが、聖師夫妻に綾部で居住してほしいと願いでて、居宅の斡旋に奔走した。その結果、綾部植松にある永井所有の屋敷(宅地一六四坪・田二畝八歩)と二階建の家屋(建坪延五九坪)を、三月一五日に出口家で買収することになった。この建物は山水荘と命名され、聖師夫妻はときどき山水荘にかえった。一方亀岡でも、信者の面会がしだいにおおくなり、聖師の居宅(現出口うちまる宅)がせまくなったので、聖師夫妻の居間として屋敷の東北隅に建坪約一四坪の別棟平家建(二室)を増築することとなり、この年四月一六日に完成した。なお、そののち伊佐男・八重野の一家が聖師宅に同居することとなった。
四月一六日には聖師宅の神前において、直日の長女直美と家口栄二と、むめのの長女操と角田光平との二組の結婚式が同時同席でおこなわれ、その祝がなされた。昭和二一年二月一日には栄二の出口家入籍の手続きがとられている。
中矢田農園では出口一族をもって隣組をつくり、伊佐男が組長となり、この年四月一日からは新衛が南古世の町内会長に推された。空襲にたいする防空のそなえ、金属類の徹底的回収、竹藪の開墾、草刈、ヒマの播種、松根油の採取など隣組に課せられた作業があいついだ。在郷軍人会からは木材搬出の指令があり、五月には亀岡町国民義勇隊が結成されていくたびか出動命令がくだり、亀岡駅での積荷の手伝い、幹部訓練などがおこなわれた。婦人会では忠霊塔の清掃、防空訓練、出征軍人の見送り、英霊の出迎えと「銃後のつとめ」に休む間もなかった。また農園としては畑の草とり、麦刈、田植と、出口一族総出の農作業がつづき、米・麦・いも・卵・干草などの供出もあって、多忙をきわめた。
時局がらはやくから食糧増産の研究をすすめていて、一九四二(昭和一七)年ごろから稲作の並木植えをこころみ、昭和一八年からは裏作としての麦の栽培や、蔬菜類の改良にもつとめた。昭和二〇年一〇月には酵素利用の講習会を二回、一一月には馬耕講習会を開催した。
前にのべたように、日本の敗戦によって内務官僚を頂点とした一連の弾圧機構や法令は撤廃された。第二次大本事件は解消し土地返還訴訟も大本に有利に解決した。もはや大本の新生をはばむ隘路はなくなったのである。しかし敗戦後の国民生活は物心ともに混乱をきわめ破滅の寸前にあった。生産は昭和一二年のわずか二八・五%に下落し、戦時利得者・財閥・特権階級などによる物資の隠退蔵・売おしみ・買溜めがこれに拍車をかけて、生活物資の出回りは最悪状態となった。配給とは名ばかりでヤミ物資が横行した。その上政府はぼうだいな軍需補償をはじめ無制限な支出をおこない、終戦時に三〇〇億円だった通貨の流通高が、翌年二月はじめには六〇〇億円をこえた。このため戦時中にすすんでいたインフレは一挙に爆発し、物価は一日一日うなぎのぼりに暴騰した。しかも勤労大衆の賃金はいぜんとして低く、家計は赤字と借金が累積し、売るべきものはすべて売りつくし生活はドン底におちこんだ。
とりわけ米の不足は深刻であった。一人一日二合一勺となっていた主食配給も、ジャガイモ・サツマイモ・豆カス・トウモロコシなど代用品の量がふえ、それも昭和二〇年産米の大凶作・供出の停滞・買溜め・売おしみに政府の無為無策がかさなって、遅配・欠配が慢性化した。都市の「浮浪者」や「三食外食者」のなかで、餓死する者がつぎつぎとあらわれ、「栄養失調」が流行語となったほどである。戦後はじめての正月に配給されたもち米は、一人当り三〇〇グラム以内(小もち六、七個分)というみじめさで、それも遅配・欠配のところがおおかった。米にかぎらず他の生活物資も同様であった。調味料として大切な家庭用食油を一例にとってみても、三人世帯まで一合、五人世帯まで二合、八人世帯まで三合、一〇人世帯まで四合、一一人世帯五合といった状況で、それも現物の入荷がおくれたり、不足したり、月々きまって配給されるのではなくきわめて不安定であった。昭和二〇年における一人当の消費量を昭和一二年とくらべてみると、砂糖は一七・八%、肉類は二二・二%、蔬菜は五八・六%、衣類繊維品は一〇・五%という惨憺たるありさまで、「農家が芋類、野菜等売り不申、尤も拝む頼かで漸くサツマ一貫目位十五円にて買求むる位にして米の配給は全然無し、三度々々サツマだけ、塩は砂ダラケの岩塩少々、味噌も醤油も時々無くなり、其岩塩にて煮物をするのでマヅイ事滅法界に候」(「富沢書簡」昭和20・11・9)とうったえられているように、大衆は日々食をもとめて不安と焦燥にかりたてられていた。
大本再建をめぐる社会的環境はこのようにきわめてきびしかった。だが綾部・亀岡両聖地の土地返還を契機として、大本新生への準備は急速にととのえられていった。
亀岡町から返還された天恩郷の土地は、ひとまず出口元男・むめの・伊佐男・貞四郎・新衛の共同所有の名義としてこれを管理することになり、ついで一〇月一七日には東尾吉三郎を天恩郷の主事に任命し、土井三郎・土居重夫・山川石太郎を係とした。食糧事情の困難なときであるから天恩郷の広場を整理し一定期間を畑地として貸すこととし、同月ニ一日より一般町民一八三件、国民学校・女学校および在住信者等からの申入れを一週間にわたって受付け、地面の割当てをした。綾部でも田畑など貸地の回収について協議がすすめられた。民事事件も解決したので、一〇月下旬聖師ははじめて天恩郷に足をふみ入れた。破壊の跡は一面に雑木・雑草がおいしげり道さえもわからず、高台の大銀杏のみが昔日の面影をのこしているだけであった。ついで十一月下旬には綾部の神苑跡に入り、本宮山にものぼられた。聖師は「全部たたきつぶされたが、木だけは大きくなったなあ」としみじみと語られたが、そのみじかい言葉のなかには、過去一〇年の生々しい感懐と輝かしい未来への決意がひめられていた。そのころ綾部在住信者の手によって「お山」(本宮山)の清掃がおこなわれていたが、聖師がのぼられてからは本格的となった。
敗戦によって新聞の報道内容も一変した。過去の反省にたって、日本の再建・民主化につながるあかるいニュースが報道されるようになり、各新聞社の大本にたいする態度も積極的になった。「大阪新聞」は一〇月三一日付同新聞の一頁全面(当時は二頁)に「『大本教』如何に起ち上るか 宗教自由へ出口一族逞しい意欲」との大見出しをかかげ、「全人類の愛善へ 宗教的世界の建設目ざす」との見出しについで、「好々爺の〝生き神〟さま」のなかで聖師夫妻や伊佐男とのインタビューの記事をのせ、「天恩郷一族の手に」として、返還された旧城址を紹介した。これだけおおがかりなあかるい報道がなされたのは、一〇年ぶりのことであった。
「大阪毎日新聞」は一一月七日の「雑記帖」欄で「晴天白日の身となった元大本教統監出口王仁三郎氏は、いま子息伊佐男氏を生産主任とし、八世帯五十余名といふ大家族の兵站基地である京都亀岡町の中矢田農園で増産に奮闘、最近府農業会主催の多収穫競作で大麦反当り四石六斗九合を挙げて二等に入選、野菜の供出でも常に百パーセントを完遂、亀岡、綾部両町所在敷地の所有権回復も円満解決したので、疎開者たちにただで貸付けるなど、食糧事情の緩和に何かと寄与している。昭和十年暮の弾圧以来雌伏十年、大本教再建の胎動もこのごろになってやっと活溌化しつつある」としるしている。
信者の動きもますます活発となった。神書研修会はひんぱんにおこなわれ、祭式講習会をはじめたところもあった。入信を申し出る者もあらわれ、信者は入信者を中矢田の聖師のもとへ案内した。アンケート(昭和39年)によれば、第二次大本事件中に全国で二七四人の入信者が記録されている。入信者には、たんに大本の予言や警告に感動したというだけでなく、そこには、戦争から敗戦という事態に直面して、人生の真意義・指針を求めようとする切実なねがいがみうけられる。来訪する信者・入信者には聖師の染筆による「大天主太神」「神」「神 天地之太柱」などがあたえられ、ご神体としても下付された。また『霊界物語』第六〇巻にある祝詞をもちうることが、信者にゆるされた。
地方組織の再建も積極的にすすめられた。事件中の同志的結合を中核として縁故知友をたずねたり、また事件前の名簿をたよりにしてつぎつぎと連絡がとられ、機関誌「愛善苑」の購読者数や信者名簿がととのえられていった。だが当局の監視はいぜんとしてつづけられていた。一九四五(昭和二〇)年二月には鳥取県吉岡で、信者ら八人が八日から二週間も留置され、きびしい取調べをうけた。これはこの年の一月に二代すみ子が吉岡に滞在したことにかこつけて、造言蜚語・再建運動として事件にしようとしたものであった。また終戦後の一〇月二日には島根県で藤原勇造が、そのころ流されていた二、三の流言の疑いをかけられて取調べをうけている。しかし当局がいかにあがこうとも、奔流と化した大本の新生の息吹きは、もはや阻止しうるものではなかった。
一一月五日、天恩郷に最初に建設する建物として瑞祥館が決定した。大本再建の構想は着々と途につき、一二月八日には大本事件解決奉告祭をおこなうことが、信者に伝達された。また信仰のともしびとして雑誌「愛善苑」をいよいよ発行することになり、はやくも一一月一一日と二八日には編集会議がひらかれた。
それよりさき一〇月一九日、宗教新聞の中外日報社主真溪涙骨より、伊藤栄蔵を使いとして出口伊佐男にたいし、京都にある中外日報社の印刷所を譲渡したいとの申し出があった。そこで土井三郎を北国新聞社に派遣し、印刷所の経営について同社社長嵯峨保二らの意見を聞いたところ、一応の調査をしたうえで入手すべきであるとの結論をえてかえってきた。そこで、印刷所を申し出のとおり五〇万円で譲りうけることに決定し、資金工作にかかった。東尾は愛知県稲沢町の桜井信太郎をたずね、相談をした結果、桜井はその献金を快諾したので、中外印刷所を譲りうけるむね真渓へ伝達した。一一月一六日、その譲受金として第一回分一五万円を真溪へ渡し、残額は申し出に応じ支払うこととした。
終戦後の日本の新聞界は戦災によって印刷工場をうしない、工場をもたぬ新聞社が続出していた。東京でもまともな印刷工場をもっものは朝日・毎日・読売・東京・日本経済の五社にすぎなかったといわれる。原稿用紙と鉛筆だけで創刊した新興・復刊の小新聞が、これらの大新聞のいずれかに依頼してようやく発刊をつづけ、また大新聞もそのくるしい経営をおぎなうため、いわゆる賃刷りに依存していたという状況であった。紙面は用紙の不足で二頁を維持するのが精一杯であった(『朝日年鑑』)。こうした新聞業界の停滞のなかで、すでに出版活動への準備がすすめられていたのである。なお真渓の希望により、土井三郎は中外日報社事業相談役に嘱託された。
「中外日報」については、一九二四(大正一三)年聖師が入蒙にさいし書きのこした『錦の土産』のなかにも、「中外日報との関係を益々濃厚なるべく努むべし」としるされているほど関心がふかく、はやくから聖師は陰に陽にたえず中外日報社を支援していた。一九三二(昭和七)年ころ、同社にながく保存されていた創刊以来の「中外日報」の合本(唯一のもの)が聖師におくられたが、これは貴重なものであるから私有すべきでないとして、聖師はこれを京都大学付属図書館に寄贈した。
信教自由の実現は、「日本占領の第一目的の一つ」として、「占領軍の使命の中でも顕著な地位」があたえられていた。そのため一一月二八日には、はやくも民間情報教育部に宗教課が設置された。「神道」および「宗教の美名」にかくれた「極端な国家主義且つ軍国主義的組織と運動」にたいするきびしい措置は、日本の民主化を促進するために、また日本の軍国主義を絶滅してアメリカにたいする直接的脅威をとりのぞくうえからも、当然予測されるところであったが、しかし宗教・思想団体のあり方についての占領軍の意向がなお明確でなかった。宗教団体法はすでに撤廃され文部省宗務課や日本宗教会(大日本戦時宗教報国会を改称)は、よるべき根拠をうしなって暗中模索の状態であった。
こうした社会情勢のなかで、大本をどのような形で再建するかはきわめて重要な問題であった。昭和二〇年一一月一八日、まず大本再建の具体的方法についての研究がなされ、一一月二一日と一二月二日に協議をかさねた結果、聖師の指示によって、とりあえず「愛善苑」の名のもとに新発足することとなった。一二月四日には、綾部在住信者がはじめて彰徳殿(旧武徳殿)に招集された。そこで出口伊佐男から土地返還の経過報告と今後の方針についての内示があり、綾部に連絡の機関としての「組」の組織がつくられた。そして翌五日には亀岡においてもはじめて在住信者があつめられ、伊佐男から前日同様の報告や内示があって、亀岡でも「組」をつくった。
聖師は昭和一七年保釈出所以来、数おおくの歌を詠まれたが、国内各地はもとより、外地からもはるばるたずねてくる信者などの氏名を読み込んだ和歌は七五〇〇首をこえ、そのほかに道歌・随想歌などをしるした色紙や短冊で現在本部に保管されているものは、さらに七五〇〇枚にもおよんでいる。
苦節一〇年、一二月八日を目前にして信者の心はよろこびにわきたっていた。綾部では在住信者だちがあつまり、聖師の現地指図によって、鶴山(本宮山)をはじめ神苑内のかたづけや草取り、掃除をおこない、祭典の調度品がととのえられた。こうして大本事件解決奉告祭をむかえる準備が、心もかるく、着々とつづけられていった。
〔写真〕
○不屈の信念とたくましき新生の息吹き……出口すみ子筆 p681
○新生への準備は弾圧直後からひそかにねられ 奔流となってあふれでた 中央は楽焼の制作にいそしむ聖師 亀岡下矢田 p682
○耀盌 不二 胴径四寸四分 高さ三寸二~五分 出口王仁三郎作 p683
○山水荘 綾部での聖師夫妻の住居 植松 p684
○中矢田農園での稲刈り 左から出口伊佐男 八重野 聖師 住ノ江 p685
○やけあとの外食券食堂に行列し雑炊で飢をしのぐ国民大衆 p687
○マスコミは大本の再建に注目しはじめた 全面記事をかかげた大阪新聞 p688
○鍬をとって食糧増産にはげむ聖師 p689
○出口王仁三郎 すみ子夫妻 亀岡中矢田農園の自宅 p691
○出口直日 昭和19年正月 竹田別院 p692
○よろこびに胸はおどり信者は聖地の再建にうちこんだ 綾部の神苑 p693