文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第5章 >4 大本事件の性格とその意義よみ(新仮名遣い)
文献名3第二次大本事件よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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第二次大本事件は一九三五(昭和一〇)年一二月八日におきた。この事件の直接の動機は、満州事変後における大本の外郭団体の動きのなかに、革新諸団体とともに非常時国家を刺激する傾向があるとして、当局が注目しだしたことにはじまる。ことに大本の昭和青年会は、軍部の革新派と連繋があるとみなされていた。昭和神聖会の創立後は、世の立直しと「神聖皇道」をとなえ、現状打破につながるその運動のひろがりとはげしいたかまりとが、政府を極度の不安においやった。そのころの時局の推移に乗じた軍部革新派の動きには、不測の事態をひきおこしかねないと予想されるものがあった。政府は、もしこれらの動きが、大本系の諸団体と合流することになれば、国民大衆を動員して非合法手段にでる可能性もあると憶測し、軍部革新派の行動をおさえ不測の事態を未前に防止するためには、もっとも大衆を動員しうる組織と活動力をもち、かつまた豊富な資金を確保しているとみなされる、大本の諸団体を無力化するにしかずとして、弾圧の準備をすすめるのである。
この間の事情は、その後に世にでた、「真崎教育総監更迭の裏面、原田熊雄男・永田軍務局長等の策動 機関説排撃阻止の一手段」と題する、つぎの「極秘情報※」によってもあきらかである。それにはつぎのようにのべられている。「真崎教育総監更迭の経緯の裏面を解剖すると、端なくも陸相の所謂英断を為さざるべからざりし外部的圧迫の事実が曝露せられるに至った、而も此の事実は極秘に附せられてあるが、目下問題となっている天皇機関説問題と関聯し、頗る注目せらるべき事実である。即ち天皇機関説排撃運動の発展は、現内閣の運命を左右すると共に、元老・重臣ブロックの勢力失墜を招来すること顕著なるものあるを以て、現内閣支持者及右ブロック中の人々は、極秘裡に機関説排撃を阻止せんと策しつつあったが、偶々斎藤内閣時代に出来た朝餐会会合に於て、現軍部の皇道派に弾圧を加うるの極めて有効なるを発見するに至り、右朝餐会のメンバーが中心となって、林陸相を動かしたものである」(『木戸幸一関係文書』)。さらに『木戸幸一関係文書』には、「社会改造断行上奏請願運動」の「運動連繋系統表」「極秘行動団体」およびその資金ルートに関する極秘情報が掲載されていて、そのなかで、「大本教」および「昭和神聖会」が注目されていたことがわかる。こうした当局の憶測をうらづける資料が大本教団にないことは、第一章でのべたとおりであるが、これらのうごきには、権力内部の矛盾・抗争と、その政治情勢が如実にしめされ、かつ、現状打破にたつ民衆運動への権力による弾圧の姿勢がよみとれるのである。
※ この情報は、「政界情報社用箋にタイプ印刷したもので、一九三五(昭和一〇)年七月二〇日に作成され、二三日付で牧野伸顕から木戸幸一内府秘書官長宛送付」(前掲書の注)されたもので、朝餐会については、「目下の中心人物は、原田熊雄男、木戸幸一侯、軍務局長永田鉄山氏等であり、そのメンバーの主たるものは、岩倉道倶男、伊沢多喜男氏、黒田長和男、内務大臣後藤文夫氏等の民政貴族院議員にして、右諸氏は寄々協議を重ねたる結果……」としるされてある。
当局はまず大本の諸団体の調査をはじめ、その活動の本源である宗教教団大本を抜本塞源的に封鎖することを決意した。大本については、第一次大本事件で問題になった資料が未解決のまま当局に現存している。これを手がかりに、アジトをもうけて、大本教典および全文献の調査検討に着手した。そして、かつて当局が問題にした神諭の解説書が『霊界物語』であるとして、『霊界物語』のなかから、世の立替え立直しによる「みろくの世」を目標にした大本の立教精神の断片を抽出し、これに政治的な解釈をほどこして、大本の教えは宗教に仮託した革命的な理論を内包するものと創案した。
すなわち、「皇道大本ノ根本目標トスル所ハみろく神政ノ成就ニシテ……暗ニ現皇統ヲ否認セルノミナラス 王仁三郎ハ素盞嗚尊ノ霊統ヲ承ケ其ノ再現者トシテ我国ヲ統治スヘキモノナリト僣称シ 且ツ立替立直ハ之ニ至ル手段タルト同時ニ 現議会政治ヲ一変シ土地財産ノ私有ヲ禁シ租税制度ヲ廃止スル等 現国家社会ノ政治経済其ノ他ノ機構ヲモ根本的ニ変革シ 惟神ノ神政ヲ樹立実施セントスルモノニシテ 之カ実行ノ衝ニ当ルモノハ素盞嗚尊ノ御霊代タル王仁三郎ナリト説キ 畏クモ我万世一系ノ国体ヲ変革センコトヲ所期セシモノナリ」(検事による『予審請求書』の公訴事実)と断定し、大本が立教以来おこなっていた祭儀や宣教は、すべて内在する陰謀を糊塗するための「表看板、保護色」であるとみなした。そして昭和三年三月三日には、みろく出生の祭典とみせかけて不逞結社を組織し、それ以後、その不逞な目的達成のために活動していると付会したのである。これらは、大本抹消の目的をはたすのにもっとも有効とされた「治安維持法」(国体変革の目的と結社組織を適用の条件とし、死刑と無期懲役を科しうる)を、何とかして大本に適用しようとする当局の苦肉の策であることは多言するまでもない。
抽出した文章辞句の解釈のなかには、神諭の「この高天原で、変性男子に規めさせた規則は、末代用ゐる規則であるから、是までの規則を、毛筋も残らんやうに水晶に致す、世界の大本であるぞよ」(大正5・旧9・5、「瑞祥新聞」昭和9・9)とある宗教用語の「きそく」をとりあげて、これは現在の国家の立法権を否認する思想であるとし、『霊界物語』中の「漫りに人の善悪正邪を裁くは所謂神の権限を冒すものであって、正しき神の御目よりは由々しき大罪人である」(第36巻二五六~七頁)との文章をとりあげては、これは国家の司法権を否認する思想にもとづくものと故意に曲解した。また、国家神道の神観と異なる大本神観をとりあげて不敬となし、宗教上の用語をむりやりに政治的に意味づけて、不逞の思想をもつものであると断じるのである。そして「邪教の刻印を押す最後的の決定権を有するものは政治的勢力である」といい、時の政治的勢力が宗教の正邪を決定するものであるという立場をとった。時の政治的勢力に従属しない宗教は、すべて邪教とする露骨な圧迫がここにもよみとられる。事実大本検挙をきっかけとして、時の政治的勢力に追随しない宗教は、その後つぎつぎに弾圧され、「信教の自由」は恐怖の様相にさらされた。
第二次大本事件の検挙にあたって、当局は武装団体を襲撃するかのような空前の検挙陣を編成した。第二章にものべたように、無抵抗の宗教団体にたいして、大規模な武装警官の動員をこころみたのである。これは不測の事態を仮想したためであるといわれているが、しかし検挙し押収した証拠からは、その仮想を裏付ける何物も発見されなかった。案に相違の当局は、大本弾圧の正当性を強弁するため、大々的に大本の検挙の理由づけを宣伝し、徹底的弾圧を声明した面目上から、「大本邪教」観を国民にうえつけることに狂奔し、ついに拘置した被疑者にたいしては、暴力で屈服せしめるというように権力の濫用をはかった。しかもこの時点で国家を震撼させた二・二六事件がおきだ。二・二六事件の鎮圧によって軍部革新派の反発もおさえられ、当局はいまやどこに遠慮することもなく、思うままに大本を壊滅さすことになる。
全国で三〇〇〇人をこえた検挙者のなかから、幹部六一人が起訴されたが、予審においては、警察・検察当局が作成した聴取書をそのままうのみに採用し、被告人たちの弁明は一切無視する態度をとった。事件は既定の方針にしたがって、治安維持法違反および不敬事件として第一審の裁判に付された。
大本を検挙した当局者すらが、不敬罪は成立するが、治安維持法違反に該当するか否かはわからぬと談話を発表しているように、当初から政府・司法部内においても相当に疑義がいだかれていた。それにもかかわらず、あえて治安維持法の適用にふみきっているのである。宗教団体にたいして同法が適用されたのは大本がはじめてであった。ここにも一貫した政治的意図による大本抹消の方針をみいだすことができよう。その不当性は、司法当局みずからが「法の不備」をみとめて、一九四一(昭和一六)に治安維持法を改正している事実にてらしてもあきらかである(四章一節)。
こうした弾圧の不当性は、検挙と同時に財産の処分を決定し、裁判もはじまらない前に、ふたたび太政官達をもちだしてはやくも教団の破却に着手し、綾部・亀岡の土地の売却処分、建物の破却、私有財産の押収焼却等の不法が、堂々と官憲の名においておこなわれたことにもしめされている。また被疑者・被告人たちが拘禁中に自殺・自殺未遂・暴行による病死などでおおくの犠牲者をだしている事実も、権力の暴行・権力の濫用をあきらかにものがたっている。第二次大本事件が、後年司法制度改善の審議会において、人権蹂躙・権力濫用の代表的な事件としてとりあげられたのも当然である。第二審の判事が、五〇余人の被告の調書を一読して、「誰の調書(予審)も全く同じで……おかしいと思った」と語っているが、画一的に整然と型どおりにつくられている調書を見ても、あきらかに規格的に作成されたことがわかる。しかしながら第一審の公判では、型どおりに、被告人の陳述や弁護人の弁論を聴いたのみで、予審調書をもとに、検挙以来の既定方針によって、出口聖師に無期懲役、全員に有罪の判決を下した。無期懲役は治安維持法の科刑として、死刑とともに最高刑であることはいうまでもない。後年岩田法相が国会(昭和20・12・13)で司法権運用のあやまりをみとめて、「之を如何にして匡してゆくかが刻下の問題である。大局的にみて、司法が行政化したところに大なる影響があったのである。司法の行政化の原因として問題となるのは……検事局の勢力が裁判所を圧倒していた」ことであるとのべているのも参考となる。
検挙から第一審の判決までの検察・司法当局者は、大本を共産主義者と類を同じうする国体変革の不逞結社として、「国賊誅戮」という態度でのぞんでおり、そこには宗教裁判事件としての性格を片鱗もみいだすことができない。
大本にたいする空前の圧迫は、本部ばかりではなかった。地方の大本信者がうけた暴虐な圧迫と、権力による蹂躙にも言語に絶するものがあった。しかし一部のものをのぞいて、大部分の信者は信仰を動揺させなかった。信者たちは事件を「神の経綸」とうけとめ、おおいなる試錬と覚悟した。いっさいの宗教的行動を禁断された信者は、ひそかに心のうちに神の光りをみつめて耐えしのび、一部ではいちはやく再建運動がはじめられている。この力づよい信仰のかがやきこそ、大本をささえる基盤であった。
第二審の控訴院においては、公訴事実にしめされた国体変革の理論は検察当局の独断であることがみとめられ、教典から抽出した宗教用語を政治的に解釈するあやまりが指摘された。形而上の問題を法律で律することの非がさとられるようになり、慎重に宗教を審理する態度にかわっていった。ここではじめて大本事件の審理が宗教裁判の性格をおびるようになる。不逞思想の裏付けとされた、伊勢神宮の大神を無視するがごときものは大本教義中の神観にはないこと、みろくの世の統治者は出口王三郎でないこと、昭和三年三月三日のみろく出生の祭典が国体変革の結社組織でないこと、さらに治安維持法の適用があやまりであることなどもみとめられた。そこで第二審は不敬罪をのこし、治安維持法違反は無罪と判決した。だが当時、太平洋戦争は苛烈な様相を呈して国家の情勢は緊迫し、国家主義・民族主義が高揚されていたため、検察当局をはじめ、マスコミによって大本を不逞団体と印象づけられていた国民の一部からは、つよい不満の声がおこってきた。裁判所もそれをあらかじめ配慮してか、大本教義についての解説を付し、不逞思想はなかったという説明的な内容の判決書をつくっている。
上告審の大審院は、第二審判決の適否を慎重に審理した結果、判決書には、第二審が判示した大本の神観や教義の説明は無用のもので、第一審から問題にされていた大本のいわゆる「表看板、保護色」をとりのぞけば、一切は白紙であると断じ、第二審の判決にあやまりはないとして上告を棄却した。これで治安維持法違反は無罪が確定し、不敬罪のみがのこることとなった。不敬罪はともかく、同一法秩序のもとで、上訴裁判所があいついで治安維持法違反事件を無罪とし、検察側の公訴事実がほうむりされたことは、この事件の性格をしめすものとして注目すべきことである。しかも、ポツダム宣言の受諾にともなう日本の降伏によって、大本を弾圧した法律も権力も自動的になくなり、勅令によって、一九四五(昭和二〇)年一〇月一七日に不敬罪も消滅してしまった。「神の経綸」とうけとめて忍従すること約一〇年におよんだ信者は、まず破壊しつくされた綾部・亀岡における元神苑の土地を回復し、信仰情熱をかたむけて大本新生への活動をはじめた。国家は敗戦の窮乏にあえいでいたが、信者は大本の使命はこれからであるとして、物心両面の奉仕をささげて大本教団をよみがえらせた。
大本検挙以来マスコミによって、大本は不逞不敬の「邪教」と思いこまされていたおおくの国民には、第二審の判決は知らされず、大本にたいする悪印象のみが、国民の脳裡に記憶としてのこされることになった。そのことが、大本のその後の発展におおきな障害となったことは多言するまでもない。しかし日本は敗戦によって、国民多数が夢想だにしなかった国家の立替えをむかえた。かねて大本の予言警告をきかされていた人々の胸には、その警告の正しさがあらたによみがえり、大本信者の教団護持発展に献身したその清純な姿が、あらためて評価されるようになる。
〔写真〕
○権力の爪あと…… 破壊された伊都能売観音座像 亀岡天恩郷 p699
○この事実は消えない…… 手洗鉢すらも見のがさず丹念にくだいた 綾部梅松苑 p701
○出口日出麿筆 昭和15年 p704
○出口すみ子筆 昭和20年 p705