文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第1章 >1 信教自由の実現よみ(新仮名遣い)
文献名3占領下の日本民主化よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ717
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連合国軍は、日本の降伏直後から進駐を開始し、降伏文書が調印された九月二日には、東京に連合国軍総司令部(GHQ)を設置した。連合国軍の日本占領は、実質的には、マッカーサーを最高司令官とするアメリカ軍の単独占領であり、天皇および日本政府の権限は、最高司令官に従属するものとされた。占領軍は軍政による直接支配を避け、日本政府をつうじて、占領の目的たる軍国主義の除去と民主化を実施する形をとった。アメリカは、すでに戦争末期から、戦後の国際政治の主導権をめぐって、ソ連との対立激化を予想していた。そのため、アメリカ軍の日本単独占領は、全世界の民主主義勢力の要求にもとづく日本民主化という目的とともに、極東におけるアメリカの戦略的地歩を確保する目的をもつものであった。こうして、占領軍による日本民主化は、占領当初には、日本における民主主義の前進におおきな成果をもたらしつつも、結果としては、アメリカの国家的利益に従属し、国際情勢の推移にともなうアメリカの世界戦略の変転に、つよく制約される状況をかたちづくった。占領軍をむかえた日本では、敗戦にともなう空白と混乱を収拾するために組織した皇族首班の東久邇内閣によって、旧来の支配体制の温存を画策した。支配層は、日本の「赤化」防止と占領軍への協力を強調することによって、本質的な民主化を阻止できるかもしれないと判断していたのである。
九月二七日、天皇はマッカーサーをGHQに訪問した。各新聞はこのニュースを、マッカーサーと天皇がならんでいる記念写真とともに報道したが、内務大臣は、これは不敬にわたるものとして掲載紙を発禁にしようとした。このため占領軍は、ただちに新聞・通信の自由にたいする一切の制限の除去を指令した。つづいて一〇月四日、占領軍は「政治、信教並に民権の自由にたいする制限の除去」を指令し、治安維持法・宗教団体法の廃止、政治犯等の釈放、特高警察の廃止、天皇批判の自由を実現した。これは、軍国主義のもとで日本国民にくわえられてきた、ファッショ的な弾圧の体制を一掃する措置であった。この指令は、支配層がいだいていた占領政策にたいするあまい期待をうちくだいた。
東久邇内閣は総辞職し、一〇月九日には幣原内閣が成立した。同月一一日には、占領軍は、幣原内閣にたいして、婦人解放、労働者の団結権の賦与、教育の自由主義化、圧制的・専横的諸制度の廃止、経済機構の民主化を内容とする、いわゆる五大改革を指令した。一九四六(昭和二一)年にはいると、民主化の指令は、いよいよ具体化してきた。軍国主義者の公職追放、極端な国家主義団体の解散、戦争犯罪人の逮捕と追訴がおこなわれ、日本の民主化におおきな意義をもつ農地改革と財閥解体が開始された。敗戦直後の国民は、破局的な様相を呈している生活の荒廃のなかで、嵐のような民主化の進行をむかえた。戦災によって生産設備はほとんど麻痺し、敗戦の年の米の収穫は、三九一四万石余のひどい凶作であったうえに、供出は予定量の二三%にすぎなかった。都市では食糧不足がいよいよ深刻化した。「現金五〇〇円」の生活下で、米一升の闇値が一〇〇~二〇〇円と暴騰し、配給は遅配・欠配が慢性化した。配給量は一人一日あたり一二〇〇カロリーにまで低下したが、これは、成人の最低必要量の二分の一であった。冬になると、そのためほとんどの国民が栄養失調にあえいだ。東京では連日餓死者が続出した。敗戦によって海外にとりのこされた将兵・民間人は七三〇万人余におよんだが、外地からの引揚げによって食糧事情はますます悪化した。
だが、混乱と虚脱のなかにも、あたらしい民主主義日本のあゆみははじまっていた。占領軍の民主化指令によって、ながい天皇制支配から解放された国民の間では、革新政党が組織され、労働組合がつぎつぎに結成された。敗戦翌年の一月には労働組合員の数は、はやくも約九〇万人にたっしている。労働組合を中心に結集された民主勢力は、物価の急上昇、食糧不足を打開するため、賃金引上げと食糧危機打開の闘争を展開した。そうした情勢のなかに、民主主義にたいする啓蒙活動や進歩的な文化運動がそだっていった。
しかし、労働組合の結成を奨励し、民主化の措置をつぎつぎに命令した占領軍は、同年四月の戦後第一回の総選挙、復活したメーデー、食糧危機突破の人民大会等にしめされた民主勢力の急激な発展にたいして、民主勢力の胎頭を抑制する態度をとりはじめた。一九四七(昭和二二)年一月、占領軍は二・一スト禁止を命令して、にわかに労働運動の抑圧と反共の姿勢を露骨化した。同年三月には、トルーマン米大統領は、共産主義封じこめ政策を表明して、米ソの対立は緊張の度をくわえた。こうして、占領軍によってあたえられた日本の民主化は、占領体制の維持のために、上から進行をおしとどめられ、支配層をもりたててゆく占領政策がしだいにめだってきた。
〔写真〕
○平和がよみがたった この惨劇をくりかえしてはならない 原爆ドーム p715
○美しかった日本の国土もやけただれ戦争の傷あとがなまなましかった p716
○昭和20年12月8日 ついに大本は立ちあがった 綾部彰徳殿での大本事件解決奉告祭 p717
○日本占領管理機構 事実はアメリカの単独占領であった p718
○闇市の横行 しかし民衆の生活手段でもあった p719
○遅配 欠配がつづき人々は食をもとめて農村へ殺到した p720