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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第1章 >2 大本事件解決報告祭よみ(新仮名遣い)
文献名3新生のまつりよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ727 目次メモ
OBC B195402c7121
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本文  第二次大本事件のはじまった一九三五(昭和一〇)年から、満一〇年目の一九四五(昭和二〇)年一二月八日、綾部において大本事件解決奉告祭が厳粛にとりおこなわれた。大本はここに「愛善苑」としてあらたな出発をすることになる。
 徹底的弾圧によって地上から抹殺されたかにみえた大本が、ふたたびよみがえろうとは、政府も一般社会も予想しえなかったところである。だが、世人の思惑をよそに、大本は敗戦直後における国内の混乱のさなかに、力づよく、かつ着実にたちあがっていった。
 食糧は極度に欠乏し、国民は命をつなぐために、木の実も、草や木の皮も、食べられるものはことごとく刈りとるというありさまであった。都会の民衆は食をもとめて農山村に殺到した。しかし鉄道の輸送力は麻痺しており、食をもとめて右往左往するおおくの民衆は、窓ガラスのない列車の窓から乗降するしまつであって、車内は身じろぎもできなかった。割当切符制によっても、殺到する乗客を緩和することができず、兵隊服や国民服やモンペ姿の大衆は、垢とほこりにまみれて寒々とした駅構内にうづくまり、つぎの列車を待つ情況であった。
 このような世上混迷のなかに、大本事件解決奉告祭が執行された。まだ当時は全国的な組織はなかったので、正式な通達が信徒にたいしてなされたわけではなかった。ただ、綾部・亀岡の信徒や面会におとずれてきた者から伝聞し、私信によってつたえられたのが、全国の信徒のあいだにひろまったのである。
 一〇年間のながきにわたって、「国賊」の汚名をうけ、当局の圧迫や冷酷な社会の目にたえて、心ひそかに信仰の火をもやしつづけてきた信徒は、困難な情況をものともせず、綾部へ綾部へと参集した。弾圧によって破却された綾部に、それらの信徒をうけいれる設備が、もとよりあるはずはない。
 聖場は一変して昔日の面影はなく、本宮山と、みおぼえのある神木の榎と神苑入口付近の柳だけが、むなしくのこっているにすぎなかった。しかし信徒は、めぐりきた春にあうようなよろこびにあふれ、聖師夫妻が起居する山水荘へと殺到した。
 山水荘の座敷には、鶴の掛軸がかけられていた。それを背に、面会する信徒一人々々に、聖師からこころをこめて染筆された短冊がわたされた。けれども面会者がおおく、とてもそれではおっつかなくなったので、名刺型の厚紙に拇印を捺してわたされることになった。信徒たちは、「よう来なはったなあ、結構やなあ」とへだてなくかたりかけられるすみ子夫人の、そこぬけにあかるい笑顔にむかえられた。信徒はひさしぶりの面会と、誰に気がねすることなくお祭りのできる感激にひたった。顔はよろこびにかがやき、肩をたたいてあいさつをかわし、相互の無事を祝福しあった。あつまった信徒は、とおく北海道・九州・四国などにおよび、その数は一五〇〇人にもたっした。
 事件解決奉告祭の式場には彰徳殿があてられた。彰徳殿は、綾部町が第二次大本事件後、あらたに武徳殿としてつくり使用していた建物で、事件解決のさいに大本へ寄付されたものである。だがそれは間口約二二メートル、奥行約二二メートルの広間だけで、とうてい参拝者を収容しきれなかった。殿内には聖師夫妻に面会をおえた信徒がぞくぞくとつめがけ、綾部・亀岡在住の信徒は遠来の信徒に席をゆずって、殿外に出て周辺をうずめた。
 祭典は午後一時からはじまった。正面には大神と祖霊のひもろぎがたてられ、その神前に神饌がそなえられた。祭服をつけた斎主も祭員もいない、実に簡素な祭りであった。聖師夫妻の先達で参拝者一同による天津祝詞が斉唱された。この一〇年間声たかく祝詞をとなえることのできなかった信徒たちの胸は、ふかい感動にみちみちていた。聖師夫妻と各代表の玉串奉奠があって、一同は、その場から本宮山にむかって礼拝した。ひきつづき事件関係の物故者や祖霊の慰霊祭が、すみ子夫人の先達でおこなわれた。事件で起訴された者で、今日のよろこびにあうことができなかった物故者には、高木鉄男・岩田久太郎・湯川貫一・御田村龍吉・栗原七蔵・河津雄次郎・藤津進・山県猛彦・木下愛隣・森国幹造・米倉範治・吉野光俊・宮川剛・国分周平・伊藤伊助らがあった。起訴はされなかったが、事件の犠牲となり帰幽した者も多数あった。それらの人々の慰霊祭もあわせておこなわれ、とどこおりなく祭典を終了した。なお聖師によって、保釈出所後ただちに、中矢田農園の自宅の神床に、これらの物故者がまつられていたことを付記しておこう。
 つづいて挨拶がおこなわれた。まず出口聖師は、立って参拝者に一礼し、すみ子夫人からは「どなたもご遠方ご苦労さまでござゐます。お話は伊佐男さんにして貰ひます。ただおめでたいと言ふにとどめておきます」と、まことにかんたんなあいさつであった。だがこのあいさつには言いつくされない無限の感慨がこめられており、信徒の心にはつよくひびくものがあった。出口伊佐男は、聖師夫妻にかわってあいさつにたち、事件を回顧し反省するとともに、つぎのように、今後の大本の方針を表明した。

……先づ第一に必要なことは、形を作ることよりも魂を作り上げるといふことであります。……過去の事件にたいする黒白は、既に明かになりました。しかし私どもは、当時の弾圧にたいし当局を恨む気持は毛頭無いのであります。時の勢であつたでありませう。私どもはこれを天の試錬、神様の試錬として、どうしても経なければならなかった道であると考へ……。我々は他を責めるよりも深く自らを省りみなければならぬ。神様は深い深い御心の下に、私どもに実に尊い試錬を与へて下さったのであります。……近く亀岡を根拠として、愛善苑といふ世界平和を目標とする人類愛善運動を起されることになったのであります。愛善苑は、大正十四年六月に創立せられました人類愛善運動の趣旨を、そのまま実地におこなって行かうといふのであります。今日の国内の情勢、世界の情勢から見まして、この運動は最も切実に要求せられてゐるものであります。終戦後の国内情勢はまことに悲惨でありまして、一切の問題を互に敵視し闘争を以て解決しようとしてゐるのであります。……私どもは一切の問題を、愛善の心を以て解決して行き度いと思ふのであります。……すべての宗教は元は一つであり、万教は同根である、これが真理であります。この真理に目覚めてお互の垣を取外し、互に手を握り合って平和日本の実現のために、平和世界の建設のために邁進しよう、これか我々の信念であり、主張なのであります。……この運動は、先づ我々の心の中に愛善の世界を開き、又我々の家庭を愛善の家とし、我々の郷土日本の国を、更に全世界を愛善の苑と化するといふ大理想の下に進ましていただき度いのであります。これが深い神様の思召だと存じまして、皆様方にもそのお気持で、どうか今後の愛善苑の運動につき全面的なお力添へ、御活動をお願ひ致し度いと思ふのであります(「愛善苑」昭和21・4)。

 それより一同は鶴山(本宮山)にのぼり、無惨に打ちくだかれてあとかたもない山上で、弾圧の嵐の跡をしのんだ。また本宮山につもっていた落ち葉を掃きあつめて焼かれた灰が、記念として参拝者にすこしずつわたされた。聖師によって「わしは花咲爺だ」と言われてもいたので、この灰をまいて、冬枯れにもにた敗戦直後の地上に愛善の花を咲かせよとの意味があると、信徒たちにはうけとられていた。祭典終了後、一〇〇〇人をこえる地方からの参拝者の、かえりの汽車のことが案ぜられたが、さいわい国鉄の福知山管理部が好意的に配慮し、神苑に駅員を出張させ切符の手配をしたので、参拝者はひどい混雑もなく、よろこびを胸にひめて帰路につくことができた。なお、終戦直後の混乱と極度の物資欠乏のなかで、祭典の準備をすすめ、地方からの参拝者の宿泊をひきうけた地元信徒の苦労はなみたいていではなかった。こうして、とどこおりなく奉告祭はおえられたが、事件解決前後からの綾部町有志者や町民の、大本によせる好意と協力は多大なものがあったので、祭典の餅のおさがりは、綾部町内会全部にくばられた。またこの日、綾部の神苑を梅松苑、聖師夫妻の起居する臨川荘を山水荘、もとの武徳殿を彰徳殿と命名されたことが一般に発表された。
 一二月八日は、大本信徒にとっては、まことにいたましい思いでの記念の日であったが、この奉告祭以後は、希望にみちあふれた大本新生の記念日とされることになった。

〔写真〕
○あの顔もこの顔もただなつかしさにあふれ肩をたたきあってこの日をよろこびあった 綾部 彰徳殿表玄関前 p727
○奉告祭式場にむかわれる出口王仁三郎聖師 綾部 山水荘玄関 p728
○本宮山上にたたずまれる出口すみ子夫人 p729
○すぎし荊棘の十年…ジンと胸にしみる感激…だれはばかることなく声たからかに祝詞をあげ玉串かささげられた 綾部彰徳殿での奉告祭と慰霊祭 p730
○部外の協力も大きかった p731
○しっかりと聖場の土をふみしめ敬虔ないのりがささげられた 右より出口聖師 すみ子夫人 伊佐男……とりかたずけられた山上に人の波はあふれ……おそなえの餅とみかんをいただく参拝者たち 綾部本宮山上 p732-733
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