文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第3章 >1 昇天よみ(新仮名遣い)
文献名3招魂祭と通夜よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2020-05-31 16:38:40
ページ799
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聖師昇天のしらせは、全国の信徒に深刻な衝撃をあたえた。大本事件によって一〇年間の苦難をしのぎ、まちにまっていた聖師の指導で敗戦国家の多難をのりきり、みろくの世完成へ前進する大きな期待と希望をいだいていた信徒にとっては、まったく晴天の霹靂であった。聖師を唯一の光明と信じ、みろくの救世主神とあおいでいた信徒は、一瞬に絶望の暗黒にたたきこまれたといってよい。信徒のなかには、聖師はかならず復活しよみがえられると信ずるものもすくなくなかった。昇天は真か偽か、自分の目でたしかめなくてはならぬと、悲壮な面もちで各地から天恩郷にかけつけだ。よべどもこたえられぬ慈顔の聖師に面会した信徒は、万感胸にせまり、あるいは苑内をうつろにあるき、あるいはたむろし、手をとりあってむせび哭いた。天を拝し、地に祈っても、ついに復活の奇蹟はおこらなかった。
一方、葬祭に関する諸準備がすすめられたが、極度に物資が窮乏していたときでもあったので、霊前をかざる生花はなく、銘旗や紅白の布地すら、米と交換しなくては手にはいらなかった。やっと京都から買いあつめてきた紅白の色紙で、真栄木の垂手をつくるのかせきのやまだった。偉大なりし聖師の霊前をかざるには、あまりにもつつましいものであった。
一月二〇日、午後七時から瑞祥館で招魂の祭がおこなわれた。すみ子夫人、直日夫人、委員長、出口家一同、信徒、綾部・亀岡町の有志知己が数百人参列したが、館内にはいれないため、庭にうずくまり、ちらつく雪をいとわずにぬかずいた。出口栄二斎主によって招魂の儀がおこなわれて、すみ子夫人の先達でのりとが斉唱されたあと、野村芳雄の指揮で、天恩郷奉仕の青年男女三〇人が、あふれでる涙をぬぐおうともせず愛善歌を合唱した。庭外のくらやみでは、すすりなく声がいつまでもつづいた。
瑞霊真如聖師の神霊のひもろぎ松は、月の輪台に実生していた若松の幹である。月の輪台築造のときじゃまになるから、掘りおこそうとしたとき、聖師はそのままにしておけと大切にいたわられた松であった。
招魂祭をおわって委員長は、つぎのようなあいさつをした。
聖師さまのご生涯は終始、ご霊肉ともにご忍苦の連続でありました。まことに私達のため、ちくらの置戸を背負われた贖主としてのご一生であったのであります。示さるべき大道、み教えは、完全に説示せられ、愛善苑の基礎もいよいよ磐石となったのをご覧になって、安らかにご昇天なされたのであります。すなわち現界における神業の基礎を全くせられ、ここに、神業の躍進、成就のためご復活なされたのであります。聖師さまは信仰ある人々の魂の中に生き生きと甦って下さっています。
われわれは今こそ開祖さま、聖師さまの教統を厳粛に承け継がれた二代苑主を中心として、いよいよ重大なる時代を自覚し、速かに愛善世界実現のために舎身活躍させていただかねばなりません。
ついで一月二一日夜八時から納棺の儀がおこなわれた。まず直日夫人によって、遺髪がいただかれ、すみ子夫人・委員長・近親者で全身を浄められ、神代すがたの衣装をつけて、勾玉の首飾りがかけられた。そして、三・〇センチ(一寸)の厚みでつくられた長さ一九七センチ(六・五尺)、幅七五・八センチ(二・五尺)、深さ六〇・六センチ(二尺)の桧材の柩に遺体をおさめた。この神代すがたの衣装は、昭和一八年、聖師が保釈出所後まもなく自身でデザインを考案されていたものであり、さや型白羽二重を南部諦三が献納し、それを藪内育子に調製させられ、ひそかに用意されていたものであった。
一月一九日から二九日までの一〇日間、瑞祥館で毎夜お通夜がおこなわれた。全国からはせつけた信徒たちは、せめて一夜でも聖師のみそばにつめることによって、惜慕のまことをささげんものと、毎夜瑞祥館ははいりきれないほどであった。『霊界物語』を交代で拝読したり、讃美歌や愛善歌を奉唱したり、あるいは追憶談などで、しめりがちな雰囲気がほぐれていった。
霊柩の蓋は覆うことなく、信徒は自由におわかれすることができた。聖師の生前そのままの面貌はうつくしく、生けるがごとく、幾日を経過してもかわるところがなかった。むしろ日を経るほどに、いつそう鮮花色をくわえ、神々しくすら感じられた。
霊前に哭きくずれ、またぼう然と自失している信徒にたいしては、すみ子夫人から「聖師さんがいなくなっても、わしがいるじゃないか」と迫力のある態度で激励され、また時には厳然として、「これからはわしがやる、何も心配はない」と胸をたたいて、磐石のごとき威容が信徒にしめされた。聖師昇天の直後から、すみ子夫人の面貌は聖師の相貌にちかづき、その態度はまことに堂々たるものであった。通夜のある時などは、あまり一同がしめりっぽくなっていたので、「めでた、めでたの若松さまよ」とみずからうたい、手拍子をとっておどり、「おむこさんが亡くなったのに、嫁さんが踊っていたら、よい狂人だと言われるだろうなあ」と大笑いして、絶望する信徒の心を転換させようとつとめられた。
第二次大本事件による弾圧のときは、外部からの圧迫であったために、信仰的な内面の動揺はあまりなかった。しかし聖師の昇天は、信徒にとって聖師は心のよりどころであり、唯一の光明としてあおがれていただけに、その信仰的な不安にはおおいがたいものがあった。ところが、聖師昇天の日から、すみ子夫人の威容には、聖師の心がうつり、霊的な迫力と愛情こもった指導力とが、面会する信徒の心をあらたにゆり動かした。たしかに聖師は、すみ子夫人とともにあって一体化されたとの印象を信徒のおおくがあたえられた。そして、みろく救世の神業は、微塵のゆるぎもなくうけ継がれてゆくものとの確信をえていった。こうして、大本における信仰的危機は克服されていったのである。一〇日間にわたる通夜は、あらたな力を生みだすうえでも、おおきな意義があった。
この年正月の、すみ子夫人の初夢には、「お月様が聖師さまのお部屋からあがられ、月の輪台にすっとお入りになった」という霊夢があったという。そのときからひそかに、「ご昇天近し」と覚悟されていたと、のちに信徒にもらされているが、すでにそのころから精神的な準備ができあがっていたのでもあろう。すみ子夫人によって、〝懐かしくしたわしくとも如何にせんへだてある身の吾身なりせば〟と詠まれているように、聖師をしたわれることまたひとしおなものがあったであろう。しかし聖師は世界の救世主であるとするひろい視野から、その継承がみごとな宗教者の態度によってうけつがれてゆくのである。
〔写真〕
○招魂祭 1月20日 昇天の報にせっした信徒はとるものもとりあえずかけつけ霊前にぬかずいた p801
○惜慕の情おさえがたく…… 天恩郷 瑞祥館 p802
○喪主 出口すみ子夫人 p803