文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第3章 >2 葬儀よみ(新仮名遣い)
文献名3埋葬祭よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ811
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綾部の天王平一ノ瀬にあった開祖の奥都城は、第二次大本事件によってとりこわされ、開祖の霊柩は共同墓地にうつされていた(六編二章)。聖師の奥都城としては、開祖の奥都城跡にのこっていた根石を基点にしてその左側に、もとの開祖の奥都城と同型のものをつくることになった。たて・よこともに二間(約三・六メートル)の正方形として、その周囲は五・六七尺(一・七メートル)の高さに玉石をつんだものである。聖師昇天の翌日、一月二〇日に地鎮祭を執行し、ただぢに築造に着手した。外まわりの石は、開祖の奥都城が破壊されたとき、その前方の池にほうりこまれていたものを使用した。三丹地方をはじめ各地の信徒の真剣な奉仕によって、二七日には霊柩安置のためのコンクリート作業ができた。コンクリートのカラト(わく)の内側に、一寸(三・〇センチ)厚みの杉の木の外柩をつくり、カラトと外柩とのあいだに木炭をつめ、その底には切石をしいて水はけをよくした。外柩は地上よりも高くつくられた。そのころ降雪の日や氷雨の日がつづいて赤土はぬかるみ、作業はまことに困難をきわめたが、それらの作業も二九日にはおわり、さらに前庭や坂道の整備も二月一日に終了した。天王平の境域には、事件のとき伐りのこされた松の木のほかは、おおく実生の松がはえていたので、あらたな苗木は植えなかった。
いよいよ二月二日は埋葬祭の日である。この日全国からあつまった信徒、また、北海道の根室や釧路、壱岐・対馬などからかけつけて遷柩の列にくわわり、ひきつづき綾部に滞在していた信徒たちで、神苑は早朝からざわめいた。雨もようの雲はふかく、時おり小雨が人々の胸にしみいった。信徒らの追慕の情は日をおってさらにましていった。やりきれない心をおしかくすように、暗然とした足どりで彰徳殿にあつまった参列者の大多数は殿外に立った。
午前九時、彰徳殿において八雲琴の音にはじまる最後の葬祭の儀がおこなわれた。斎主出口伊佐男の「しぬびのことば」は、殿内外の参列者の涙をあらたにし、すみ子夫人・直日夫人・祭主・親族・各代表者による玉串が捧呈され、すみ子夫人の先達で神言が斉唱された。おわって天王平へと行列がならぶ。地方からもちよってきた生花・松の枝に紅白の垂手をとりつけた真栄木は一六〇組にもなり、霊柩の両側には親族・役員がつきそい、白衣のすみ子夫人は更生車でそのあとにしたがい、直日夫人・出口家一族がつづき、信徒・一般会葬者が小雨にうたれてこれにしたがった。延々とした行列は上町・本町・田町・上野をとおって天王平にむかう。綾部町内をとおったのは、町民の懇請によったもので、町内には弔旗を立て、丹波が生んだ巨人をおくるとして、敬虔に人垣がつくられていた。天王平に、「愛善苑主出口王仁三郎聖師之御柩」の銘旗が着いたころ、行列の最後尾は上野にかかったほどであり、会葬者の数も三〇〇〇人におよんだ。
天王平では八雲琴の音がおこって、埋葬祭がとりおこなわれ、霊柩は準備されていた奥都城に安置された。すみ子夫人・直日夫人・遺族・親族によって土のかけぞめがあり、それより係員の手で奥都城の築造が深更におよんだ。その夜から墓前にすわりこみ、通夜するものがたえなかった。
天王平にかなしみの二枚がしずかにあけた。二月三日午前九時から、うつくしくもりあげられた上の香もかぐわしい奥都城で、すみ子夫人・直日夫人たちによって墓前祭がおこなわれた。ついで、第二次大本事件以来共同墓地のかたわらにうつされていた開祖の墓前に参拝がなされた。綾部在住の信徒や各地からきた信徒のおおくは、雪の日も雨の日も、寒風にさらされ、凍てつく大地にむしろを敷いて、実に二週間にわたる墓前の通夜をおこなった。聖師にささげる信徒のまごころが、このような墓前の通夜となったことは、うつくしい信仰的至情の流露として、ながく大本史上にのこるであろう。
一方、聖師が昇天された日から霊前にともしつづけられた神火は、綾部へ遷柩のとき捧持されて彰徳殿にうつされ、さらに炬火によって天王平にともされた。葬祭のすべてがおわると、炬火は彰徳殿にもちかえられ、その神火をかまどの火にうつして、すみ子夫人の儀式の食膳のものをつくり、開祖昇天のとき、聖師が道統をひきつがれた行事にならって、「ひつぎの神事」がおこなわれた。
昭和二三年といえば、日本の経済界は終戦後の混乱からまだ立ちなおらず、生活必需物資はすべて統制され、物資の入手ははなはだ困難であった。交通・通信機関もまだ立ちなおっていなかった。綾部の神苑にある建物は彰徳殿と祖霊社だけであり、遠来の信徒をうけいれるための食事や宿泊の設備もなかった。しかし綾部では、町当局や町内官公庁の好意で、食糧・調味料・酒や燃料などの調達に協力がなされ、米や木炭などは、三丹や島根地方の信徒がもちよった。また福知山鉄道管理局や綾部駅では、乗車券の取扱いに便宜をはかった。そして地元の信徒は自宅を開放して遠来の信徒をもてなした。このようにして、綾部での葬儀や行事は、とどこおりなくおわりをつげたのである。葬祭に関しての収入は、玉串や献金をあわせて六五万三四〇〇円、支出は調度品などのほか、奥都城工事(六万余円)をもふくめて五三万四〇〇〇円であった。葬儀の後は、毎十日祭・五十日祭・百日祭などが綾部と亀岡でとりおこなわれたが、昭和二三年五月一三日には二代苑主の指示によって、聖師史実編纂会(会長出口伊佐男、部長大国以都雄・出口光平)が組織され、広大な聖師の行跡を記録にとどめることになった。作業は着実にすすめられていったが、とりあえず『出口王仁三郎聖師記念写真集』三冊(葬儀編・新生編・大本編)が刊行された。
〔写真〕
○霊柩安着奉告祭 1月30日 60キロの行程をおえて午後5時 霊柩は彰徳殿に安置された 綾部 p811
○奥都城は雪と氷雨のなか夜を日についで築造された 綾部天王平 p812
○本葬祭 2月2日 彰徳殿 霊柩は3000の人々にまもられて天王平へ… p813
○埋葬祭 2月2日 天王平一ノ瀬 p814
○瑞霊は永遠に神鎮まります…… わかれをおしまれる二代苑主 埋葬の儀 p814
○聖師の奥都城に敬虔な祈りをささげ奉仕への誓いをあらたにした p815