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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第4章 >2 教団体制の確立よみ(新仮名遣い)
文献名3造営と祭事よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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ページ841 目次メモ
OBC B195402c7422
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本文 〈造営〉 一方、聖地の整備もすすんだ。亀岡天恩郷では一九四八(昭和二三)年八月一五日、月宮山・月宮宝座の築造計画が発表され、翌一六日には月宮宝座起工式がおこなわれた。これは「綾部は日の大神様の聖地で、亀岡は月の大神様の聖地であるから、月に型どった円形の聖壇を設ける」との聖師の意志にそって造築にかかったものである。
 一一月から作業をはじめ、第二次大本事件により破壊された光照殿跡(現在朝陽館)のとりかたづけ、国見峠の道路づくり、瑞祥館裏の三六メートル(二〇間)におよぶ石垣積み、もと月宮殿北側傾斜面の石垣積み、明光殿跡(現在教碑)のとりかたづけと丁事は順調にすすめられ、翌一九四九(昭和二四)年六月六日には、高さ八尺(二・四メートル)、直径一〇間(一八メートル)余の月宮宝座の巨石(国魂石)積みがおわった。そして一一月八日に二〇〇○貫もの天拝石が宝座の中央にすえられ、同月一〇日には月宮殿あとに月宮宝座が完成し、一二月八日の新生祭にその完成式を執行した。ここは天恩郷における至聖所であって、祭典と礼拝がおこなわれる場所となり、従来月の輪台前でおこなわれていた瑞生大祭も、この年から月宮宝座前でおこなわれることになった。月宮宝座の完成は、二代苑主によって、〝撞の神瑞霊真如瑞みたま守りますなり昇り降りて〟〝闇の世も何時まで続くものならず月いでませよ月宮宝座に〟と詠まれている。月宮宝座の国魂石には、第二次大本事件によって破壊された四八宝座の国魂石が、天拝石には、伊都能売観音座像の手前下(現在の大安石の左)に安置されていた扁平な巨石があてられた。
 綾部梅松苑では、一九四八(昭和二三)年の一月一日に、金龍海再掘の起工式がおこなわれた。金龍海・元屋敷のあった平地一帯は何鹿郡設のグランドに整地されていたが、わずかに榎(みろく殿前)や柳(みろく殿登り囗)などが、昔の面影をのこしているだけであった。まず沓島・冠島が再築されて、同年一一月二日には沓島神社・冠島神社の鎮祭がおこなわれた。一九五〇(昭和二五)年二月には大八洲(神島)が完成した。大八洲神社は翌昭和二六年四月八日に着工し、一〇月三〇日に鎮座祭がおこなわれた。この日金龍海拡張工事も完成し、大八洲神社参拝の竜宮丸が進水している。また塩釜神社ももとの場所に再建され、昭和二五年八月一四日には鉱泉が再掘された。
 金龍海工事と並行して元屋敷の整備もすすめられ、昭和二三年九月には銀明水、昭和二六年七月一八日には金明水が再掘された。なお再掘のさいには第二次大本事件当時、この井戸に官憲の手によって投げこまれた聖師作の楽焼や神具などが出土した。八月一四日には初水を汲み、以後神前の給仕にもちいられている。
 天王平にある開祖奥都城跡の清掃工事は、昭和二二年六月一〇日よりはじまったが、途中聖師の昇天にあって、二月に聖師の奥都城が築造された。ついで開祖の奥都城をもとの位置に築造して、第二次大本事件中強制的に共同墓地に移されていた開祖の霊柩を、一三年ぶりの昭和二三年三月二二日に遷座した。一〇月には社務所がつくられ、翌昭和二四年の八月には天王平に斎納社を新築して、信徒帰幽者の新霊祭祀および納骨をとりあつかうことになった。そして昭和二五年四月からは天王平の総本苑共同墓地が分譲されている。
 本宮山では一九五一(昭和二六)年九月八日に神声碑の再建がはじまり、高さ三・六メートル(二間)、幅一・八(一間)、厚さ三〇センチ(一尺)の仙台石に、開祖の筆になる「うぶこえ」「三ぜんせかい一どにひら九うめのはなもとのかみよにたてかえたてなをすぞよ すみせんざんにこしをかけうしとらのこんじんまもるぞよ」が彫られ、昭和二七年二月四日に建碑式がおこなわれ、山上に神威をそえた。教碑の再建も同時にすすめられ、その後建碑式がおこなわれた。
 また出口聖師誕生の地である穴太の清掃整備も、昭和二五年八月からはじめられ、その年の瑞生祭には、円型に石垣をめぐらして盛土をし、その中心に小松を植えた神籬が完成した。この神域を瑞泉苑、穴太の里を瑞泉郷とよぶこととし、同年八月二五日には瑞泉郷別院が新設され、翌昭和二六年九月には外廓の石垣工事も出来上がった。
 教勢の発展にともない両聖地とも施設の拡張が必要となり、亀岡天恩郷では一九五〇(昭和二五)年三月に信徒集会所・宿舎・食堂の施設をそなえた東光館(木造二階建、延二六三・九坪)建設の工事をおこし、八月二五日に完成式をおこなった。そして天恩郷大道場を東光館にうつし、旧大道場は西光館と命名されて、両館は渡り廊下でつながれることになった。当時は、建築資材の入手もきわめて困難であったために、東光館は西光館と同様に、他の建物を買収して移築したものである。昭和二六年八月には浴場の洗心亭が完成した。
 綾部梅松苑では、昭和二三年九月一七日に祖霊社が要荘から彰徳殿内にうつされ、一〇月には同殿前に参拝者用の食堂・売店が新築された。昭和二四年には参拝者の増加によって、彰徳殿を増築し、ついで、松香館(直日夫人の命名による)建設を昭和二五年の五月からはじめて、翌昭和二六年四月八日に完成式をおこなった。松香館は延二五三坪の木造二階建で、信徒の集会所・宿舎・食堂などにあてられ、また彰徳殿にあった事務所もここにうつされた。
 このように両聖地とも参拝者・修行者の受入体制がととのえられていったが、「私は昨年(昭和二五年)の節分ごろから……大本はこれから世界的になってゆくし、人もドンドンふえてゆくし、節分のお祭など、沢山の参拝の人があの寒い外で立っているし、どうしても大きな建物がなければどうもならんと、腹の中から思えて仕様がなかった」との二代苑主の発意によって、ついに、みろく殿建設の工事がおこされることとなった。一九五一(昭和二六)年一二月八日には、はやくも造営委員一二人が任命されて建設の準備をととのえ、翌昭和二七年二月四日に地鎮祭・地搗作業、三月三日に斧始式、同月一二日には立柱式というように、工事は二代苑主の力づよいはげましと信徒のもえあがる奉仕によって、急ピッチですすめられていった。
 なお昭和二六年五月五日、播州高砂沖の神島には、兵庫主会有志によって、第二次大本事件で破壊されたお宮跡に記念碑が建てられ、同月二〇日建碑式がおこなわれている。碑は高さ約九〇センチ(三尺)、幅約六〇センチ(二尺)の自然石で、そこには二代苑主染筆の神号「みろくのおほかみ」がきざまれている。

〈祭事〉 新発足当初は簡素な祭祀形態がとられていた。しかし、組織体制や神苑が整備されてゆくにしたがって、宣教方針にもくりかえし「祭祀の尊重」がかかげられ、形の面もととのえられていった。
 ご神体については、聖師発病ののちは、二代苑主による「おほもとすめおほかみ」などの染筆が下付され、短冊・色紙がもちいられていたが、一九五一(昭和二六)年三月からは、十曜の神紋をうきだした色紙型のもの(黒谷の和紙)とし、一九四八(昭和二三)年からはふたたびお宮を使用するようになった。肌守りは聖師・二代苑主によって下げられ、また「おひねり」もはやくから二代苑主によって下付されていた。
 礼拝にさいしてのご神号や祝詞奉唱については、昭和二三年二月三日以後、つぎのようにさだめて、実施されることになった。

ご神号は、天津祝詞のつぎに「おほもとすめ大御神守り給へ幸へ給へ」「惟神真道弥広大出口国直日主命守り給へ幸へ給へ」を二回ずつ奉唱し、日拝祝詞、祈願ののち、「惟神霊幸倍坐世」を二回ずつ奉唱し、最初と最後に四拍手する。「惟神真道弥広大出口国直日主命」の中には、開祖・聖師がふくまれているのであるが、特に聖師にたいして称える時は、「瑞霊真如聖師守り給へ幸へ給へ」と奉唱する。
祝詞は、平常は天津祝詞と日拝祝詞を奏上し、月次祭などの祭典の場合には日拝祝詞のかわりに感謝祈願の祝詞を、神言は節分大祓のときのみ奏上する。

 新発足後は、事件前に使用された大本祝詞を廃止し、あらたに日拝詞かつくられ、本部では昭和二三年一月一日から、地方では同年の節分大祭からこれを奏上することになった。また天津祝詞・神言・感謝祈願詞は、一九二五(大正一四)年八月一二日発行の『霊界物語』六〇巻に発表されていたものを採用した。
 亀岡の天恩郷では、毎月の旧三日に道院の老祖神の月次祭がおこなわれたが、これは道院の神だけでなく、各宗祖の月次祭として世界平和実現を祈願するまつりであり、このときは、「おほもとすめ大御神守り給へ幸へ給へ」のつぎに「至聖先天老祖守り給へ幸へ給へ」と奉唱することとした。
 一九四九(昭和二四)年には、さらに、ご神号・祝詞奉唱について変更された。ご神号奉唱については、一月一八日より「大天主太神(おほもとすめおほみかみ)守り給へ幸へ給へ」(二回)、「厳霊瑞霊大神(いづのみたまみづのみたまのおほかみ)守り給へ幸へ給へ」(二回)、「惟神霊幸倍坐世」(二回)と奉唱することに変わり、綾部の祖霊社でのご神号奉唱は、祖霊拝詞の後、「厳霊瑞霊大神守り給へ幸へ給へ」(二回)、「惟神霊幸倍坐世」(二回)、各家の祖霊には「惟神霊幸倍坐世」だけでよいことにさだめられた。「厳霊瑞霊大神守り給へ幸へ給へ」と奉唱することにしたのは、二代苑主の指示によったものである。
 神言奏上は、同年二月三日節分より、節分大祓のときのみにかぎらず、おまつりの場合、その他いつでも奏上してよいことになったが、八月二日からは、朝拝に天津祝詞・神言、夕拝に天津祝詞・感謝祈願詞とさだめられ、日拝詞は適宜に用いることにした。
 神歌は昭和二二年六月五日、『愛善の道』が発行されてから奏上し、昭和二六年節分からは、あらたに発行された『大本讃美歌』(『霊界物語』第六〇・六一・六二巻より抜萃)が奏上されている。
 一九四八(昭和二三)年からは、年間の祭典は大祭・中祭・小祭・臨時祭に区分せられ、本部が執行する定例の大祭は、二月四日の節分大祭とさだめられた。
 この年の節分大祭から大祓の行事が復活された。戦後の紙不足の時であったから、この時には人型は用いず、信徒が届けでた大祓祈願人名簿が読みあげられ、これを壺におさめて瀬織津姫が和知川にはこび、神言を奏上しつつ壺をわり、和知川の清流にながされた。つづいて節分大祭が執行され、おわって二代苑主による「福は内、鬼も内」の大本独特の豆まき行事がおこなわれた。また甘酒の接待もおこなわれた。昭和二四年の節分大祭からふたたび人型が用いられ、一枚に一家族を記入し、信徒以外の知人・縁故者の申し込みも受付けることになり、昭和二五年からは紙の出回りもよくなったので、人型も一人一枚の記入とし、これよりのち年々さかんとなって今日にいたっており、大本独自の注目すべき行事となっている。
 なお一九四七(昭和二二)年正式に節分大祭を復活して以来、大祓式は節分祭にさきだっておこなわれていたが、一九五二(昭和二七)年の開教六十年節分大祭からは、節分大祭につづいて、大祓式がおこなわれることとなった。
 昭和二三年三月一九日(旧二月九日)には、聖師の高熊山入山五十周年の記念祭典と高熊山・小幡神社参拝がおこなわれた。
 一九四九(昭和二四)年には、宣伝使制度実施にともない、二月三日天恩郷本部道場(西光館)に宣霊社の鎮祭がおこなわれ、四月二九日、新発足後初の宣霊大祭が執行された。
 昭和二四年一〇月二九日、「愛善苑」が「大本愛善苑」となって以来、宗教教団としての性格が明確となり、漸次復活されつつあった祭祀が、大本愛善苑の「教団規則」および「総本苑規則」に規定され、総合・体系化された。総本苑には「おほもとすめおほかみ」を奉斎するとともに、「教御親たる開祖、聖師の神霊」および「宣伝使の霊および会員(信徒)の祖霊」を祭祀し、祭儀をおこなうこととされたのである。
 この年には大祭として節分大祭・瑞生大祭(旧七月一二日)がおこなわれたが、昭和二五年以後、本部がおこなう祭儀としては、「元旦祭(旧一月一日)・聖師祭(一月一九日)・節分大祭(節分当日)・みろく大祭(旧三月三日)・春季祖霊祭(旧三月三日)・宣霊祭(旧三月四日)・瑞生大祭(旧七月一二日)・大本大祭(旧一〇月二日)・開祖祭(旧一〇月三日)・秋季柤霊祭(旧一〇月三日)・新生記念祭(一二月八日)・開祖誕生祭(旧一二月一六日)、月次祭毎月一五日、道院月次祭毎月旧三日、その他」(総本苑規則第八条)と定め、この年からは一五年ぶりに春のみろく大祭、秋の大本大祭が復活された。また鉢伏山・弥仙山の参拝、沓島・冠島の遥拝も恒例となったが、昭和二四年の一〇月三〇日(旧九月九日)は神島開き三三年の日にあたるので、二代苑主はじめ約五〇〇人の信徒が参列して、新発足後はじめての現地参拝がなされた。祭典後二代苑主によって、〝かみしまのやまにのぼればこわされてみやのぐるりのまつがさかゆる〟と、第二次大本事件による破壊のあとが一四年ぶりにしのばれ、松が手植えされた。
 一九五〇(昭和二五)年一月一九日には、綾部・天王平の斎納社において、全人類の無縁万霊の鎮祭がなされた。この年の七月二二日(旧六月八日)には、二代苑主をはじめ七二四人の信徒によって沓島・冠島参拝がおこなわれた。これは開島五十周年を記念したもので、新発足後はじめての現地参拝であった。この日はグレイス台風の直後で海は荒れ、冠島の上陸はできず、沓島には苑主ほか数十人が上陸して祭典がおこなわれた。また八月には東光館が完成したので、同月二五日西光館大道場のご神前ならびに宣霊社は東光館にうつされた。
 本部として年間恒例の祭典一覧表が発表されるようになったのは、昭和二五年度の祭典表からで、毎年おこなってきた旧七月六日から一二日までの本宮山月山富士での祭典(迎神祭、七夕祭)は、神集祭として執行され、聖地における毎月例祭は、旧三日開祖月次祭(綾部)・道院月次祭(亀岡)、旧一五日大神月次祭(綾部・亀岡)・宣霊合祀祭(亀岡)・祖霊月次祭(綾部)、新一九日聖師月次祭(綾部)、旧二七日大本塩釜月次祭(綾部)、旧二八日金龍海月次祭(綾部)、新三・一三・二三日祖霊社例祭(綾部)がおこなわれるなど、本部が執行する年間恒例の祭典行事がととのえられた。
 祭祀の厳修とともに、本部では祭式講習会を開催してきたが、昭和二四年からは祭式指導員・同補、地方指導員・同補の制度をもうけて、指導員の育成にも力をいれた。昭和二三年一一月には『愛善苑祭式』(昭和二四年一一月には『大本愛善苑祭式』と改訂)を、ついで昭和二五年一月には『まつりの手引』を発行し、神祭・霊祭・冠婚葬祭の学科や実習の指導がおこなわれている。
 艮坤神旗をふたたび神前にかかげたのは、二代苑主の指示により、昭和二五年五月三一日(旧一五日)の大神月次祭(綾部)の時からで、以後月次祭・大祭にはこれをかかげることとなった。
 祭典の奏楽としては八雲琴をもちいていたが、昭和二六年一月、雅楽修得のため係員を京都に派遣し、昭和二七年二月の節分大祭、三月のみろく大祭と四月の二代苑主葬祭に一時雅楽が並用された。また祖霊の祭祀の厳修についても積極的指導がなされ、昭和二六年八月には祖霊復祭件数は一万〇二八九となった。

〔写真〕
○大八洲神社鎮座祭 先達される二代苑主 綾部 p842
○金明水の再掘 奉仕者による作業 綾部梅松苑 p843
○本宮山上に16年ぶりで再建された神声碑(右)と教碑 梅松苑 p844
○上 東光館 亀岡天恩郷 下 松香館 綾部梅松苑 p845
○猛吹雪をついてみろく殿の造営がはじまった 地搗作業 綾部 p846
○新発足後の節分大祭から二代苑主によって豆まきがおこなわれた 綾部梅松苑 彰徳殿 p848
○昭和23年から節分の大祓行事が復活された 二代苑主の先達と人型読上 p849
○西光館のご神前 左から大神神床 宣霊社 祓戸大神神床 亀岡天恩郷 p850
○彰徳殿のご神前 中央 大神神床 右 祓戸大神神床 左 祖霊社 綾部梅松苑 p851
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