文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第5章 >1 巡教よみ(新仮名遣い)
文献名31 巡教よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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二代苑主の巡教は、一九四八(昭和二三)年の五月の山陰地方の巡教をふりだしに、一九五一(昭和二六)年の一二月における静岡地方の巡教を最後として、北海道から、四国、九州、壱岐・対馬にいたるまで、交通事情のくるしいなかを前後一七回・約一四〇日におよんでいる。
苑主の巡教は、地方信徒の懇請によっておこなわれたものがおおいが、反面苑主みずからの、「私が行ってあげる。どんな所でもみな行ってあげねばならぬ」という自主的な使命感からおこなわれたところもすくなくない。
〈山陰地方へ〉 一九四八(昭和二三)年五月三日、二代苑主としての巡教が開始された。苑主は出口光平・湯浅仁斎を随行として綾部を出発し、鳥取市外大正村の森岡重一宅に着き一泊した。翌四日、近くの大正会合所(田賀儀平宅)につき、信徒八〇余人に面会し、ついで信徒数十人に出迎えられて、法勝寺中曽良逸邸の愛善苑鳥取県連絡事務所に入った。県連事務所の前では、出口聖師の作品展を開催していた。苑主は夕食ののち、突然神がかり状態となり、居合わせた県連の役員たちに、大山農場の重要な使命についてさとされた。
五月五日は朝はやくから、村長、小中学校の校長、その他有志にあい、つづいて信徒一〇〇余人に面会して、絹布二枚の大幅と茶がけ七枚を一気に揮毫した。午後自動車二台で大山にむかい、山麓の一の谷で駕籠にのりかえ、新緑の山路をのぼり農場についた。出口新衛・大国以都雄・藤原勇造・泉田武らが先着しており、岡山県から来合わせた一〇余人をくわえて総勢一〇〇人あまり、夜は、かくし芸大会などでうちとけた。
翌六日は二代苑主参列のもとに、出口新衛を斎主として、大山農場の鎮座祭を執行し、つづいて参拝者数十人にたいする苑主のみちびきがあり、その後駕籠で六〇町歩あまりの農場を巡視した。七日は農場をたち、途中米子市の藤田武寿邸で休憩し、五〇余人の信徒に面会ののち自動車で松江にむかい、松江市の松楽苑(元島根別院)に到着した。
五月八日、この日は満二年前に出口聖師の松江訪問があった記念の日である。島根支部(のちの主会)ではこの日を永久に記念すべく、毎年記念祭を執行することにしていた。苑主参列のもとに、支部長三上三樹が斎主となり、赤山山上の神木をひもろぎとして「瑞霊真如聖師来松二周年記念祭典」が盛大におこなわれた。定刻一〇時には、参拝の信徒はすでに一二〇〇人を突破した。午後は一時間余にわたる苑主のさとしがあったのち、出口光平・筧清澄両講師の講話があった。翌日は県下の三二会合所、分苑などの役員百数十人があつまり役員会議を開催した。その席上でも二時間あまり苑主のみちびきがあった。午後ニュージランド軍の情報部員ランキン少尉ほか二人来苑して面会した。
一〇日は大本島根支部婦人大会が開催され、約一〇〇〇人の婦人信徒か参集した。苑主は「婦人の信仰こそ家庭幸福の基である」と懇々とさとした。午後は苑内赤山山上の中段にしつらえた野外舞台で、おおがかりな演芸大会がおこなわれた。一一日は地恩郷分苑で一泊、一二日は松楽苑に帰り、月次祭に参列した。当日の参拝者約一〇〇〇人、一三日には島根愛善青年人会に臨席した。参加者は六〇〇人余、午後三時から進駐軍を招待してティーパーティーをもよおし、ニュージランド軍の島根軍政部長夫妻以下将校、およびその家族一〇数人が出席した。
五月一四日に松楽苑を出発して、途中鳥取県由良町の遠藤鋭郎宅にたちより、三朝会合所に一泊して、一六日には浦富海岸の竹間義雄宅に入り、一八日、一六日間にわたった山陰の巡教をおえて本部に帰着をみた。
〈九州へ〉 苑主は出口伊佐男・伊藤栄蔵、熊本から出迎えの大沢道孝を随行として、一九四八(昭和二三)年九月二五日九州地方の巡教に出発した。途中の駅々では信徒のさかんな迎送があり、翌二六日熊本駅前から大型バスを借切って、鹿本郡植木町豊田の九州分苑についた。事件前ここは大本九州別院であった。新発足後、いちはやく再建し、聖師から松水苑と命名され、もと鶴鳴殿跡に新築された建物は水明館と名づけられていた。聖師の九州分苑(現九州別院)への出向ははたされていなかったので、二代苑主の巡教はその遺志を実現するという意味もこめられていた。
五月二七日、全九州から約四〇〇人の信徒が参集し、二代苑主をむかえて、分苑管事桜井愛三斎主のもとに、九州分苑の臨時大祭が執行された。夜は屋外の舞台で「苑主歓迎芸能の夕」がもよおされ、一五〇〇人の参集者でにぎわった。その翌日から苑主は信徒たちに面会のほか、ご神号や短冊・色紙などの染筆にいそがしく、二九日には熊本市内の奥村晋邸に休憩ののち、郊外三和町の前町長水野安雄邸に入り宿泊した。この間、九州分苑では、巡教を機にはじめて道場が開かれ、二七日より三〇日まで四日間にわたり、出口委員長や伊藤栄蔵を講師とする道場講座が開催された。受講者は百数十人におよび、さっそく入信・奉斎を申し出る人々もあった。
九月三〇日に熊本を出発、福岡の石田新之輔宅へ宿泊した。翌一〇月一日、石田卓次・徳重高嶺らが随行にくわわり、壱岐・対馬にわたった。壱岐では山口強・松本時於・稲村助五郎・都野川幸重・横山確蔵・浦川長太郎などの宅で各一泊し、対馬では寺山斎宅で三泊した。各地で慈愛にみちたみちびきがあり、壱岐の芦辺劇場と勝本劇場では出口委員長の講演があった。また両島で各信徒大会をひらき信仰意欲をもりたてた。一〇月八日には船で一行六〇数人とともに、和田都美神社への参拝がなされた。
一〇月一〇日、苑主は大衆丸に乗船、午後博多に着き、原田俊隆宅で少憩ののち、佐賀県鹿島会合所にむかった。これより一七日までのあいだは大分県中津会合所、福岡県椿市の桜井愛三邸(のちの八千代分苑)、小倉の渡辺芳枝邸(のちの筑紫分苑)、山口県小月の植田瑞穂邸にそれぞれ一泊または二泊し、その間に宇佐神宮の大元山に代参させ、一〇月一八日亀岡天恩郷にかえった。
〈大阪および鳥取へ〉 苑主は一九四九(昭和二四)年三月一三日、出口光平・筧清澄・梅田やすの三人を随行として大阪にむかい、大阪天満宮社務所における愛善苑大阪地方信徒大会および信徒の慰霊祭に参列した。午後、来訪したNHK大阪局の局員が苑主にインタビューして、とくに「日本の前途」についてたづね、苑主による「皆が信仰によって神心に立ち帰る事、手ぬるくてもそこから目覚める事が一番大切であり、そこから始めねばなりません………皆が神心に目覚めれば非観する事はない」との談話を録音した。この談話は一六日放送された。苑主は信徒五〇〇人に面会し、連絡事務所の中田太一宅に一泊した。一四日には早朝から、金屏風三双に揮毫、他に色紙・短冊一〇〇〇枚に染筆し、ついで大阪駅発、夕刻三朝会合所につき、三朝地方道場開設祭に列席した。参列者は百数十人であった。会長出口伊佐男は鳥取から苑主に随行し、夜講演があって、苑主・会長は吉原克昌宅に宿泊した。一五・一六日とも面会と染筆などにいそしみ、一七日に綾部へかえった。この間会長は鳥取市と米子市における講演会に出講した。
〈四国へ〉 一九四九(昭和二四)年四月二一日には、出口光平・梅田やすを随行として四国の巡教がなされた。この日徳島県小松島港に上陸し、県連事務所多田宗泰邸(のちの大本瑞雲郷別院)に入り一泊した。二二日には一六二人に面会し、染筆、みちびきがあってのち、池田町(徳島県)の会合所島崎忠俊宅(のちの池田分苑)で宿泊した。
二三日は徳島・高知・香川の信徒三〇〇人余が参集して、池田会合所で春季大祭を執行し、直会後苑主から講話があった。二四日は香川県に入り琴平町の木村次之助宅に一泊、二五日は白鳥会合所の春季大祭に参列した。参拝者は二〇〇人あまりであった。二六日は徳島県の高志会合所佐々木宅にたちより、信徒五〇人に面会ののち乗船した。二七日早朝、神戸に上陸し、摂淡連絡事務所近藤保雄邸にたちより、春季大祭にのぞみ、亀岡へ帰着した。
〈金沢へ〉 苑主は同年五月二七日、出口伊佐男夫妻をともない亀岡を出発し、夕刻金沢につき、支部長嵯峨保二邸に入った。翌朝北国毎日や石川新聞の記者がインタビューした。苑主は「昔の新聞記者はウソばかり書いたが、この頃はよくなりましたなア」とまず最近の新聞観にふれ、それから宗教と増産について所信がのべられた。午後は下本多町の石川支部(北毎会館)での臨時大祭および信徒大会にのぞみ、みちびき、面会ののち、ひろく美しい若葉の庭園で苑主をかこみ直会をした。参拝者は五〇〇人余であった。
二九日は聖師の遺髪を一〇〇人にわたした。会長は宗教者懇談会に出席し、そこへ知事・市長・商工会議所会頭もくわわり、苑主も列席して会食した。午後、愛善苑石川婦人会の発会式にのぞみ、婦人と青年四〇〇人に講話があり、明光荘で支部役員らと夕食をともにして幼時の追憶談があった。三〇日朝には金沢を出発して、亀岡に帰着した。
〈北海道へ〉 苑主は出口八重野・伊藤栄蔵・鈴木成次郎らを随行とし、一九四九(昭和二四)年六月二八日亀岡を出発して北海道にむかった。京都支部で少憩後、京都駅を出発した。各駅々では信徒のまごころこもる迎送があり、途中から秋田県連絡事務所主任高橋早苗、青森県連絡事務所主任佐藤雄蔵らが同車し、二九日午後弘前着、津軽公園一巡ののち三崎島久宅におちつ含、夜は座談会があって隣家の山本邸に宿泊した。そこでも集った信徒にお話しがあった。
三〇日朝には亀岡から「東尾吉三郎昇天」との電報があった。当日弘前をたって北海道にわたり、函館会合所(良知源次郎宅)および滝川会合所(猪子幸治宅)にたちより、目的地の山部へ到着し、駅頭には多数の信徒が整然とお迎えした。苑主は北海分苑に入り、東尾の霊前へ歌二首が電報で亀岡へ送られた。〝このみちをただ一筋に貫ぬきてかへりましたる君ぞたふとき〟〝かりの世をかみさりましてかくり世の神のみそのに仕へましませ〟。その夜苑主参列のもとに、北海道場の鎮座祭と完成祭をかねて、石田卓次支部長斎主のもとに盛大な祭典がおこなわれ、直会のあと講話があり、色紙・短冊の染筆があった。
二日から五日まで分苑に滞在、その間伊藤・石田・鈴木による四日間にわたる講座がもよおされた。また苑主の先達によって故東尾の葬祭遥拝式があった。苑主はまた北海別院開設(昭和3年)以来の最功労者であった故宮本惇一郎・堤嘉吉の遺族をおとずれ、霊前に拝礼した。
五日午後山部を出発して、翌朝函館の増田貢・吉田徳蔵宅にたちより、信徒に面会ののち連絡船にのり、夕刻青森着、県連絡事務所佐藤雄蔵邸に入り、数十人の信徒に面会し、一泊した。七日は面会後、聖師作品展をもよおしている奈良粕太郎邸をおとずれ、午後青森を出発して七月八日亀岡に帰着した。
〈東京・茨城へ〉 苑主はこの年一〇月一四日、駿河台ホテル(千代田会合所)につかれた。直日夫人・虎雄夫妻はすでに滞京中で、加藤義一郎らもくわわった。一五日、聖師作品展覧会場である芝の美術クラブへおもむき、李垠夫妻と会場の茶室で歓談、また日本女流書道協会理事稲垣黄鶴女史と面会した。女史は「てんごく」とかかれた苑主の箱書きに目をうばわれ、「ああこれだ、と私の目はこの『てんごく』の四文字に吸いこまれました」とかたった。苑主は前日未信徒から依頼されている山のように積まれた素焼の楽茶わんに染筆した。夕刻茨城県竜ケ崎町の野口如月宅(県連事務所)につき、新築の家でくつろぎ、夜おそくまで興味ぶかい話がなされた。翌日は祭典がおこなわれ、祭典後参拝者七五〇人にたいして「和による統一」について講話があった。つづいて面会、夜は余興があり、苑主によって物語られる新婚時代からの聖師についての話に一同はよろこんだ。
一七日、東京をはじめ各県代表二五〇人が参加した全関東信徒総会会場である駿河台ホテルに到着した。出口虎雄の講話のあいだ、苑主は短冊一五〇枚を染筆し、つぎに一時間にわたって話がなされた。夜役員があつまり、東京に関東事務所を建設する件を協議していたが、これにたいして苑主は積極的に激励し、翌日夕刻亀岡に帰着した。
〈岡山へ〉 苑主は一九四九(昭和二四)年一〇月三〇日、神島へ参拝した。全国からの信徒約二〇〇人が同行した。船は二隻で小さい発動機船にのった人たちは全員頭から海水をかぶるという荒れようで、大船にのった人たちでも酔うた人がすくなくなかった。その後苑主は伊保会合所(浜谷喜市宅)で一泊した。翌三一日は姫路駅前の山本方で少憩場後、木庭次守らが随行して津山会合所に入り、六〇余人の機信徒に面会とみちびきがあり、夕刻落合会合所について、清水宅に一泊した。
一一月一日、新見につき、神代会合所に入り、信徒に面会し、短冊に染筆して、午後笠岡に到着し、佐賀野善三郎宅に一泊し、多数の信徒に面会した。二日には岡山にむかい宇都宮長寿宅で少憩ののち、城北クラブで信徒百数十人に面会した。夕刻、牛窓会合所(西口満宅)につき、三日は祭典、夜は信徒や町有志者の歓迎演劇大会に出席した。四日は襖四枚に揮毫し、正午伊部町の金重陶陽邸につき、夕刻瀬戸町の藤原支部長邸に入った。五日色紙・半折など揮毫し、夕刻亀岡に帰着した。
〈信州・東海へ〉 苑主は一九五〇(昭和二五)年四月八日、出口住ノ江・伊藤栄蔵を随行として亀岡を出発し、愛知県稲沢の愛知県支部桜井信太郎邸に一泊した。ついで九日は長野県に入り、松本では逢沢宅で松本・大町・安曇・麻績各会合所の信徒約一〇〇人にお話。また東塩田会合所(早川正義邸)における信徒大会にのぞみ、生島・足島神社に参拝して、一一日本牧村の黒沢浄宅につく。先着の出口新衛斎主となり、大本皇大神の鎮座祭がおこなわれた。つづいて苑主は月日神社(祭神に銀竜彦・金竜姫と苑主から命名)の完成奉告祭と直会にも参列した。翌朝黒沢家をたち、上田会合所(小山きよし宅)に立寄り、約八〇人の信徒に面会、染筆した。ついで中込会合所(柳沢岩蔵宅)についた。一三日、苑主は朝の三時からおきて襖・横額・半折・色紙・短冊・扇子・笏など四五点に揮毫し、六時半中込をたち長野市の会合所本道きせ宅にたちより、定光寺の東海道場(桜井秀之丞邸)につき宿泊した。一四日には愛知・岐阜・三重の三県から八〇〇人の信徒が参集し、春の大祭をおこなった。おわって京都支部にたちよって亀岡に帰着した。
〈石川・富山へ〉 苑主は金沢における「全日本宗教平和博覧会」の参観をかねて、一九五〇(昭和二五)年四月二五日から五日間にわたり、石川・富山地方への巡教に旅だった。随行は出口尚江・木庭次守で、四月二五日の夕刻に金沢へつき、石川県支部長の嵯峨保二ら一〇〇余人の出迎えをうけて、山水居に宿泊した。博覧会は兼六公園を中心に金沢市一帯にまたがる大規模なもので、そのなかには「大本愛善館」と「特設大本愛善美術館」が独立してもうけられている(四章三節)。二六日博覧会場へゆく途中刑務所横を通ったとき苑主から急に「何か差入れしてあげたい」と側近に伝えられ、ただちにその手配がなされた。これにたいし、刑務所から「こんな事は始めてで……教化に大変な良い影響がある」との言葉がつたえられた。会場では大本愛善館、つづいて神道館・第二仏教館、さらに大本美術館を巡覧した。夕刻、県支部主催の万国戦没者慰霊祭に参列した。参拝者は三〇〇余人であった。翌日は富山支部の祭典に参拝し、新聞記者に面会後、一同へ講話があった。二九日には、苑主によって襖四枚に松五本がえがかれ、半冊・色紙に染筆がなされた。帰途、福井駅で福井仏教新聞社のもとめに応じホームで記念撮影ののち、亀岡に帰着した。
〈山陰へ〉 苑主は一九五〇(昭和二五)年五月六日、随行石田卓次・東尾如衣とともに松江の島根別院(現島根本苑)に到着した。七日の聖師来松記念祭典後、参拝者二三〇〇人にたいし、四九年前一八才で開祖・聖師とともに出雲参りした時の思い出話がなされた。翌日の会合所主任会議では、「出雲は櫛稲田姫の旧跡地で、それでこんなに出雲がわしには気分が良いのではないかと思う」とかたられている。さらに九日・一〇日と滞在し、一一日松江を出発、米子で故藤田武寿の霊前に参拝ののち、さらに皆生会合所にたちより、夕刻法勝寺の鳥取県支部中曽良逸邸につき、法勝寺分苑設立の奉告祭に出席した。一二日は三朝分苑に入り、翌日の分苑設立奉告祭に参列して一四日まで滞在した。一五日鳥取市外吉岡温泉高田貞治宅で、苑主命名の竜神「いなばひめ」の祭典に参列して一泊し、一六日亀岡に帰着した。
〈神戸・西宮へ〉 黒川実・梅田やすを随行として苑主は六月五日、神戸の摂淡地区支部近藤保雄邸につき、支部月次祭に臨席した。信徒のほかに二〇数人の実業家・図書館長・閨秀画家など多彩な人々があつまり盛会であった。面会ののち同邸で一泊した。翌日は早朝から染筆し、つめかける来訪者との面会がつづいたが、その大半は未知の人々であった。午後西宮会合所(中島省三宅)につき一泊した。七日は大阪で文楽を観賞して亀岡に帰着した。
〈広島・鳥取へ〉 一九五〇(昭和二五)年九月二五日、苑主は黒川実・東尾如衣および広島県支部長桑原英昭らを随行として広島県鞆につき、ときわ旅館に宿泊した。町の有力者二〇数人が来訪し、翌朝は染筆と面会、二七日には道の上会合所へたちより、河佐会合所に一泊した。二八日には揮毫・面会・講話がなされ、午後は上下町の重森花世宅で少憩ののち福永支部にいたり、牧野清二宅に入った。翌日は午前平和祈願祭にのぞみ、三〇日は藤尾村滝口宅で少憩ののち、福山道場の鎮座祭に参列した。さらに広島にむかい、原爆の中心点相生橋際で黙祷して、霊をなぐさめ、当時を回想して、広島分苑についた。市長浜井信三・市会議長川本精一らが来訪し、そのあと新聞記者三人と夜一一時すぎまで歓談した。
一〇月一日、苑主は朝から疲労の色がみえ気分わるく、かるい鼻血さえあった。しかしぞくぞくとつめかける信徒のため面会はつづけられた。午後三時ごろ、しばらくやすまれていた苑主はムックリとおきなおり、「かねて開祖様から聞かされていたことを、フトいま思い出した」といい、ただちに色紙を一〇数枚ならべた上から、ゆたかにふくんだ墨筆を、そそぐようにたたかれ、一度に多数の染筆が出来あがっていった。開祖によって「お前は墨一滴落してさえおけば、それが世の宝になるときがくる」としめされていたことがこころみられたのである。この揮毫のおわるころから気分が漸次快復した。その時の歌、〝母きみの伝えおかれし筆のしづく広島分苑にのこしおくなり〟。ちなみに苑主の苦悩は、原爆犠牲者の霊が救いをもとめにきたためのものであったと、苑主によってかたられている。
二日は早朝から一気に多数の揮毫があった。ついで信徒七〇人とともに厳島神社に正式参拝し、さらに大元神宮へむかう。あまりに荒れはてている宮居に苑主はふかい感慨をもらし、しずかに端座して真摯な祈念がながくつづけられた。少憩ののち苑主の講話があった。
三日広島出発、鳥取県法勝寺分苑につく、四日は同分苑の歌碑除幕式に臨席した。一般参列者一五〇余人、苑主の揮毫になる、〝さんぜんせかいいちどにひらくうめのはな まつでおさまるみよぞかしこき〟の苑主の歌がきざまれている。先着の出口虎雄が苑主の祝歌を朗詠し、夕食後余興のもよおしがあった。五日三朝分苑につき、数十人の信徒と夕食をともにし、六日は浦富の清風館(竹間義雄経営)にくつろぎ、信徒に講話があって、七日綾部にかえった。
〈紀州路へ〉 苑主は桜井重雄を随行として、一九五一(昭和二六)年一月一一日、和歌山県湯浅の紀州分苑堤清彦邸に入る。信徒へのみちびきのなかで、天地のご恩が力説され、「それがわからねば世界は平和にならん」と力づよく結ばれている。夜は桜井重雄の講話があった。聴講者一〇〇余人。翌朝色紙・短冊に染筆し、分苑祭に参列された。各地から約二〇〇人の参拝があり、半紙半切れに「すみこ」と書き、拇印を押して参拝者にあたえた。「笑いの夕」がもよおされたあと苑主から、霊界の実在と祖霊のお祀り、お給仕の大事なことについて話があった。一三日には和田支部の鎮座祭に参列してお話と染筆。一四日は矢田支部へつき、ここでも鎮座祭がおこなわれ、村の人々と面接し、上田幸一郎宅で宿泊した。一五日には染筆があり、同日奥井敬三には玉津島神社へ、大谷瑞淵には香良洲神社へそれぞれ代参が命じられて、午後亀岡に帰着した。
〈東海へ〉 大国以都雄・梅田やすを随行として、一九五一(昭和二六)年四月二二日稲沢につき、東海分苑(現東海本苑)に入る。分苑では苑主の歌碑除幕祭典がおこなわれた。参拝者三〇〇余人、ついで分苑春季大祭があり、分苑に一泊した。翌朝、染筆後出発し、岐阜県の多治見支部小池栄造宅に入る。信徒約二〇〇人に面会し、講話ののち、虎溪山の長塚宅につき一泊。二四日三河一色にむかった。苑主は当時体重七四キロ(一九・八貫)あって、健康がややすぐれず、巡教については今後地方からの要望もえんりょしてほしいという声もあったときで、汽車ののりかえなどは難儀のようにみうけられた。途中、刈谷支部(井野弘邸)にたちより数十人の信徒に面会し、一色支部(高須令三邸)に到着し、一時間半にわたって約七ヵ年の未決の生活の体験談がなされた。翌早朝に短冊染筆後、沓島参拝の話があり、記念に白梅・紅梅の手植えをされた。ついで幡豆支部(大竹節於宅)へつき、信徒と面会し、長時間の講話があった。二六日は西尾支部中村宅にたちより数十人に面会して、亀岡にかえった。
〈三朝と法勝寺へ〉 苑主は梅田やす・福田サヨを随行として一九五一(昭和二六)年一一月三〇日鳥取県の三朝分苑につき、一二月一日三朝別院の開院式に臨席された。参拝者は島根・兵庫などからあわせて六五〇人であった。小松を記念植樹し、二日には信徒にたいする講話と染筆があり、三日には法勝寺分苑で一五〇人の信徒に講話があった。ついで福頼部落の月村神社(祭神月夜見命)に参拝し、細田忠治宅にたちより、翌日中曽邸の襖に揮毫があって、夕刻綾部にかえった。
〈静岡県へ〉 一九五一(昭和二六)年静岡県吉原市における苑主歌碑除幕式にのぞむため、出口八重野・梅田やすを同伴した。途中から総長もくわわって、一二月一五日には、吉原市の望月虎一邸に入った。翌一六日には建碑式がおこなわれ、五〇〇余人が参拝した。歌碑の歌、〝ひのもとのくににうまれしかみのこよよきたねをまけのにもやまにも〟〝ちのごおんつちにうまれてつちにいきつちのおんうけつちにかくるる〟。式後苑主・総長をかこんで直会がひらかれたが、苑主は席上、未決の思い出話を「出るときがこなければ出られん、お産と同じじゃと思うておりました」と語り、爆笑裡に神の摂理か示された。なお当日は、出口聖師が蒙古で遭難のさいかけつけた日本領事館土屋書記生の未亡人(甲府市在住)も参列し、当時をしのんで苑主・総長らと歓談された。一七日には揮毫ののち百数十人に面会し、田子の浦に車をはしらせて富士を背景に記念写真をとった。一八日は熱海につき、市長さしまわしの車で伊豆山鳴沢荘(小永井邸)へ入った。市長宗秋月、県議古郡久作ほか地元の名士多数と懇談ののち、亀岡天恩郷へ帰着した。
〔写真〕
○老令をもかえりみぬ苑主の巡教は教団発展の原動力となった 車中の苑主 p907
○大山をのぞむ二代苑主歌碑 昭和28年8月建立 ほうきたいせんすのおほかみのまちにまちたるこのしごと 鳥取県大山農場 p909
○苑主は信徒子弟の育成にもたえず心をくばられていた 壱岐愛善子供会員とともに 長崎県壱岐 p910
○円転闊達 たくまぬ話術と豊かな表情は聞く人々の心をゆり動かした 石川支部 p912
○巡教によって心のきずなは固くむすばれていった 信徒との記念撮影 中央は二代苑主 北海別院 p913
○苑主の使用された最後の機場 彰徳殿西側の貯水池畔にあったがその後移築のため解体された 綾部 p914
○神務と巡教のなかで寸暇をおしみ苑主は機に精進された 機場 p915
○墨一滴 出口すみ子筆 広島分苑 p918
○地方の祭典で先達される苑主 和歌山紀州分苑 p919
○二代苑主歌碑と苑主 鳥取県法勝寺分苑 p920
○二代苑主歌碑除幕式 静岡県吉原市 望月邸 p921
○二代苑主歌碑 愛知県東海分苑 p921
○富士を背景にして…… はからずもこれが地方での最後の記念撮影となった 静岡県田子の浦 p922