文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第2章 >4 神苑造営と祭儀よみ(新仮名遣い)
文献名3造営よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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〈亀岡天恩郷〉 一九五二(昭和二七)年九月一日、三代教主の住居である葉がくれ居が月照山西側に完成した。翌一九五三(昭和二八)年四月一八日、天恩郷では教旨・学則碑(上巻一四八~九頁)の建碑式が、春の大祭にひきつづいておこなわれた。碑は大銀杏台下の南側明光殿跡に建てられ、たて八尺(二・四メートル)・よこ一八尺(五・四メートル)・厚一尺五寸(四五センチ)の仙台石で、重量七三〇〇貫(二万七三七五キロ)である。一九三五(昭和一〇)年九月八日の聖師の筆になるもので、彫りあがって建碑の準備がすすめられていたが、第二次大本事件によって破壊されてしまった。その後さいわいにして、京都市内の石屋吉村茂右衛門の蔵に秘されていたその石摺(教旨・学則・四大主義・四大綱領)が、松本久次郎・寺田岩太郎・吉岡義雄の努力で本部に返納された。その石摺によって建碑をみたわけである。教旨・学則碑建碑式につづいて、二代教主歌碑、〝ひのもとのくににうまれしかみのこよよきたねをまけのにもやまにも〟が月照山の西端に建立された。八月一二日には天声社印刷工場の完成式がおこなわれており、一〇月二七日に鳳雛館が完成した。館はブロック建て、総桧造りの能舞台も併設された。舞台の鏡板の松は松野奏風の筆になるものである。体道・謡・仕舞・書道などの修錬場として、常時奉仕者やその子弟の育成がおこなわれている。
一九五四(昭和二九)年八月九日には、天恩郷入口に天恩郷碑が建立され、同月一一日には穴太の瑞泉郷に、事件によって破壊された聖師の神聖歌碑が再建された。この石摺は小幡神社に秘蔵されていた。婦人会員たちによって建設運動がすすめられていた婦人会館は、一九五五(昭和三〇)年四月のみろく大祭に着工し、同年八月六日に完成した。翌年九月三日には文書宣教の活発化にともなって、天声社印刷工場の増築工事をおえている。
一九五六(昭和三一)年二月一二日、もと光照殿跡の高台で地鎮祭のおこなわれた朝陽館の完成奉告祭が、四ヵ月の強行作業ののち、同年の八月七日におこなわれた。この日教御祖の神霊が瑞祥館から遷座された。教主・教主補によって神務がとられ、信徒との面会も主としてここでおこない、教主・教主補の住居もととのえられている。この建築は、昭和三〇年末に教主が愛知県を巡教されたさい、信徒代表から献納をねがいでたのがきっかけとなったものであり、教主の意向をくんで設計され、建設委員長嵯峨保二・建設局長桜井信太郎をはじめ全信徒の赤誠によって完成をみた。中央の棟は神前の間、東の棟は寝殿造りの様式、西の棟は数寄屋造りの様式をとりいれ、棟つづきになっている。西棟に付設された茶室は、夕院うつしの四畳半席で教主によって直心庵と命名された。
かねて高熊山の聖跡を大本の所有とするについては、長い間の懸案であったが、地元の人々の協力によって亀岡市曽我部町穴太口山一一三番地七六、高熊山の土地八反七畝二七歩が大本の所有となり、一九五七(昭和三二)年の四月三〇日に登記を完了して、天恩郷の飛地境内地として所有することとなった。また冠島・沓島の遥拝所である国見山(舞鶴市字瀬崎小字蘆谷八三番地)の山林一〇四二・七八坪が富永喜太郎から献納され、五月一〇日に登記をおえた。
一九五八(昭和三三)年を意義ふかくむかえるため、その記念事業として、もと透明殿跡に万祥殿(神殿・拝殿)の建設が決定された。建設委員長嵯峨保二以下九六人の委員を委嘱、造営委員長に出口伊佐男、副委員長に大国以都雄を任命して、教団あげての体制がくまれ、一九五七(昭和三二)年八月七日の瑞生大祭に地搗き、一〇月三日に斧始めをおこなって以来、全国信徒の総力を結集して急ピッチで工事はすすめられた。その結果一年後の昭和三三年八月六日にご神体が鎮座され、翌七日には瑞生大祭にあわせて完成奉告祭、一〇月七日には盛大な完成祝賀祭が、新築なった万祥殿でそれぞれおこなわれた。
万祥殿は、「新発足以来、綾部には二代さまにより、みろく殿が建ちましたが、亀岡にはまだ拝殿もない有様でございます。左様なわけで、日日礼拝をさして頂く処を、第一に造らしていただくことにいたしました。万祥殿は私として初めて建てさせて頂きますので、立派なそして大本の特色を十分に発揮できる、建物でありますようにと念願いたしております。聖師さまのお心を実現いたしますことは、取りもなおさず天恩報謝の誠をいたす道と存じます」(「愛善苑」昭和32・8瑞生大祭挨拶)との教主の意図にもとづいて、建設がすすめられたものである。また万祥殿は、聖師が、〝花明山に万祥殿の建つ時はわが大本の道輝かむ〟とよまれて建築をいそがれていたが、基礎工事をおわったところを昭和一〇年の第二次大本事件にあい、官憲に破壊されて実現をみなかった思い出の建造物でもあった。万祥殿は神殿・拝殿・事務所の三棟からなり、鉄骨・木造併用の神殿造りに現代様式をとりいれ、大本の教風をいかした代表的建物として、現場にもたびたび足をはこんだ教主からこまかい指示があたえられた。礼拝殿には切妻造りの能様式の舞台や書院づくりの茶室万祥軒がもうけられているが、これはおおきな特長で、「これらの融合する一つの建物は、ミロクの世の雛型になるものと、ひそかに誇りを感じ……聖師さまのご理想であった芸術と宗教の一致という、大本の教えから生まれて来たもの」であって、能舞台は、「歌祭を行わさしていただく様式として、もっとも要を得て、簡潔」、「もっともふさわしい様式」であり、さらに「本格的な能舞台ができますれば、私たちの間に、仕舞や能を奉納する機会が多くなり、観能のよろこびをもめぐまれる」(『続・私の手帖』)と教主によってのべられている。能舞台の鏡板には松野奏風によって、雄渾かつ典雅な筆致で松がえがかれている。なお、八月五日には万祥殿前に完成した万祥橋の渡り初め式がおこなわれた。
昭和三三年には、浄水場建設のため亀岡市より懇望されて、天恩郷東北隅の土地四一七・六坪(もと豊生館跡)を亀岡市に譲渡し、その代替地として、市有地である天恩郷西側の溜池を埋立てたうえ約一〇〇〇坪を譲り受けることとなり、五月七日に市長と総長立会のもとで契約書に調印がなされた。また天恩郷神苑の一部は花明山植物園としてひきつづき整備がすすみ、万葉園・くるみ園・桃園につづいて、昭和三四年には紅梅園・森林園などが新設された(五章)。
一九六〇(昭和三五)年にいたって、開教七十年をむかえる神苑の整備充実をはかるため、亀岡天恩郷に春陽閣・大本会館建設の工事がすすめられたが、これらは第六章開教七十年の大本の記念事業のなかでのべられている。このほか、青年会員たちによって建設運動がすすめられていた大本青年会館は、一九六一(昭和三六)年の八月六日瑞生大祭に完成をみた。さらにこの年には、宣霊社前の石垣を一段高くつみ、瑞祥館前小松林から万祥殿南の池の端まで二〇〇メートルにおよぶ石垣の築堤工事がおこなわれ、堤上に多行松を植えて光彩をそえ、神苑はいちじるしく整備された。
〈綾部梅松苑〉 信徒が増加してゆくにつれて、彰徳殿ではますます手狭となり、大祭の時など参拝者が殿外に立って礼拝している情況であった。そこで一九五一(昭和二六)年、二代教主によってみろく殿建設の指示があり、一二月八日みろく殿造営委員長嵯峨保二以下一〇二人の委員が任命され、一九五二(昭和二七)年一月八日には出口栄二梅松苑参事のもとに造営局がおかれ、桜井信太郎が造営局長の任にあたった。開教六十年節分大祭を期して、大吹雪のなかで地鎮祭を執行し、一九五三(昭和二八)年四月一六日みろく大祭のよき日に完成奉告祭がおこなわれた。神殿・拝殿のほか神餓所・地下室等を設備し、殿内は七八九畳敷きの大広間で、結婚式や一般の集会等にも開放されている。総工費四二六二万八六三七円(昭和28・4・15審議会報告)、工事日数四二七日、全国三三主会からの献労者延五九一八人の大工事であった。献労者は島根主会の延二〇七九人、三丹の一七九二人を筆頭に、徳島二五九、鳥取二三〇、兵車二五一、茨城一八〇、熊本一七六、北海道一三八、埼玉一〇〇などと、ほぼ全国にわたっている。
一九五三(昭和二八)年八月一六日には、鶴山山上に二代教主の歌碑、〝本宮山に和知川の水くみあげていのちの真清水ながしゆくなり〟が建立され、同日金龍海にかけられた、きんりゅう橋の渡り初めがなされた。
翌一九五四(昭和二九)年七月一七日には、梅松苑入口に三丹主会信徒の手によって三丹会館が完成し、三丹主会の事務局がおかれ、信徒の宿泊・会合などにあてられることになった。
一九五五(昭和三〇)年四月一五日には植松の山水荘を要荘北側に移築して掬水荘と命名し、綾部における教主の住居とされた。このころには神苑の整備も一段とすすみ、金龍海や元屋敷の整備が完成し、八月八日には、みろく殿裏に神声館ができあがった。一九五八(昭和三三)年には旧市庁舎跡敷地一一〇〇余坪を市より譲りうけ、また上野町の愛善寮隣接敷地一〇三坪を購入し、八月五日には海外宣教の進展にそなえて外人専用の宿舎を建設した。同年一〇月六日に地鎮祭をおこなった春秋荘は、翌一九五九(昭和三四)年四月一一日に完成奉告祭がおこなわれ、要荘と廊下でむすび、また書院づくりの茶室彩鳳軒がもうけられた。
昭和三四年一一月三日には、大本の伝統的陶芸場としてあらたに鶴山工房開きがおこなわれ、翌昭和三五年一一月一四日には地鎮祭をおこなって、窯の築造と工房の建築にとりかかった。そして一九六一(昭和三六)年一月一一日には鶴山窯が、四月一六日には工房が鶴山(本宮山)のふもとにそれぞれ完成した。開教七十年記念事業の一環として、亀岡から東光館をうつして松香館別館の建設がおこなわれ、同年一一月には松香館東側に完成した。階上は宿舎、階下は食堂にあてられている。
〈彩霞苑〉 綾部の天王平にある大本の共同墓地も手狭になって、共同墓地の新設がつよく要望されつつあったが、一九五二(昭和二七)年の五月には、綾部市有林である天王平隣接の景勝の丘陵地二万九〇〇〇坪が、長岡誠市長のはからいによって大本に譲渡された。一九五五(昭和三〇)年三月一〇日には、教主から彩霞苑と命名され、四月一六日公園墓地として起工式を執行した。大本信徒の墓地として、第一期・第二期の造成工事が終了し、一九六一(昭和三六)年四月からは第三期工事がすすめられている。
〔写真〕
○朝陽館 昭和31年 右から東の棟 神前の間 正面玄関 西の棟 正面姿図 p1090
○万祥殿内部 左 神前 右 能舞台 p1091
○三丹会館 昭和29年 綾部梅松苑 p1093
○新緑につつまれた春秋荘 中央は茶室彩鳳軒 左は鶴山窯工房 綾部梅松苑 p1094