文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第4章 >2 海外における宣教活動よみ(新仮名遣い)
文献名3中南米における宣教活動よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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〈ブラジル〉 ブラジルにおける大本の宣教は、太平洋戦争の突発によって決定的な打撃をうけ、敵性国民としての圧迫はきびしく、組織的活動はもちろん、おもてだった行動のいっさいが禁止された。一九四五(昭和二〇)年八月一五日、悪夢のような戦争はおわりをつげ、日本とブラジルの敵対関係は消滅した。しかし戦後の経済は混乱し、そのうえ日本敗戦の認識をめぐって日系ブラジル人同志のあいだの対立がはげしく、世相はきわめて険悪で、再建への道はなまやさしいものではなかった。
こうした苦難のなかで信仰を堅持し、時いたるのをまちかまえていた信徒のおもだった人々は、終戦とともに積極的行動をおこし、ブラジルにおける大本の宣教は息吹きをとりもどした。当時サンパウロ州のイタペビーには森静雄、リベイロン・ピーレスには近藤真弓、サントスに羽山重雄、アララクワラに尾山嘉夫・向井静喜、サンパウロ市のピネーロスには早野弥作、イピランガに田力常信、アクリマソンに千種増吉、ミナス州のウベルランディアに田中幸男・田中幾太がいたが、当初の宣教はこれらの人々を中心に、人類愛善運動・病気お取次の線ですすめられていった。しかし愛善苑本部との連絡もつかず、相互の連携も十分とれなかったので、いきおい活動の範囲もかぎられていた。
一九四八(昭和二三)年一月一九日の出口聖師の昇天は、ブラジルの邦字新聞にも報道された。新聞でそのことをしった信徒たちは「茫然自失、悲歎の涙にくれ」、さっそく弔電・玉串を本部へおくった。このころからブラジルと愛善苑本部との連絡が復活し、ふたたび組織化がすすめられていった。
一九四九(昭和二四)年一月二五日付で、愛善苑のブラジル支部(支部長近藤真弓)、同年二月三日付でサンパウロ会合所(主任早野弥作)、ポアー会合所(真下元治)の設置が承認され、信徒数も六〇人にたっした。当時の支部は今日の主会に相当し、サンパウロ州のリペイロン・ピーレスの近藤真弓方におかれた。一九二六(大正一五)年渡伯以来の旧分所のご神体は近藤宅に奉斎されていたので、近藤は主な信徒と協議して、リペイロン・ピーレスの近辺に人類愛善堂の再建をはかったが、地の利がわるく実現するにはいたらなかった。
一九五〇(昭和二五)年にはしだいに運動がのび、九月一四日には人類愛善会南米本部が、ブラジル国法令にもとづいて正式の登記手続きを完了した。本部長に近藤真弓、庶務部長に森静雄、会計部長に早野弥作がそれぞれ任命された。当初の会員はブラジル人をふくめて一〇〇人くらいであったが、ポルトガル語のパンフレット『愛善会は何をする団体か』『愛善精神とはどんなことか』を発刊しておおいに活躍した結果、一九五一(昭和二六)年には会員が五〇〇人を突破した。ペイロロ(支部長近藤真弓)、ソロカバナ(森静雄)、サンパウロ(田力常信)、アクリマソン(千種増吉)に人類愛善会の支部がもうけられ、とりわけソロカバナ支部は会員一二〇人をこえ、半数以上か市長以下ブラジル人であった。
こうした運動の展開にともなって信徒相互間の交流もさかんとなり、一九五四(昭和二九)年ごろには地の利をかんがえて、サンパウロ会合所(ビネーロスの早野弥作方)に大本のブラジル支部および人類愛善会南米本部の事務所をもうけ、教団本部および信徒との連絡がとられることとなった。一九五四(昭和二九)年一〇月には、日本における運動に呼応し、サンパウロ市にある原子力兵器禁止人道十字会と協力して、原水爆実験反対署名運動や講演会を展開し、南米にセンセーションをまきおこした。一九五五(昭和三〇)年四月にはアララクワラ会合所(主任尾山フサヨ)、六月二五日には大本のサンパウロ支部(支部長早野一美)、ポアー支部(真下元治)、グワイーラ支部(浜田富太)、ゴヤニヤ支部(渡辺貞雄)、ツロカバナ支部(森静雄、のちジャッディーラ支部と改称)、アクリマソン支部(千種増吉)の六ヵ所が新設され、教団規則の改正にともなって、従来のブラジル支部は南米主会と改称した。主会長には近藤真弓が就任したが、その年の一一月一日には森静雄と交替した。また一二月にはウベルランディアに支部(支部長田中幸男)が復活した。
こうした気運をさらにもりあげるため、現地の幹部らは本部あて特派宣伝使の派遣を要請した。そこで本部は、第二次大本事件前に南洋群島の宣教に従事し、海外宣教の経験がゆたかな文字清美を派遣することに決定し、渡伯の準備をすすめた。入国の条件がむつかしいため、縁故者ひきよせの名目で渡航することになり、一九五六(昭和三一)年四月一五日、文字は神戸出帆の船で長途の旅につき、六月九日サントスに上陸した。同日、文字はブラジルについて最初にサンパウロ支部をおとずれたが、将来の発展を期するためには、同支部におかれている大本南米主会および人類愛善会南米本部の事務所を、もっと便利な場所へ建てねばならないと決意した。さいわい幹部・各支部長一同の賛成をうけ、また当時の主会長森静雄から土地献納の話もあった。しかしぼうだいな建設資金を要することなので、建設着工のかたから、まず信徒倍増をはからねばならなかった。宣教のきっかけになったのは病気のお取次で、どこへ行ってもお取次を依頼された。またみ手代でのお取次は一〇〇%神徳をいただくので、ブラジル人の依頼もますます増加していった。
文字は人類愛善会南米本部長を兼任し、宣教の方針としては、人類愛善会が政府に公認されていたので、思想運動ばかりでなく、宗教活動もあわせてみとめられているとの解釈のもとに、すべて人類愛善会を主体として活躍し、人類愛善会への入会をもって大本入信とするとりあつかいをおこなった。入信徒のおおくは移民以来三〇年以上もブラジルに住んでいる人たちで、神書類もかな付でないと読めない実情であったし、また、過去帳をもっていない人がおおいので、祖霊復祭には日本へ問いあわせたうえでのこととなり、大神様奉斎から祖霊復祭まで長期間を必要とすることもあった。宣教活動と愛善堂建設という寸暇をおしんでの文字特派の活躍によって、教勢もしだいにのび、一九五七(昭和三二)年には、奉斎信徒も一三〇戸となり、人類愛善会の会員は二〇〇〇人をこえるようになった。このなかにはブラジル人が非常におおく、通訳として文字に協力した森静雄主会長の活躍もめざましいものであった。戦後はじめて本部からの特派宣伝使をむかえて、信徒の宣教意欲はもえあがり、大本教義への理解がふかまって信仰がしだいに定着していった。
愛善堂は、サンパウロから三〇キロ奥のジャンディーラの小高い丘陵の中心に建てられることになった。最初は一五〇万円ぐらいの予算であったが、二〇〇万円を超過するようになった。出口栄二・広瀬静水の渡伯が七月中旬の予定となったので、六月末までには完成したいと努力したが、遅々としてはかどらなかった。一方、文字の永住届が、六〇才をこえるという理由で、再度の申請にかかわらず許可されなかった。
こうしたくるしい状況のとき、出口・広瀬が欧州宣教の旅をおえて七月一五日にサンパウロの空港へ到着した。二人の活躍はすでに前述したが、この二人をむかえて信徒一同はますます神業奉仕に邁進した。愛善堂建設も、宣伝使による資材の献納・献労があいつぎ、一〇月一三日には盛大な完成奉告祭が執行された。祭典後、文字執行委員長および出口栄二のあいさつ、来賓としてコチア郡郡会議長ルーベンス・カラメーズやバルエリー市副市長ネストール・カマルゴの祝辞、信徒代表ラザロ・デ・オリベーラ(陸軍軍楽隊長)のあいさつ、建設局長森静雄の経過報告、ついで功労者六三人に記念品が授与された。付帯工事はその後もつづけられ、一九六〇(昭和三五)年一〇月大広前天井張りをもって工事はまったく完了した。愛善堂はサンパウロ市郊外ソロカバナ線ジャンディーラ駅フェルナンド・ぺッソア街二一一番に位置し、神殿・大広前の建坪は九三・四六四坪(三〇八・九七五平方メートル)で、総工費は日本円に換算して二〇五万五四六九円五〇銭である。
なお愛善堂の施設は、その後も増・新築され、付属建物をくわえて五棟、二一九・五二二坪(七二五・六九〇五平方メートル)となった。神殿・大広前の後方に講堂(一部修行者用宿舎)四二・三五坪(一四〇平方メートル)、左側に事務所・修行者用宿舎六五・八六坪(二一七・七二平方メートル)、浴室・洗濯場・物置一一・〇六坪(三六・五六平方メートル)、便所六・七九坪(二二・四四平方メートル)が、神苑敷地三一四一・一四六坪(一万〇三八四平方メートル)に配置され、周囲には運動場・果樹園・野菜園があり、花卉・葉緑樹・熱帯樹なども植込まれている。この間文字・鈴木・有川各特派の時代におよび、こうして南米の地に愛善堂を完成させた信徒は神教宣布へと邁進してゆくこととなる。
文字清美は在伯一年有半、宣教活動にかかやかしい足跡をのこし、苦心の結晶たる愛善堂建設をみたのち、一九五七(昭和三二)年一〇月二五日サンパウロを出発して海路帰国の途についた。文字の帰国にともない、人類愛善会南米本部長の職は森静雄にひきつがれた。文字は一二月一四日神戸に入港し故国の土をふんだが、その後任として鈴木孔喜派遣宣伝使が、同年一二月一七日南米にむかって羽田空港から出発した。
鈴木は一二月二〇日ジャンディーラの愛善堂に着任し、一九五八(昭和三三)年をむかえて本格的な宣教活動を開始した。のこされていた愛善堂建設資金の精算につとめる一方、各地へ次々にお取次と宣教の旅をつづけ、講演会・座談会をひらき、入信手引や組織化へ昼夜をわかたぬ活動を展開した。宣教にあたっては、人類愛善会への入会と大本への入信を区別し、とりわけ入信者の大神様奉斎・祖霊鎮祭に意をもちいた。またブラジル人信徒のなかに、第二次大本事件前より一貫して大神様奉斎をつづけている状況をみて感激した鈴木は、ブラジル人の入信者にたいしても大本祭式による奉斎・鎮祭をすすめ、あたらしい分野をきりひらいていった。この年の一年間における宣教回数は一七地区・一二八回となった。入信者は五〇〇人(うちブラジル人一七二)、奉斎・鎮祭家族二九(うちブラジル人八)をかぞえ、イピランガ(支部長田力常信)、ツクルビー(高橋恒男)、イタペビー(草野嘉明)、アララクワラ(向井静喜)に大本の支部が設置された。この間四月六日には信徒家族慰霊祭が執行され、六月一八日には愛善堂で、日本移民五十年記念ならびに先住物故者合同慰霊祭がおこなわれた。またこのころから、ブラジル主会報も発行され、着々と内部の充実強化がはかられていった。
一九五八(昭和三三)年は、開祖四十年祭・聖師十年祭にあたるとともに、昭和三年三月三日のみろく大祭から満三十年目、さらに三代教主の満五六才七ヵ月という意義ふかい年にあたっていた。この祭典に参列するために、ブラジルからは主会を代表して、主会長森静雄・愛善堂奉仕の田力常信・サンパウロ支部長早野一美の三人が、六月一〇日サントスを出港した。一行は七月二六日に神戸に上陸した。聖地亀岡の瑞生大祭に参拝して、大道場や祭式の講習などをうけ、一一月一二日サントスへ帰港した。正式代表の本部参拝はブラジル宣教史上はじめてのことで、聖地をふんだ感激はおおきく、他の信徒たちにも非常な影響をあたえ、帰伯後、鈴木特派に協力して神業推進活動の中核となった。
なお、一九五八(昭和三三)年当時の往復旅費は、航空運賃でサンパウロ・羽田間一等一九〇コント六〇(約五七万円)、二等一五三コント(約四六万円)・航路運賃でサントス・横浜間二等八〇コント(約二四万円)、三等五三コント(約一六万円)で、航路往復には約一〇〇日を要した。
一九五九(昭和三四)年度も引きつづき宣教活動が強力におしすすめられた。鈴木特派による一年間の地方宣教回数は一七四回、大信者は四一九人(うちブラジル人二八八)、奉斎・鎮祭家族九五(うちブラジル人四九)となり、とくにブラジル人の入信・奉斎・鎮祭が日系ブラジル人をうわまわってきていることが注目される。愛善堂への参拝者が増加するなかで、サンパウロ、とくにラッパ区のブラジル人参拝者が神徳をいただいていた。そこで人口三八〇万をこえるサンパウロ市の宣教にはとくに意がそそがれ、同年一〇月二五日にははやくも、ラッパ区イポジュカの丘の上にサンパウロ連絡所が開設された。この連絡所の開設が、その後の都市宣教の伸長、およびブラジル人支部五ヵ所を新設する素因となった。
こうした状況に対処して、この年の一一月にはポルトガル語綴りの大本祝詞一〇〇〇部を発刊し、翌一九六〇(昭和三五)年四月には、ポルトガル語の宣教用パンフレット『大本とは何か?』および『三鏡』の抜萃各一〇〇〇部が刊行された。また愛善堂の地権が一九六〇(昭和三五)年の三月一七日に正式に許可され、森静雄夫妻の献納した土地「九二六八メートル平方二」(約二八〇〇坪、時価二万クルゼーロ)が、正式に教団の所有地となった(その後の献納をくわえた総面積は一万〇三八四平方メートル、三一四一・一四六坪)。そして六月には支部長・宣伝使会がひらかれ、田力常信が主会長となった。
八月四日、鈴木特派や信徒の努力が実をむすんで、大本の南米主会が「大本教会伯国本部」として、ブラジル国の宗教法にもとづき政府から認証され、一〇日のサンパウロ州官報に公表された。これは従来、人類愛善会活動が宗教活動をもふくめてみとめられているとの解釈であったのにたいし、その後現地の専門家の調査によって、人類愛善会が宗教活動をおこなうことはみとめられないとの注意があったので、宗教法人としての認証の申請手続きをおこなったものである。しかし、反面、宗教団体はいっさい政治に関与できないたてまえとなっているので、ブラジルにおける大本の活動は今後、人類愛善会と大本教会の二本だてですすめられることとなった。
「大本教会」の設立趣意書には、「宇宙創造の主即ち独一真神を崇拝し奉斎し、支部団体信徒の為に祭事を行ない、信仰の向上と徹底を図り、世界人類の真の幸福親和及び永久の平和、人類救済の為に努力をつくす事」とその目的が明記され、さらに「大本の宣教目的とする講演会、書籍出版物、祭典、結婚式、洗礼、葬祭等宗教的行事を執り行う」など一二ヵ条にわたって規定されている。
宗教法人として公認されたことは大本のブラジル宣教史上はじめてのことで、地権の入手とともに、今後におけるブラジル宣教に不動の基礎が確立された。とくにカトリックを国教とするブラジルで公認されたことの意義はみのがせない。一一月一三日には大本開祖大祭遥拝祭ならびに主会祖霊合祀祭を執行し、三五二三柱の霊魂が合祀された。この一年間における鈴木特派の各地宣教活動は一八三回におよび、大信者は二七六人(ブラジル人二四〇)、奉斎・鎮祭家族六四(ブラジル人四四)、ソロカバ(支部長大西芳信)、コチア(植木武夫)のほか、アルト・ダ・ラッパ、イポジュカ、ラッパ、フレゲジャ・ド・オ、オザスコにブラジル人支部の新設をおえ、ブラジル人への宣教は一段と進展をみせた.鈴木特派の後任として有川潔宣伝使が、一一月二日神戸を出発して渡伯し、一二月一一日愛善堂に着任して事務引継ぎをおこなった。鈴木特派は一九六一(昭和三六)年二月二八日、空路にて帰途についたが、その間にも入信者二九人(うちブラジル人二〇)と奉斎・鎮祭家族一二(うちブラジル人四)をみちびいている。途中ロサンゼルスにたちより、原田宣伝使に協力して宣教活動をなし、七月八日三年半ぶりに聖地亀岡の土をふんだ。
こうしてブラジルの教勢は、画期的な進展をみせ、有川はこの軌道に乗って活動を展開し、五月には、サンタ・アリセ(支部長溝口慶一)、サン・ジョゼ・ド・リオ・プレット(尾山嘉夫)に大本の支部が新設された。
ポルトガル語による布教は、はやくからブラジルにわたり、大本の教線を開拓した人々にとって多年の念願であった。しかも、その後入信・奉斎するブラジル人信徒や、日本語を解さない日系二、三世の数もしだいにおおくなるにしたがって、その必要性はさらにたかまり、教勢の拡大と信徒育成のうえからも、当面する緊急の課題となってきた。そこで有川は信徒有志の協力をえてポルトガル語による定例大本講座・文書宣教を積極的に推進し、組織的宣教と信徒の育成に力をそそいだ。ポルトガル語のパンフレットとしては、『大本教義学習の必要性』『平和への道』『ご神徳談(救世主讃美)』『大本の使命と人生の意義』『五つの愛(道の栞)』『人型大祓』などが、ガリ版刷りやタイプ印刷でつぎつぎと作成され、お取次とともに、信徒の育成や対外宣教におおきな役割をはたしている。
特派宣伝使の派遣以来、ブラジルでの大本宣教は急速にのびて、支部・連絡所は二一ヵ所に設置された。一九五八(昭和三三)年一月から一九六一(昭和三六)年二月までの三年間に大信奉斎した信徒二〇六人(世帯主のみ)の年令をみると(表⑴)、五〇才未満が日系では全体の七〇%、ブラジル人で六〇%を占め、とくに三〇~四〇才への滲透がいちじるしい。またその職業をみると(表⑵)、日系の場合は農業・商業が全体の六四%をしめ、ついでサービス業の一一%(うちクリーニング業が六世帯ある)、工業・勤人はわずか一四%となっているのにたいし、ブラジル人では工業・官吏・勤人が全体の六六%をしめ、農業・商業は一四%にすぎず、きわだった対照をしめしている。こうした傾向は、最近における、若い世代、とくに二世・三世の擡頭、開拓移民の歴史と土着化、新興国としての産業構造を投影して、今後の宣教におおくの示唆をなげかけている。
〈メキシコ〉 メキシコでは、戦争中宣教活動は一時中止されていたが、終戦後大塚良郎はたえず本部と文通し連絡をたもっていた。一九五六(昭和三一)年九月には、メキシコシチーのタクバヤ区に大本の支部を設置し、支部長に碓井重憲、次長に宮本温・指田平陸が就任して拠点ができたので、大塚はその年一一月に東京に引揚げた。その後も東京から指導と連絡をつづけ、メキシコからの参拝者や修行者もしだいにおおくなってきた。その後、出口・広瀬・原田宣伝使らがたちよって、本部との連絡も緊密となり、一九五九(昭和三四)年には碓井支部長が日本を訪れ、大本開祖大祭への参拝・道場修行をおえて帰墨し、宣教もしだいにもりあがってきた。
〔写真〕
○本部特派をむかえてブラジルの教勢は飛躍的にのびた サンパウロ支部をおとずれた文字宣伝使(前列左から5人目) p1213
○よろこびの顔…顔…日 伯人の努力によって愛善堂はついに完成した 当日の参拝者 p1215
○拠点の充実とともに大本の教えはブラジルに根をおろしていった 主会支部幹部と鈴木宣伝使(中央) p1216
○ブラジル人信徒にたいしても大本祭式による大神奉斎 祖霊鎮祭に力をそそいだ 各家庭の壁にとりつけられた神床と斎壇 p1217
○サンパウロ連絡所 2階神前 1階講座室 地下室 p1219
○障害をこえてブラジルの教勢はさらに進展する サンパウロ連絡所での受講者と有川宣伝使 p1220
〔図表〕
○表⑴ 入信奉斎信徒(世帯主)の年令別構成 p1221
○表⑵ 入信奉斎信徒(世帯主)の職業別構成 p1221