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文献名1大本史料集成 2 >第1部 明治・大正期の運動
文献名2第1章 出口王仁三郎関係文書よみ(新仮名遣い)
文献名3第3節 大日本修斎会創立要旨よみ(新仮名遣い)
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本文    (一)
 世界に於ける信仰界の混沌たるや既に久し、曰く庶物教、曰く多神教、曰く一神教、曰く自然神教、曰く万有神教、曰く汎神教、曰く懐疑説、曰く自然説、曰く物質説、曰く理性説と、嗚呼何ぞ徒らに多岐駁雑を極めて統一を欠くことの甚だしきや。斯の如く諸説紛々として帰着する所無しといへども、一言にして其根本の相違を尽くせば要するに有神と無神、一神と多神との見解を異にするに過ぎず、抑もかの哲学科学の見地より唱道する無神論者の物質説及び理性説には末ありて本なく、元素若くは元々素が如何にして生じたるか又勢力が如何にして発したるかの根元的大問題を閑却せり。若し夫れ一神多神の争ひに至りては宇宙万有の真組織の半面、若くは四半面を窺知せるに過ぎざる迷妄的僻見の所産にして、これ亦毫も取るに足らず、実を言ヘば之を摂理したる一神、之を統一したる多神にして、単に至上無二の一神なりとするも、又互に相助け相反する多神とするも共に正鶴に当らず。古往今来之を悟らずして紛争点としたるは真に洪歎措く能はざる所也。例へば袋に吾人の居住すべき一小家屋を新営せんとするに当りても、先づ其設計、監督に当る所の技師なかるべからず。之と同時に其設計に基きて実地之が施工に任ずる所の土工、石工、木工、左官、鍛冶工、屋根職等の諸職工なかるべからず。然るに単に事物の一局面のみを見、技師を以て全然家屋の竣成老とし、若くは職工を以て全然家屋の建築者なりとせば如何。一神多神紛争の如きは大体に於て斯くの如きのみ。独りこの間に在りて我固有の国教なる惟神の道は一神にして、同時に多神、天地を以て教範とし、日月を以て証明し、有らゆる教義中高遠玄妙なる真理を蔵し、之を小にしては日本の国是、之を大にしては世界の平和に契合したる天下の大道也。然るに中古以来幾多偏狭邪悪なる宗教学説の輸入せらるると共に漸次斯道の衰頽を来し、殊に最近数十年間滔々たる西洋産出の悪流毒波に侵さるるに及びて、冠履顛倒、順逆を誤まり、秩序を失ひ、幸に生を我神国に享け乍ら神道の如何なる教理なるかも知らず、又我等国民が如何に至大至重なる天職を帯びたるかも自覚せず、徒らに権威を外国の経典学説に求め、他の糟粕を嘗めて真の研究の何物なるかを悟らず、噴火山上に坐するにも似たる此千万世一遇の秋に酔生夢死の愚生活に満足せんと欲するは嗚呼果して何の状ぞや。
 抑も我日本は宇宙の精を鐘め世界の粋を抜きて、自から他の諸邦国と全然建国の基礎を異にし、諸冊二神の天の御柱を回りては男尊女卑の別あるを訓へ給ひ、又高皇産霊神は皇御孫の天降り坐すに際して、天児屋根命、天太玉命に忠孝の大義を教ヘ伝ひ給ひ、天神極を立ててより、天照皇太神の「豊芦原の千五百秋の瑞穂国は、是れ吾子孫王たる可き地なり、宜しく爾皇孫行きて治せ、宝祚の隆んならんこと、天壌と共に窮りなかるべし」と詔り給へし事の如く、連綿として堅石に常磐に、万世一系尽くることなく絶ゆることなく、天津日嗣の高御座は三種の神宝と共に、つかの木の弥継々に列聖之を継承して、動かざること天津磐境の如く、変らざること松の緑の如く静かなること林の如く、安らかなること春の海の如くして、他国に於ける権臣強族の各恣に其国を建て其号を改め、或は夏と称し殷と称し、周と称し、普王と称し、独帝と称するが如く時代によりて変遷あることなく、神恩遍くして未だ曾て擾乱争奪を敢てする所の逆臣賊徒を出さず、又一朝国難に際会するや挙国の民は皆雄猛びに猛びて「山行かば草生す屍、海行かば水漬屍、大君の辺にこそ死なめ閑には死なじ」と言挙げして義勇忠誠の兵士となり、八百万の天神地祇の荒魂は此に武装し給ひて猛烈無比の軍神となり、常に仁義の皇師に厚き冥護を下し給へり。弘安四年筑紫潟に於ける元冦の殲滅は歴史の証明したる好箇の適例ならずと云はんや。

   (二)
 世界の広く万邦の多き我国より彊土の広く豊かなるはあらん。民衆の多く、衣食住の安楽を享有するはあらん、亦万世一系なるものも或はあらん。富国強兵にして四隣を慴伏するものも或はあらん。然れども我国の如き無比独特の神話を有し、赫々たる神護の霊異を有し、豊芦原の中津国の称へによりて四時不足なき天産物を有し、細矛千足の国の号を負ひて国民は勇武に、玉垣の内津国と言挙げし給へし如く、位置は万全無敵の要塞をなし、亦大義上に明かに名分下に正しきを以て、異邦よりも君子国と名づけられ、由来東海の一隅に偏在する弾丸黒子の小島を以てするも、国体の精華たる天地正大の気は、粋然として独神州に鐘り、秀でては富士の嶽となりて巍々千秋に聳え、注いでは大河の水となりて洋々八洲を環り、凝っては百錬の鉄となりて鋭利能く矛を断ち、爰に万邦無比の日本魂を成す日本魂は如何に他邦人の練磨修養せんと腐心するも、固より可能的心性を有せざるを以て、決して会得すベからざる日本国民の専有に属する至大無量なる神賦の分霊に外ならざるものとす。此に於てか世人の多くは或は疑はん、宇宙万有を造れる至慈至愛の神は一視同仁にして万国同民に坐せり。他邦に於て太極、天、大日如来、弥陀天帝、仏、エホバ、ゴット、べールス、イラー、ゼウス、ゴタ、アダム、イブ、アラマ、ビシニス、シウアと称するは、恰も我国にてヒと云ふを支那にてはクハと云ひ、英国にてはフアイヤと云ひ、印度にてはラと云ひ、国の東西に由って称呼を異にするも、其実物に就いて仔細に之れを点検すれば、等しく之れ同一物なるが如きのみ神の御名こそ異りたれ列国の何れもが各個別々に、宇宙創造の神を有すべからざるは無論にして、畢竟我国史の所謂、天之御中主神と同一体に過ざるベし。然るに日本にのみ其幸を厚ふして、此恩徳の他国に均霑せらるるなきは如何。神は一視同仁に非ずして不公平なり、至慈至愛に非ずして酷薄偏頗なりと云ふも可ならずやと。然り神霊界組織の秘奥に通ぜずしてはこの疑問は永久に解決し難し。大日本修斎会は是等の疑問を細大洩らす所なく解決し、我日本主義即ち神道教義を以て神人両界の統一を期すべき、至高至難の使命を自覚体得して、去る明治二十五年馥郁たる芳香は既に去って、梅子の将に黄熟せんとするの時に於て創立したる也。爾来漸次其地歩を堅くし、三十二年七月、三十三年四月、三十四年一月、四十一年十月の四回に一旦りて内部を整理し、会則を訂正したるは一に会務の拡張に応じたるものにして、以て今日に及びたりしも、今や又会務の膨張は之れに満足する能はざるものありて、更に大に規模を拡大し以て時代の要求に順応せんと努力し、一日として休止することなき也。

   (三)
 今や本邦に於て独立して神道教義を唱道するもの、十又三派の教派を数ふ。而も其一二を除くの外は、全然確立したる一定の教義を有するものなく、何れも皆微弱にして論評すべき価値を有せず。滔々として教導職たるの辞令を競売し、禁厭祈祷神占の所得税徴収所を以て甘んずるに過ぎず。又漫りに吉凶禍福を説きて痴人愚婦を惑はして金品を詐取し、悉く皆之れ淫祀邪教たるの範囲を脱し能はざる有害無益の魔教たるを断言するに憚らざるもののみ。斯かる邪教の存在は啻に接化輔導の任務を全ふする能はざるのみならず、却て世人の向上的信仰を傷け、順正なる国家の秩序を紊り、潔清互に期すべき公共的衛生を害し、静謐なる公安を破り、進取奉公の教育を妨げ、又社会文化の発展を害し、其弊害や決して些少ならざるものあり。此妖魅教の国家に存するは恰も国家に黴菌の付着したるものの如くして、由来潔癖の美質ある我国民の之れを殺菌し之れを消毒し今に於て之れが病因を撲滅するを怠り、依然として悠々閑々たるは実に我帝国臣民の一大恥辱なり。其他個人にして神道を鼓吹するもの、多くは之を仏書の解釈に由り、或は易理の陰陽五行説に由り、或は垂加一流の理性観に由りて説き、又或者は日月の運用に基因せざれば以て神道を解すべからずとなすものあり。又或物は神籬磐境を理解するに非ずんば以て皇道を説くべからずとなすものありて、各先入主となりたる一小局部の自説にのみ惑溺して、仏に由らざる儒に由らざる、陰陽五行に由らざる、両部に由らざる、純神道を宣伝するもの絶えてあるなく、我神道界は実に混沌たり、迷濛たり。本会は純神道を標榜して以て天下に旗幟を飜ヘしてより茲に二十有五年、神道固と唯一にして二あるべからず。然るに在来の神道家なるものの多くは、儒仏的見解に由りて之れを説き、神典を説くに当って、一も惟神の遺訓に従ひ、本来の真伝に由って之れを宣伝するものあることなく、儒教的神道ならざれば仏教的神道説たるなり。例へば黄金の物質的説明を為すに当りて、色の同じきに由り真鍮の主成分を以てするが如く、固より其教義の正鵠を得る能はざるものたるや、論を俟たざる俗神道一流なるのみ。本会は幸に年来の研鑽と神授の冥教とに由りて、古今に通じ東西に亘りて、神秘の奥妙を会得し、堅く鎖したる幽界の関門を開くの鑰鍵を得、幽顕の両界裡に自在に出入往来して神仏の直授を受け、他説の沓を隔てて痒きを掻くの感ある如きものに比較すれば、其意高遠に其義明白にして其差宵壌も亦啻ならず。而して今尚ほ日々夜々冥教に接して、将に起らんとする顕界の殃災祥福を知悉し、一々神勅によりて行動するは勿論、幽冥界の状態亦掌を指すが如くにして其至妙至深なる、真に驚嘆措く所を知らざらんとす。此に於てか本会は他の淫祠邪教と明瞭なる識別を立てんが為め、殊更標榜して純神道と云ふ、敢て異説を唱ヘ亦好んで奇説を衒ふものに非ざるなり。
 抑本会は政、教、慣、造を以て皇道の四大主義とし、皇道霊学講究の大教綱を定め、神を種別して、天之御中主神及び別天津神の如きを幽の幽と云ひ、天照大御神及び素盞鴨命の如きを幽の顕と云ひ、大已貴命の如きを顕の幽と云ひ、皇御孫命の如きを顕の顕と云ひて四種に分類したり。従来俗神道者流の神は皆悉く隠身なりと云ひ、或は亦現身なりと云へるが如きは、共に其一部分を知りて全豹を達観せざるの偏見なり。又彼等は何れの神も悉く至善至美大慈大悲にして、吾人の為め殃災を攘ひて幸福を下し、罪過を除きて寿禄を与へ給ふ正神善神のみなりと思惟し、而して其半面には最も恐るべく厭ふべき邪神界なるものありて、盛んに病災困厄を伝播しつつあるを知らざるは大なる誤想にして、今日邪教淫祠に付属する教師輩の施行する祈薦なるものの大半は、此邪神に魅せられたるものの類のみ。嗚呼亦怖るベく寒心すベきの至りならずや。本会には斎殿に於て朝夕奏上しつつある感謝祈願の詞あり、近く本誌に掲載すべければ読者は之を一読して本会教義の大要を知悉されんことを希望す。

   (四)
 次ぎに宗教家なるものの謬想に対して此に聊か一言する所あらんとす。
 古来宗教家を以て自任するものは曰く、宗教家なるものは総ての愛着と総ての欲情に離れ、衣は寒暑を防ぐに足り、居は雨露を凌くに足り、人爵を見る尚ほ弊履の如く、富貴を見る尚ほ浮雲の如く一箪の食一瓢の飲以て身を風雲に托すべしとし、遁世隔離するを以て宗教家の本領となすものの如かりき。之れ果して宗教家の当然の行為なりとせば、国民は挙って山に逃れ或は遁世して、邦家は茲に全く廃滅に帰すベきなり。誰あって国家の保持に任じ、誰あってか社稷の祭祀を継がんや。勢斯の如くんば国家は国家の存在を持続せんが為め、予め宗教家たらんものの数を制限するの必要あらん。本来宗教なるものは、時の古今に通じ国の東西に亘り、世界の人類を挙げて、男女老幼賢愚を問はず、斉しく信奉するに適応せるものならざるべからず。男子に適して女子に適せざるものの如き、或は幼者に適して老者に適せざるものの如き、或は甲の国に適するも乙の国に適せざるものの如きは、真の宗教たる要素を欠きたるものなり。蓋し斯の如きは其始め仏教の迷想を墨守して、遂に此弊習を馴致したるものにして、実に頑迷愚劣其極に達したる亡国的信仰と断ぜざるを得ざるなり。
 我神道教義は其根源を訊ぬれば祭政一致に起因せるものにして、純神道は世界の精神界を統一して国利民福を謀るを以て最大眼目となす。故に遁世の如き国利民福に背馳する所為は、極力之を排斥す。隠遁は優勝劣敗の社会に落伍したる結果にして、薄志弱行者の代名詞に過ぎざるべきなり。苟くも宗教家を以て任する者は二六時中間断なく悪魔外道と戦ひ、愍れむベき無辜の民を慰撫し、接化輔導に勉めて、世を救ひ人を補益するの覚悟なかるべからず。然り造次顛沛も此覚悟なかるべからずと雖も、各人其職業を抛棄し、家務を等閑に付するが如きは、未だ宗教々義を会得せざる半可通の所為にして、商工は其業に励みて以て国益を計り、文武百官其他は其職に勤しみ、以て忠実至誠を致し、而して常に胸底斯心を離れざるべきを要す。かくてこそ宗教々義の真諦を悟了したるものとこそいふべけれ。我建国創造の諸神何れか隠遁離脱し給ひたる何れも皆活躍以て万有の生成に任じ給ひしに非ずや。是を以て本会は隠遁を排して活動を主義とす。

   (五)
 世人の多くは少しく不如意の逆境に立つや、快々憂鬱して遂に世上の総てを悲観し、其極隠世の人となり、社会の廃人となるに至る。夫れ天下は一人の天下に非ずして天下の天下なれば、総ての円満々足を要求するは非望の野心なり、貪欲飽くなき豺狼の心なり。何人も時に多少の不満足を感ぜざるを得ず。否世事の大半は常に予想外なるを定数とし、十を望んで一を得、百を得んとして僅かに十乃至廿を得るを限度とす。一小挫折に屈撓して又起つの勇気を喪失し、悲観に陥るは薄志弱行の徒にして与に談ずるに足らず。宜しく一頓挫に遭遇する毎に愈勇気を鼓舞し「憂き事のなほ此上に積れかし限りある身の力試しに」の大元気を以て当る可し。徒らに悲観迷想に耽って、遁世し廃人となるは即ち国家無用の人となるを免れず。天の蒸民を生ずる必ず之を有用の材たらしめんがためにして、之れに反するは天理に戻り、神の罪人となるものなれば、須らく自己の運命を全然神明に託し、愉々快々嬉々楽観して其職に従事し、生ある間は必ず世を益し人を益する事に勉めざるべからず。我祖先に在し坐す神祇中何れか悲観し給ひたる。何れも皆天神の命の随々、楽観以て国土経営の任に当り給ひたるに非ずや。是を以て本会は悲観を排して楽観を主義とす。

   (六)
 富貴と逸楽とは人々の常に渇望して息まざる所恰かも大旱の雲霓を望むが如きものあり。然れども居ながらに富貴を求めて富貴は来るものにあらず、富貴を得んとせば須らく先づ、充分なる労苦を払ひて而して後始めて之れを得べし。逸楽亦富貴と同じく、響きの声に応ずるが如く容易く得べきにあらず。労苦を払はずして無償に之を一攫せんとするは、不当の所為にして其結果は到底知るべきのみ。其肉体は或は安楽なるが如きものあるべきも、神霊の苦痛たるや肉体の呵責よりも却って一層堪へ難きものあらん。語に曰く「楽み驕楽を楽み逸遊を楽むは宴楽を損す矣」と。逸楽の亡国の兆なるべきは殷鑑遠からず之を印度羅馬の衰亡に見、又我国奈良朝の廃頽に見よ。古今東西の歴史は是を証明して、殆んど余蘊なきにあらずや。実に逸楽は自己の精神に何等の慰安を与ふるものにあらずして、却って四肢五官の放縦を馴致し、少利なくして大害を醸し、国家に益する所なきのみならず、遊治郎となりて進取活動の士気を消磨し、一家に有害なる廃人たるべし。逸楽徒食は固より国家の罪人を以て、俟つべきものにあらずと雖も、手足を労するなくして粒々辛苦になりたる国家の粟を食み、勤倹貯蓄したる父祖の遺産を漸々喪失しつつあるものは、確かに国家の一害虫なりと云ふベし。殊に国民として必ず遵奉せざるべからざる詔勅の「宜しく上下心を一にして忠実業に服し勤倹産を治め」亦「荒怠相戒め自彊息まざるべし」亦「砕励の誠を輸さば国運発展の本近く斯に在り」と宣り給へしに如何に応ひ奉らんとかする。各内に省みなば万死も亦其罪を償ふに足らざるべきなり。我国土の経営に任じ給へる神祇何れか逸楽の範を世に垂れ、亦吾祖先にして何れか遊惰の風を遺し給ひたる。今日吾人の享受する安穏なる生活は即ち皇祖、皇宗及び吾祖先の粉骨砕身経営苦辛の結果たるに外ならず。是に於てか本会は逸楽を排して治産を主義とす。

   (七)
 人類として世に生を享けたるもの、誰か生活の向上進歩を希はざらん。
 強いて弊履を穿ち、強いて破屋に臥し、強いて粗衣粗食を求むるが如きは人生の真意義を解せず、進取活動の気力を欠きたる没常識にして、極言すれば乞食的奇狂人ならずんば、野獣的蛮漢なりといふも敢て不可とせず。孔子の「賢哉回也 一箪の食一瓢の飲在り陋巷に人は不堪へ其憂に」
と云ひ又「衣敞てれたる温袍を与狐貉者と立て而不るは耻者 夫れ由也乎」と表面に於て賞揚したりしも其裏面より観察すれば貧の厭ふべきものたる事は瞭々歴々たるに非ずや。然るに此亜流の腐儒又軽徒の曹は稍もすれば恬淡無欲を唱ひ清貧と云ひ、三界無庵と云ひて天〔雨〕笠浪人を喜び、水草を逐ひし野蛮時代を追慕して、一個独立の生計を為し能はざるに至っては、啻に世を教化するの資格なきのみならず、国家の公民たる能はざる無能力者なり。
「不れば在ら其位に不謀其政を」其政事に与らんと欲せば、先づ其位を占めんことを要し、其位にあるや其品位を保たざるべからず其品位を保つは衣食住之れに副はざるべからず。恒産なき布衣の一寒生空拳赤手を以て夫れ何事をか為さん。伝に曰く「古之欲る明せる明徳を於天下に者は先つ治め其国を欲する治めんと其国を者は先つへ斉其家を欲す斉其家を者は先つ修め其身を欲する修んと其身を者は先つ正す其心を欲する正と其心を者は先つ誠にす其意を欲する誠其意を者は先つ致す其知を致すは知在をり格るに物に」と。自己の一家計を為す能はざる天下放浪の客にして、社会を指導し主人を教化せんとするは、冠履顛倒の最も甚だしきものなり。我国祖に坐す八百万神等は何れも皆貧賤を退け弱小を忌み生成繁殖豊富円満を理想として活躍発展し給へたり。例へば
 高皇産霊神
 神皇産霊神
の御神名を拝するつけても、生成繁殖を一の国是とし、永遠無窮に国家の繁栄と発展とを謀り給へることを理解せらるべく、亦
 豊斟淳神豊芦原千五百秋瑞穂国
 豊受姫神細矛千足国
 大国主神浦安国
 大日本日高見国
 面足神
 石長姫神
御神名及び国号によりて、我建国の当初高大豊富円満を以て一大主義として理想として、国土の経営に勤み万世一系の高御座は、天津磐境の弥堅く堅石磐石に富み栄え、大津辺に居る大船を綱打ちかけて引き寄する事の如く、世界の国の悉自から治ろひ来たらしむべき遠大の抱負を以てし給へし事は明白なる事実とす。亦祈年祭の祝祠を見るに、
 皇神等の依さし奉らむ奥津御年を手肱に水沫画垂り向股に泥画寄せて取作らむ奥津御年を八束穂の茂穂に皇神等の依さし奉らば初穂をは千頴八百頴に奉り置きて甕の閉高知り甕の腹満双べて汁にも頴にも称辞竟奉らむ大野原に生ふるものは甘菜辛菜青海原に住むものはひれの広物ひれの狭物奥津藻菜辺津藻菜に至る迄に御服は明妙照妙和妙荒妙に称辞竟奉らむと円満具足の限りを尽せるに至っては、愈以て我建国の国是は隠遁悲観、逸楽、貧賤等の劣悪主義ならずして生成繁栄高明豊富の、進取活動の膨張主義なるを悟了すべきなり、是に於てか本会は貧賤を排して豊富を主義とす。
   (八)
 頃者具眼の士にして斯道を研究するもの、漸々輩出したる結果として、在来神道家の頑迷不霊なるを慨き幽玄微妙なる惟神の神理の到底彼等の徒に委任すべからざるを思ひ、大胆にも自家研究の新説を以て猛然として立って、純神道を天下に呼号するもの二三にして止まらず。大体に於て吾人は在来神道家の愚劣なるに比較して雲泥の差あるを認め、又其意気を壮なりとするに吝ならず。然れども我神道教理の薀奥に至っては、皇道の大本に就きて其説を聴かず、其奥秘の真伝を得ずして単に自力を以て発見せんとし、寝食を忘れて深思熟考するは、恰も退いて網をあむを知らず淵に臨んで徒らに魚を羨むが如く、縦令十年廿年若くは五十年百年畢生を之れが自修に委ぬるも、遂に自己に何の得たる所のものなく、結局精神の昏濠を来たすのみにして、成功すべきの時なきことを断言するに憚らず。
 換言すれば赤手にして淵に臨み只水底深き所に游泳しつつある、或るものを魚と見て而して之を捕ふることを知らず、又膳羞として之れを味はひ、之れを咀嚼せしことなくして、之れを鯛なり鯉なりとし、其形状、活動及び味の如何を説明せんとするに異ならざるものならんかを恐るるなり。
 信教の自由なるは既に帝国憲法の保障する所なれば、諸君が有神無神又一神多神、其一を選択して随喜渇仰するも、亦無神論理性説を信仰するも、諸君の意志の発動に任せんのみ。信仰なきものに信仰を強ゆるは、酒類を好まざるものに酒精を薦むるが如く、百害あって一益あるなし・然れども諸君は幸に威霊赫々たる万邦無比の此大日本帝国に生れて日本臣民たる以上は、日本の古典、神話、歴史制度、文物を研究し、又溯って建国の始源及び我国の基礎精華を知り、顕幽両界の大秘奥を窮めざるべからざるなり。今や本会は尽忠報国、至誠有道の真研究者の為めに是等を研究するの便宜と機関とを施設して大いに諸君の来り投ぜられんを待つものなり。
      (「神霊界」第四十三号、大正六年一月一日)
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