文献名1大本史料集成 2 >第2部 昭和期の運動
文献名2第2章 昭和神聖運動 >第4節 神聖誌(抄)よみ(新仮名遣い)
文献名3回顧四十年よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
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回顧四十年
出口王仁三郎
苦闘四十年
余が始めて「皇道に目醒めよ」「日本人の使命を覚れ」と広く世間に叫んだのは明治三十年頃であつて、当時の我国は余りにも欧米の物質文明に眼を奪はれ、何でも外国人のやることは優れて居る、西洋人は乞食でも洋服を着て居ると感心したもので、当時の為政者、学者達は其の皮相的組織制度をのみ輸入せんことに急にして、取捨選択の注意を怠り又肝腎の己れの脚下を忘れて居た姿であつた。
言ふ迄も無く、広く智識を世界に求めることは明治天皇の御聖旨であつて、素より其れが達成の為に国民が奮励努力することは当然の務であるが、当時の国家指導者の意向を洞察し一般与論の動向を静観するに、皇基振起の大事を忘却せる所多く、余は当時、若し我国が長く斯る趨勢を続けて行くならば恐らく遠からざる将来に皇国を危殆に導くものであると、深く憂慮せざるを得なかつたのである。
それで斯の如く暗黒の谷に突進せんとする激流を導いて光明の野に注ぐ為には、何うしても自ら惟神の大道を修め広く皇道の大本を闡明する以外に途なしと信じ、余の一生を世界覚醒の大義の為に捧ぐべく決心したのである。
滔々たる欧米崇拝の狂瀾怒涛にもまれて大和魂の喇叭を吹き立てるのであるから、それは恰度群がる敵の大軍の真只中に単身飛び込むと同様、殆んど絶望に等しい業であつた。併し我国は神国であり、至誠を御国に捧げる純情さへ貫いたならば、神明も必ず照覧あることを固く信じ、事の成否は唯神の御心に任せ、己が身は祖国の礎石とさヘなることが出来れば有難いことであると観じて、動もすれば撓まんとする我心に自ら鞭打つて来たのである。
その当時は今日と大変違つて、一般に皇道の概意すら解する者殆んど無く、「宇宙の根本道」を信ずると言へば其れを肯定する人間が、「皇道の大本」を信奉すると云へば、それを以て不敬なりと余輩を盛んに攻撃したものであつた。
今日でも往々にして、皇道は、天皇の御道であるから臣下が是を云々すべきもので無い、等と云つて居る人があるが、それは君民一如の大精神を了得しないから其んな考へが生ずるのであつて、皇基を振起するといふ事は勿論天津日嗣の大稜威を宇内に発揚することであるが、それが同時に皇国日本の国威を万邦に輝かしむることであり、又我々日本人が全世界に雄飛することとなるのである。
顧みれば大正十年の所謂大本事件の予審決定書の中に、月刊雑誌「神霊界」の中に載せてあつた左の記事
「日本の国は日本のやり方で行かねばならぬのに……」
といふのを何う解釈したのか知らぬが、これが皇室に対して不敬であると云はれたのである。
「日本の国は日本のやり方で行かねばならぬのに」といふ言葉は今日なれば誰でも云ふことであるが、十年一昔、洵に今昔の感に耐えぬものがある。
斯くて新聞に雑誌に、或は芝居や浪花節にまでも、邪宗よ迷信よ不敬罪よと嘲り罵られ、国を挙げて余を悪魔か謀叛人かの様に印象づけられて仕舞つた。余は其の時、自分の苦労は露厭はぬが、皇道の大義の為に余に従つた多くの誠の人々が、道を往つては近所隣に後指を指され、家にあつては親、親戚に迫害され、何も知らぬ子供達までが学校で悲しい思ひをして居ると思へば、全く胸に焼金を当てられる様な幾夜を過ごしたか知れはしない。
而も其の当時は、美濃部達吉博士等が帝国大学の教壇で彼の様な学説を学生達に教へ、斯る思想に依つて薫陶された人々が、ドシドシと国家社会の上層部に送り出されて居た時代であつて、国体の尊厳も君臣の大義も弁へない人々が出鱈目な理窟を列べて、全く思想的百鬼夜行の世を現出して居つたのである。
その中を終始一貫、皇道の大旆を掲げて突進した余は、洵に剣の山や血の池や妖魔の群れる谷間を辿つて行く地獄の旅さながらであつた。
併し天運終に循り来て、今や皇道の叫び高らかに挙げられ、反つて美濃部博士が法廷に裁かれ、其の思想が徹底的に糾弾されて居る現状を見る時に、一層に感慨の新たなるを覚えるものである。
内患亦多し
斯くて苦闘四十年、狂瀾怒涛の真只中に、ノアの方舟を漕いで来た余は、その方舟に匍ひ上つて来る人々の種々雑多な思想や信仰に又悩み続けねばならなかつた。
凡そ国家革新の大業は、過去の総ての史実が明かに物語つて居る如く、決して生優しいことで達成出来るものではない。況んや皇道維新の宏謨とは天津日嗣の大稜威を普く人群万類に光披せしめ、以て過去の聖賢が渇仰した地上天国の建設を実現せしめることであるから、並や大抵の努力では到底完成されるものであらう筈が無いではないか。
それだのに余の周囲に集まつて来る人々の多くが、数年にして皇道維新が実現し、世界一家の神政が目の当りに出現するかの如く妄想し、剰さへ、其の一部には維新完成の暁には、天晴れ身を立て栄位に登り以て名声を竹帛に垂れようといふ満々たる野心を胸に包蔵して居たのであるから困つたものである。
宇内皇化の天業は、楠公の如く又西郷の如く、内に一点の私心を挿まず、己が身を犠として君国に捧げる至誠奉公の真人に依つてのみ成されるものであつて、而も其の前途には幾多の荊棘が生茂つてゐるものである。
とは言ふものの、勿論人間といふものは、決して最初から至粋至純の魂はあり得ない。幾多の辛酸を経て後始めて志の確立するものである。
故に世を警醒し大道を宣伝する者としては、門を飾つて客を誘ふ様な行為が正しいことで無いと同様に、徒らに門を狭めて晩成の士を其の第一歩で失望させてはならないものである。
余は今日迄に、
「今年の内に世の立替へが来なかつたら断然止めさせて貰ひます」
と強硬に膝詰談判をしに来る多くの人々を、諭し励まし言向和す為に何れだけ苦労したか判らない。
その人が止めることは自分としては何の苦痛もないが、一人でも真の大義に覚醒せしめることが君国への御奉公であり、又その人自身の本当の栄光も其処にあるのである、と思へばこそ、誰にも失望をさせない様に胆肝を砕いたものである。試練は人が故意に与へるものであつてはならぬ。人為を以て鉄槌を加へなくとも、神は大事を人に課せんとする前に、必ず強烈なる痛苦憂患を降してその真偽鞏固の心底を計り給ふものである。
だから余は去る者は決して追はない。と同様に来る者は絶対に拒まない。如何に世の溢者でも、当局の注意人物でも、又陰険な野心家でも、余は決してそれを拒んだことがない。その為に度々当局の誤解を受け、又世人の攻撃の的となつた。だがそれも致し方はない。
併し皇道の大義に馳せ参ずる者が、内に陰険な野心を包蔵してゐて、終りを全うし得るものでは絶対にない。そんな人々は悉く次ぎ次ぎに降る天の大試練に耐えることが出来ず、終に罵詈と嘲声を余等に浴びせ乍ら去つて行くのであつた。
又己の心に反省をなさず、自ら運命を開拓することをしない薄志弱行の徒は、
「幾ら待つても立替へが来ない。出口は嘘つきだ」
と騒ぎ立てた。
斯の如く余が皇道の大義に一身を蹶起してから正に四十年、その間世界も移り日本も変り、而して余の周囲も亦浮沈転変の一大絵巻物をなしてゐる。四十年の星霜! それは一個の人間にとつては随分長い歳月であるが、その間に於ける我国の推移も亦甚だしいものがあつた。
今や万人の口から皇道維新の声が叫ばれ、全人類の心に世界革新が要望されて居る時、辿り来りし我過去を思ひ、非常時日本の現状を眺め、而して将に来らんとする世界を心に浮べて、感慨の一入切なるを覚えるものである。
東亜経綸
余は大正十三年二月、徒手空拳、二、三の同志を従ヘて敢然蒙古入を決行した。支那語も蒙古語も皆目知らない我々が、我国の面積に較ベて殆んど十六倍の面積を有する彼の大蒙古、その民は慓悍にして支那民衆の古来恐怖する獰猛の民であり、加ふるに馬賊の横行甚だしく旅人を掠め生命を奪ひ日支人の奥地に入るものは一人の生還者も無いと伝へられてゐる此の土地に、大胆と云はうか無謀と云はうか、殆んど夢に等しい経綸を胸に描いて出て行つたのは果して何の為であらうか。
余は日本人口の増加に伴ひ発生する経済的不安を憂慮し、朝鮮に於ける同胞の安危を憂へ、次いで東亜の動乱の発生せんことを恐れ、此の時に於て満蒙の開発に着手せなくては、金甌無欠の我皇国も前途甚だ心細い事になるであらうと憂慮し、而も当時の国状を見る時此の場合誰かが悲壮な犠牲者となつて国民に一大衝動を与へる以外に覚醒の途が無いと考へたからである。
天皇の聖旨畏み、死を決して湊川に出陣した楠兄弟、僅か数千の手兵を以て足利四十万の大軍を敗る可能性が果してあつたか。「帰らじと予て思へば」の歌を遺して大君に命を捧げ、以て臣節を全うした小楠公。
「斯くすれば斯くなることと知り乍ら、止むにやまれぬ大和魂」と勤皇の大義に殉じた吉田松蔭。
事の成否は唯神の知り給ふ所である。若し楠公父子の心情を知り、松蔭の胸裏を察する人であつたならば、渺々として天に連らなる満蒙の大砂漢に、敢て屍を曝さうと覚悟した余の微意をも了解して呉れるであらう。
皎々として月明輝くパインタラの荒野に「身はたとへ蒙古の野辺にくつるとも日本男児の品は落さじ」の辞世を詠んで死を決した其の時こそ、正に余の前半生の終りであつたのである。而して仮令楠公の肉体は滅んでも其の霊は明治維新の志士に甦り、吉田松蔭は刑場の露と消えても其の生命は今も愛国の士に脈打つて居る様に、蒙古の野辺に一度死んだ余の魂魄も、決して其れで永遠に消えて仕舞ふもので無いと確信して居た。而して今日、彼の満洲事変の導火戦となつた殉国の士中村少佐の死を思ふ時に、余は何物か深い縁の繋りを感ぜずには居られないものがある。
昭和維新
昭和六年、突如として満洲事変が勃発した。それは我々から見るならば、当然何時かは起るべきことが起き、日本人として為さねばならぬことが終に為されたに過ぎないのである。併し現実に此の大問題に当面した其の時、流石は強烈なる衝動を全国民に与ヘずには居なかつた。
殊に此れを契機として声高く挙げられたのは「昭和維新断行」の叫びである。政治に経済に外交に教育に沈滞の極に彷徨して居た我国は、俄然、皇道の叫びに依つて光明への転機を見出さうとして、国家の現状に不満を抱いて居た人々は一斉に立上つたのである。
斯の如く澎湃として起る国家革新の潮流に、財閥も政党も学者も総ての既成勢力は其の影を潜めて、洵に昭和維新の達成が目前に約されたかの如き観があつた。聞く所に拠ると満洲事変勃発後一両年にして、皇道を唱へ日本主義を翳して結成された所謂愛国団体なるものが六、七百に達したといふことである。
その他愛国運動の為に巨万の金を捧げることを誓ふ富豪も現はれ、既成の政治的地位を捨てて国家革新運動に一生を挺する旨を宣言する人々も出た。
四十年の長い間、脇目も振らずに皇道を叫び続けて来た余としては、天運茲に循環して、我同胞の総ての口から斯の如き声が挙げられて来たことは、洵に喜ばしいことには違ひない。それで余に従つて有ゆる苦労を続けて来た同志の人々が、愈々待望の機到れりと歓声を上げたのも尤なことである。
併し過去四十年間幾多の体験をさせられた来た余としては、其等の声の殆んど総てが、根の無い水草の言騒ぎに過ぎない様に聞えてならなかったのである。
勿論一日も早く神の御心にかなひ天祖の聖旨に添ひ奉る皇道日本の基礎が確立して、九千万の同胞が天津日の御光に浴し、延いては全人類が皇大神の御恵みに帰向する有難い世の中が実現することは、誰でも一様に祈願し渇仰することに相違ないが、若し此れを成さんとする者が、皇道の真諦を体せず至誠の道を一貫せずして、其の方向を一歩でも誤るならば、反つて国家を混乱に陥れ、国民の間に多大の犠牲者を生じ、遂に皇道維新の真目的を達成することが出来ないことになりはしないであらうかと、当時から余は密かに憂慮して居たのである。
而して嘗て皇道の大義に基いて余に従つたと言ふ多くの人々の内、或は胸に野心を蔵する者、或は破壊的狂暴性を有するもの、或は忍耐力無き薄志弱行の徒輩が悉く彼の十年事件で離散したと同様に、所謂日本主義を標榜する愛国団体の陣営にも、必ず一度は祓戸の台風が来なければならないものであると思つて居た。
果せる哉、神意に基かず誠の道を進まなかつたものは、当然天の審判を受けて今や悉く壊滅に帰せんとし、名誉欲、権勢欲から完全に脱却して居なかつた人々は、一時の気概は何処ヘやら、漸次態のよい転向を今日続けて居るのである。
併し、洵に古人の言葉の通り「幾多辛酸を経て後志始めて堅し」であつて、此の難関を突破しなかつたならば、決して至誠の魂は磨き上げられないのである。
今や内外の非常時、愈々逼迫し来るを痛感する時、余は更めて昭和神聖会会員諸君にハッキリと知つて置いて頂き度いことがある。それは、皇道精神とは霊主体従の精神であるといふことである。故に先づ一番大切なことは、我々自身が水晶の誠心に魂を清めることであり、九千万の同胞を其の精神に悔改めさせることである。誠の魂を作らずして神政は決して実現出来ない。霊魂の改造を行はずして国家の革新は断じて完成されない。腹のドン底から此れがハッキリと悟れない者の激越な言葉や狂暴な行動は反つて真の皇道維新を遅らせ祖国を愈々危殆に導くものなのである。
霊主体従の道
日本精神とは霊主体従の精神の意であつて、物質よりも霊魂を重んじ社会制度よりも国民の精神を正しくして国家を治めんとするものである。
余は不安なる内外の世相に当面して、斯る立場から特に一般国民に広く告げて置き度いことがある。それは人の肉体は滅ぼすことは出来るが、人の手に依つてその魂をも殺して仕舞ふことは決して出来ないといふ事である。昔から「一寸の虫にも五分の魂」と云ふし、又霊魂の不滅を信ずる人々にとつては是は至極平凡なことであるが、真にその意義を理解して正しくその精神に基いて行動する人が今の世には実に尠い様である。
例へば国家社会の実状を憂ふる者が、国家を荼毒する元凶なりと信ずる者を殺害するとしても、又その反対に真に祖国の為に奮闘する憂国の士が、民衆の誤解の為に或は時の勢力によつて悉く斬伐されるとしても、その魂は必ず間も無く新なる人々に憑依して前以上の力を発揮するものであるといふことに気が付かねばならない。それは七生報国の忠臣の魂が生通しであると同時に、国家の逆臣の魂とも雖も悔改めによらずんば人間の力では此れを殺滅することは出来ないものである。
故に皇道運動は飽まで思想の善導であり、魂を悔改めしめる運動であらねばならぬ。嘗て紀州頼宣公が孝の道を知らない罪人に対して儒官たる李梅溪をして孝経を説かしめること三年、孝道を悟らしめて而る後に刑を行つたといふが、寔に立派なことである。刑罰は罪人をして悔改めしむることに主眼を置かねばならぬ。だから共産主義者を手当り次第に獄に投じ、又重刑に処したとしても、それによつてその思想を永遠に我国から葬り去ることは絶対に出来ないものである。
満洲事変の勃発と共に、左翼陣が次ぎ次ぎに壊滅して行つたのは、皇道精神、日本主義の叫びが澎湃として全国に挙がり、思想的に共産主義がそれに撃滅されたものであつて、刑罰を以て社会善導の第一義とするのは体主霊従の行方で間違つた考へである。
現在の経済組織にも幾多の矛盾があるであらう、政治機構にも尠からぬ誤謬があるであらう。だが其等の指導的立場にある人物を殺害することに依つて経済組織、政治機構を変改する事が出来ると思ふのは大変な間違ひである。永い間我国は、日本固有の大精神を忘却した欧米流の教育が施されて来た。故に今日に於ては斯る指導精神によつて育まれ、その経済組織、政治機構の下に自己の名を挙げ栄達を得ようと焦慮して居る所謂思想的余備軍が国内に充満して居るのである。
それで若し今日の我国の各般に亘る組織機構の欠陥を是正しようとするのならば、その拠つて立つ思想の本源を糺弾して正道に向はしめなくては駄目であつて、一部の革命思想家の考ヘて居るやうな一人一殺主義は、却つて新進気鋭の敵の後備軍を前線に続々と誘導して味方を一層不利に陥らしむるに過ぎないものであることに気付かねばならない。余が過去四十年間進み続けて来た道は此れであつたのであるが、余に従つた多くの人々も又世間一般の人々も中々斯の所以をハッキリと理解し得る人が尠く、又それを説いても其の真意を了得するだけの思想的準備が出来て居なかつたのである。
余は今、斯の霊主体従の真意がハッキリ判つて居る敬神尊皇の士と共に、皇道維新の達成に一路直進せんとするものである。