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文献名1大本史料集成 3 >第2部 第二次事件関係
文献名2第2章 裁判所資料 >第2節 地裁公判速記録(出口王仁三郎)よみ(新仮名遣い)
文献名3地裁公判速記録(9)よみ(新仮名遣い)
著者
概要
備考
タグ データ凡例長いので12ページに分割した。行頭●記号で始まる小見出しは底本にはない(うろーの狭依彦氏作成)。底本は漢字と片仮名だが、読みづらいので片仮名を平仮名に直した。 データ最終更新日2022-04-04 13:37:10
ページ435 目次メモ
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本文 ●進行 王仁三郎の体調
昭和十三年八月十三日(土曜日)
京都地方裁判所
午前九時十分開廷
裁判長 全部立つて。
 前回に引続いて続行します。
 坐つて……。
前田弁護人 裁判長、前回の御審理の際に出口は、大本の教義と云ふものはどう云ふものかと云ふと、「大本の教義と云ふものは祝詞に依つて尽きて居るのだ」と、斯う云ふことを申上げました。
 それで、甚だ是はなんですが、是は御参考の為に裁判所に一つ、どうぞ書記の方にも一つ(と謄写物を渡しながら)之を読んで下さい。
裁判長 結構ですね。祝詞……。
出口 裁判長閣下にちよつと申上げます。言訳でもなんでもございまへぬが、私去年の一月から、非常に此の、血圧が高うなりまして、御医者様が、始終のぼせますので、未だに入浴を許して下さりまへぬ。さうして、運動も許されて居りまへぬ。
 それで、頭は別に悪いことはないのですけれども、少し長うなりますと、ふつとして判らなくなります。
 ちよつと休みますと、又、治つて来ます。
 昨日も、御問と齟齬したことやら、御答すべきことでないことを答へたり、御答へすべき所を御答へ申上げないやうに思ひますけれども、是はどうぞ、終ひの日で宜しうございますから、頭が良くなつた日に、もう一遍ちよつとをかしい所がありましたら、訊いて下さりませ。
問 をかしい所があつたらね。
答 私の答と矛盾して居る所が、御訊と違ふことを言つた所があるかも判りまへぬから、私もちよつと言はして戴きたいことがあるのでございますから……。
問 是から言ふ機会は幾らもありますから、最終にもありますし、検事の意見に対してもありますし、それから終結する場合にも訊く機会はありますから……。
答 そんなら、又後で……。
問 心配ないですよ。
 幾らでも機会は与へます。言落したことのないやうに十二分に訊くから……。
答 左様でございますか。
●争点 組織方針
問 それぢや、王仁三郎、訊ねます。
 被告人王仁三郎は、昭和三年の三月三日より同十年の十一月上旬頃迄の間に於て、右綾部町本宮及び亀岡町の天恩郷に於て大本の為に、大本の重要なる組織方針並に活動方針を樹立して、幹部役員等をして実行せしめたる事実がありますか。
答 何を実行させたと云ふのですか。
問 組織方針、活動方針。
答 それはあります、あの規則の通りにやつて居りますから──。
問 詰り、砕いて申しますと、組織方針はどう云ふ風に担当するかと云ふ方針を立てゝ役員等に実行せしめた事実と云ふことです。
 是は統轄して居る関係上……。
答 私が統轄して居りまして、役員が銘々に其の規則に依つて働いて居りました。
問 規則に依つて役員幹部はやらして居る訳だな、自分が指揮して……。
答 へえ。
問 今のは十二月迄の、検挙迄だが宜しいかね。
答 はあ。
問 宜しいかね。
答 何がですか。
問 宜しいか、今の訊ねたことは。
答 兎も角、私が指揮したことになりますから、私は修業ばかりやつて居りまして、皆規則の通りにやつて呉れて居ると思ひますけれども、結局は、まあ、私が大将ですから私が指揮したも同じことです。私が指揮してさしたも同じことになります。
問 併し、重要事項は皆全部自分がやつて居つたのでせう。相談を受けて、自分がやつて居つたのでせう。
答 はあ。
●歴史 建造物
問 それから、決定に書いてあることだが、「矢張り、大本の為に各種の建造物を増築して大本の設備を充実し、色々其の建造物を増築して、建物を増築して、大本の設備を充分にし、それから大本の最高幹部、総務、大宣伝使等を任命し、それから駐在宣伝使及特派宣伝使を選定して、各地に派遣し分所支部等の宣伝活動を指揮監督せしめ、それから幹部役員をして天恩郷大祥殿に於て大本教義の講義講演を為さしめ、それから大本信者から大本の活動資金及び建築資金を徴収し、機関紙神の国の真如の光、瑞祥新聞、明光及び人類愛善新聞其の他大本教義を掲載したる霊界物語、出口王仁三郎全集等を発行し、尚昭和八年の一月大本瑞祥会を廃し、同時に大本を皇道大本と改称し、大本の活動機関として昭和青年会、昭和坤生会と云ふのか。」
答 はい。
問 それと、「大本の補助機関、外廓団体としては昭和神聖会を各強化する等大本の拡大強化に努めた」と云ふことはどうですかね。
答 さうでございます。
問 能く判つたでせうね。決定にも書いてありますし、準備でも能く訊いて居りますし……。
答 其処にちよつとなんとか仰つしやいましたが、昭和坤生会とか神聖会とか各……。
問 外廓団体……。
答 外廓でなしに……。
問 拡大強化……。
答 違ひます、其処に一字何か各が入りましたね。
問 大本の活動機関として昭和青年会、昭和坤生会……。
答 会の一番終ひに各と云ふのが……。
問 創立、昭和青年会を創立したと云ふこと、昭和青年会、坤生会を各創立した……。
答 はあ。
問 斯う云ふ会でしたね。「大本の大きくなるのに努力した」と云ふ、是は間違ひないか。
答 其の通りでございます。其処は違ひありまへぬ。
問 準備でも認めて居つたからね。
 尚、此の点に関しては予審の四十六回、四十七回、四十八回に於てだね、詳細のことを述べて居るやうですがね、書いてあるやうだが、是は予審に於てどう云ふことを言うたかは覚えて居りますか。
答 覚えて居りまへぬ。私は、意思にないことを訊ねられたから、皆其の通り言うて置きました。
問 それぢや、こちらから読みますからね。
清瀬弁護人 今の拡と云ふのは拡大強化と云ふ言葉を……。
裁判長 各創立したと云ふことです。
出口 各々と云ふ意味と違ひますか。
裁判長 昭和神聖会と坤生会と三つあるから各を付けたのです。
 先づ、之を、建築物の増築の点を予審で言うて居る点を訊きますがね、宜いかい、四十六回の一問答に於て、「大本の設備に付ては昭和三年七月二日亀岡天恩郷内に先づ明光殿を建て、其処には明光社を置き、それから同年の十一月十六日には同月明殿、其処には天照皇大神を祀つた。」
答 月明殿ですか。
問 名前はどうでも宜い。
答 ちよつと待つて下さい。月明殿は違ひます。
問 月宮殿ですか。
答 さうです、月宮殿です。
問 それから、「昭和四年の十月二十八日には、同じく、智照館を建て、大本の宣伝用の写真の作成及び販売所とし、それから、同年の十二月二十七日豊生館を建てゝ、昭和六年八月には第二豊生館を建て、昭和青年会の寄宿舎とし、武術部とし」……。
答 更生館と云ふのは寄宿舎のことか知りまへぬが、更生館と言ひましたかな。
問 豊生館だよ。
答 あーさうですか。どんな字が書いてあります、豊ですか。
問 それから、「昭和五年の四月に綾部に穹天閣を建て、同閣の二階を宝物庫とし階下を私及び澄の居室とし」……。
答 穹天閣……。
問 穹天閣、宜いか。
答 はあ。
問 それから、「昭和六年の八月、天恩郷に更生館を建てゝ、大本の宣伝の軸物、写真等を陳列した。」
答 それは私の六十一の祝で、還暦の記念に建てたのです。
 それで、私に関した一枚額とか色々なものは皆其処に並べることにしたのです。さうして、それを又、宣伝にも一緒に使ふとつたのです。
問 それから、「八月の二十二日に御三体の大神様を祭る為に長生殿の基礎工事を竣功せしめ、それから七年の二月二十日天恩郷に天声社を建て、大本の出版物の印刷発行所とし」……。
答 何月ですか。
問 七月二十日です、間違ひないよ。
答 天声社、瑞祥閣と違ひますか。
問 瑞祥閣は、又違ひます。印刷所、是は間違ひないね。
答 違ひありまへぬ。
問 文献もあるが、念の為に……。
 「大本の愛善運動の為に天恩郷に愛善幼稚園を建て、七月二十二日亀岡の瑞祥閣を建て、大本の受付、庶務会計等の事務所とし、同十年の一月二十五日天恩郷に透明殿を建てゝ、私と高木鉄男とが寄居し、同殿を昭和神聖会の統管部とした。」
 是は宜しいね。
答 はあ。
●歴史 宣伝使
問 其の次は信仰の宣伝です。
 「昭和四年の三月信教宣伝使を大宣伝使、正宣伝使、準宣伝使及び宣伝使試補の四階に分け、大宣伝使は一級乃至七級とし、正宣伝使は七級乃至十二級とし、準宣伝使は十三級とし、宣伝使試補は十四級乃至十六級として、信教宣伝使を増員した。」
 是は間違ないね。
答 はあ。
問 其の次は、「今度は大本の最高幹部、総務及び大宣伝使を任命し、大本の役員及び職員を増員した。それから其の次は、昭和六年の二月より大本信者、大本分所支部及び大本の機関紙、神の国、明光、人類愛善新聞の各梅花運動、即ち五倍加運動を為さしめた」と、是も此の通りだね。
答 はい。
問 それから、「昭和七年のに月二十日より全国総市町村に大本の分所支部を設置する運動を為さしめ、それから駐在宣伝使及び特派宣伝使を各地に派遣して大本の主義主張及び目的を宣伝せしめ、信者の獲得に努めしむると共に、主会、聯合会、分所支部の宣伝活動を指揮監督せしめ、又随時幹部役員を各地に出張せしめて大本の教義を宣伝せしめた」と云ふ訳だね。
 それから、「大本の幹部役員をして天恩郷大祥殿に於て大本の主義主張及び目的等に付て講義講演を為さしめて、信者の意識昂揚を図らせ、又、毎年春秋の大祭の時には信者大会を開き、私は其の席上に於て、信者に対し、『大本の目的達成の為に努力せられたき』旨を述べて激励した。」
 是も間違ひないのだね。
答 はい。
●歴史 神諭、霊界物語の拝読
問 それから、「役員、信者に対し神諭及び霊界物語の熟読を激励し、毎日大祥殿に於て教祖の神諭を朗読し、昭和五年頃より出口伊佐男を会長として大祥殿に於て霊界物語拝読会を開催せしめて、神書中の宣伝歌の一部をレコードに吹込んで宣伝し」、是も間違ひないね。
答 間違ひありまへぬ。
●歴史 皇道大本への改称と宗教博覧会
問 「昭和八年の一月二十一日大本の瑞祥会を廃止して、それ迄単に大本と称して居たのを皇道大本と改称し、同時に大本の信条及規約を改正し綾部を総本部、亀岡を本部とし」、是も間違ないね。
 それから、「大本信者をして、大本の活動資金及び建築資金を献金せしめ」……。
答 最前皇道大本と改称したと云ふのは復称したのです。改称は復称の意味です。
問 今度元に復つた訳だね。
 それか、「御手代と称し、杓子に私の拇印を捺して宣伝使に所持せしめ、宣伝使をして病気平癒の祈祷禁厭等を為さしめた。」
 是もやつて居つたやうだね。
 それから、是も訊いて置くがね、「昭和五年の春に宗教博覧会に参加して大本の宣伝を為し、其の際私は信者の川人如水と云ふ洋画家に『愛善の花天上一家の春』と題した油絵を画かせて同博覧会に出品せしめた。
答 それは其処の所、ちよつと私知らぬで居つたのです。如水が画いて呉れて送つて来たのです。私が命令せぬのに寄附して呉れたのです。
問 さうか、是は知らぬか。
答 其の拵へた時は知らなかつたのです、命令したのやないのです、向ふの有志で画いて来たのですからー。
●歴史 機関紙(2)
問 さうか、それから、機関紙のことをちよつと訊いて置くが、「大本の機関紙として神の国、真如の光、瑞祥新聞、明光、ベエルダモンド、人類愛善新聞等を発行し、信者及び未信者に閲読せしめた」ことは間違ひないことだね。
答 はい。
問 神の国は大本の……是は昨日読みましたね、此の機関紙の性質と云ふことは、是は昨日読みましたね。
答 さうでしたかいな、私も覚えて居りまへぬ。
問 もう一遍読みせう。
 「神の国は、大本の其の主張目的等を大本の役員信者に知らしむる目的を以て、大正十年八月以来主として大本教義、神諭、大本の活動方針、活動状況等を掲載発行せしめ、最近一万五千人位の読者がありました。」
答 それは昨日聴きました、思ひ出しました。
問 是は間違ひないね。
答 え丶。
問 それから書籍の発行の点ですがね、「昭和四年の四月三日から昭和九年の十二月三十日の間に霊界物語第七十二篇乃至第八十一篇を発行し」、是も間違ひないね。「四年の四月から九年の十二月、それから昭和九年の六月三日から十年の十月二十五日の間に出口王仁三郎全集第一巻乃至第八巻を発行し」、宜しいね。
答 はい。
問 「其の編纂に付ては出口元男が編纂委員長、岩田久太郎が編纂主任、伊佐男、井上、高木、御田村、山口、吉野、桜井等が編纂委員となつて委員会を開いて、私が書籍、新聞、雑誌等に掲げて発行した記事、並に、私の書いた霊界物語、其の他未発表の原稿中から選択して掲載したのであります。全集に掲載したのは、何れも、私に於て掲載方を承認したものであります。右の外大本の主義主張目的等を書いた単行本数十冊を発行し、昭和八年三月皇道大本事務便覧を発行し」、是も間違ひないね。
答 はい。
●争点 絶対服従
問 それから、ちよつと、「役員信者等に対して、私の命令に絶対服従して、大本の目的達成の為に舎身活躍すべき旨を激励し、若し、信者が私に対して直接、『ミロク神政成就とは御皇室が替ることでないかとか、或は立替立直等も御皇室も立替立直するのではないかとか、聖師様が日本及び世界の統治者になるのではないか』と云ふ質問をせられた場合には、私は大抵表面上では、『決してそんな馬鹿なことはない』と否定して居りましたが」……。
答 其処の所はちよつと……。
問 「他方面に於ては神諭及び霊界物語等の熟読方を奨励し、神諭及び霊界物語等を読んで大本の真の目的等を悟らせるやうに仕向けて居りました。」
答 それは、私は「さうぢやらう」と言うて御書きになつたので、私はそんなことは正面から違つて居りまして、私からそんなことを「何せい」なんと云ふことは書いてありやしまへぬし、言うて居りやしまへぬ。
 私に絶対服従なんと云ふそんな慢心したことは思うて居りまへぬ。
 皆同行、同じ道を行くものと思ひます。皆呼び付けしまへぬ、家の養子だけは宇智麿とか日出麿とか言ひますけれども、高木さんとか井上さんとか皆同行と思つて居りますから、絶対服従は思つて居りまへぬ。
 神様に対して絶対服従、と云ふことは言うて居ります。
●争点 書籍の掲載確認
田代弁護人 裁判長ちよつと時間が過ぎたやうですが、只今の十五の書籍の発行に付てですな、「全集に掲載してあるものは、何れも、自分に於て掲載方を承諾したのだ」と云ふことであるが、所が、此の前の陳述ではですね、「知らぬ中に皆編輯係がやるのだから、自分は全然知らなかつたのだ」と云ふことを言うて居りますが、其処をもう一遍……。
出口 それは知らなかつたのでありますけれども、私が許した以上は、私が承諾したと言はなければならぬやうなもの。私が役員を任命したのだから、私が許したことにしなければしやうがありまへぬもの。
問 さう云ふ意味か、宜し。
答 其の意味で私は御答へして居るのです。総て編輯を私は御答して居るのです。
問 十五迄にして十六以下は略して置きます、決定事項に関係がないから──。
答 其の外の書物でも一々私が命令して書かして一々調べたのではありまへぬが、私が命令したことにならなければなりませぬ。
問 其処は能く考へて訊くが、其処は、「斯う云ふことを掲載した方が宜い」と思つて、委員会で決定した所を王仁三郎の所へ持つて来てそれに署名したのではないか。
答 そんなことはありまへぬ。
 私は方々へ行つて居りまして……日記を見て貰うたら判ります、いつ何日にはどこに居るかと云ふことが判ります。いつ何日には何々の雑誌を校正したとか見たとか云ふ……
 其の私の日記は大正十五年からずつと昭和十年迄ありますから、昭和十年迄それを見ましたらはつきり判るのです。
 さうして、印刷してから私の机の所へ、一部上納やとかなんとか云ふことで以て来て居ります。それで見に来ますけれども、迚も見る間も何もありやしまへぬ。見た所が、載つてしまつてから後で事後承認見たいなものですから任してあるだけです。
 全部銘々に知識のある人ばかりですから、私よりも賢い人、大学を卒業した人もあるのです。私などよりももつと学問のある人が居るのですから、私は一々調べることも必要ありまへぬし、調べる間もありまへぬ。
 けれども、私が任したのやから私がしたと云ふ意味になるので、且つ私は責任を逃れると云ふことは嫌ひですから、そこで申した。
問 全部ぢやないが、自分の斯う云ふことを掲載するのを承認を求めて来た場合もあると云ふのだな。
答 そんなことはありまへぬ、ちやんと原稿を持つて来て見て呉れと云ふだけです。
問 持つては来るけれども見たことがないと云ふのだな。
答 原稿を持つて来た時は見たことはありますが、十遍に一遍もありまへぬ、方々歩いて居りますから。
 十年からこつちは現界的活動をやると云ふので、方々廻つて居るのです。
 日記を見て貰ひますと、「斯うしたとか斯うせい」とか、「何日の瑞祥新聞を持つて来たから斯うせい」と云ふ歌を、全部書いてあります。
問 さうか。責任上さうなるが、実際はさうぢやないと云ふ意味なんだな。宜しく。
答 さうです。
●歴史 昭和青年会のはじまり
問 さう云ふやうに書いて置いて下さい(書記に向ひ)
 十六以下は関係ないから読まないことにします、十五迄……それから昭和青年会と昭和坤生会と昭和神聖会を創立した、と云ふのは念の為に読んで置くが、「是は四十七回昭和青年会は、最初、昭和二年頃に天恩郷に居つた青年の奉仕者五、六人が集つて昭和青年と云ふ雑誌を拵へて居りましたが、其の後大深浩三の指導で天恩郷の青年奉仕者、二、三十名を集めて昭和青年会を組織しました。尤も、当時の昭和青年会と云ふのは会員の知識交換、会員間の親睦を目的として居りました。」
 是はさうか。
答 それは一番初め五、六人の者がたつた一枚の雑誌を書きまして、一冊のやつを六人か七人が替る替る廻り読みの本を拵へて居つたのです。
 会員がずつと廻つて読むやうに、それが二回目になつて、蒟蒻版になり、三回目か四回目からちつと大きくなつて来たのです。
 初まりは、それで誰も、幹部の者も知らなんで、若い者だけがやつて居つたのです。
 それで、其の熱心を認めて其の時に──書いてありますが、御田村さんが一円かなんぼ金をやつたのです。
 其の会に、青年会へ、私もなんでも五円か十円か寄附してやつて、初めはそんなものやつたのです。それも書いてあります、前の青年会の雑誌に書いてあります。
問 今読んだことはどうですか、今読み聴けた所はどうですか。
答 青年会のことばかりでしたか……大抵さうでございます。
問 大深浩三が……。
答 ……やつたのです、大深浩三が主にやつたことです。
問 それは、「発端はそんなことで、所が昭和六年の九月頃満洲事変が起り軍事思想が盛になつて来たので、私は此の機会に」──私と云ふのは王仁三郎のこと、「既存の昭和青年会を軍隊式と為し、大本信者全部を会員と為し、団体運動の訓練を為し、会員は私の命令に絶対服従すべきものとし、統制の取れるやうにして置けば愈々立替立直の際に武力を用ひるやうな際には非常に役立つと思ひ、昭和六年の十月頃天恩郷に於て伊佐男、大深浩三に対し私の意思を伝へ、右の目的の下に昭和青年会を再組織するやうに命じました。」
 「其の結果昭和六年十月十八日に昭和青年会を創立し、同年十一月五日発行の真如の光五十六頁以下に同会々則を掲載発表し、其の後同会則は七年の十二月二十四日に改め、改正した会則は事務便覧第百十九頁以下に掲載してあります。昭和六年十月に制定した会則二条には『本会は人類愛善の大精神に基き昭和の大神業の為献身的活動奉仕を為すを以て目的とす』とありますが、是は『昭和青年会は至仁至愛の国家建設の為、献身的活動を為すを以て目的とす』と云ふ意味であります。又、改正したに条は、『本会は皇道の本義に基き、人類愛善の大精神を以て昭和の大神業の為、献身的活動奉仕を為すを以て目的とす』とありますが、此の皇道の本義は皇道大本規定第一条に」、宜いかい、「皇道大本は経緯の神示に依つて闡明されたる皇道の本義を宣布実践し、以て世界の平和と神人相愛の為に神国成就の実現を期するものとす」とある。
 「皇道の本義と同じ意味で結局教祖の筆先、私の筆先及び霊界物語に於て述べてある大本教義が同会則に所謂皇道の本義であります」と斯う言うて居るね。
答 それは私はちよつと申上げたいことがございます。それは、あの……。
問 ちよつと待つて。而して、結局、昭和青年会の目的は大本の目的と同一であると昨日是は認めて居つたが、活動機関の状態は昨日否認して居つたから改めて言ひませぬ。
答 同一でありまするが、其処に書いてあることに違ふことが沢山あります。
問 創立の形式は宜しいか。
答 それから満洲事変が起りましてから、益々軍部の方の人が出て来て、「矢張り、是は、国民の訓練と云ふことが必要やから、あんた等も訓練をして軍隊組織の方が、是は総ての組織の中で一番優れたるものは軍隊組織であるから、信仰でも救世軍とか云ふ軍隊組織のものがあるのやから、矢張り軍隊組織の方が活気が出来る」と云ふ意味を言つた人があつたものですから、始終来るものですから、それから非常に青年会は、是は皆精神的の青年会にしようと云ふので、爺も婆もそれに入会したいと云ふ者は皆青年会員にしたのです。
 さうした所が、真逆の時には武力を以て斯うすると云ふやうな……大本にはピストル一つ持つて居る信者はありまへぬです。
 武力を以てするのならば、幾分か準備をして居りますけれども、武力と云ふものは一つもありまへぬ。
 そんなことを以てやると云ふのではないのです。
 銃後の活動をしようと、銃後の国民となる、と云ふ、今日で言ふ銃後の国民あゝ云ふ具合に百姓は鍬を以て闘ひ、それは耕作をやる。木樵は斧を以てやると云ふことは、是は皆それが木樵の武器は斧である、百姓は鍬を以て働くのやから、さうして銃後の守をやる、と云ふことは言うて居りますけれども、武器を以て何せい、と云ふやうなことは言うたことがない。
 それに違ひないと言うて、さう御書きになつたのです。其処は──それからまだ終ひの方に何かちよつと違ふことがありましたが、今ちよつと……。
問 其の趣旨に帰省するのでせうが、目的はさう書いてありますが、要するにあれかね、此の青年会と云ふのは何名位居つたのです、全部……。
答 殆ど大本信者のなんです。
 大本信者が、例へば、百人あるとすれば、七十人か八十人位迄青年会になつたかも知れませぬ。
 爺も婆もなつたのですから、赤坊やら小さい子やらはなつて居りまへぬから、さうすると半分位やつたかも知れまへぬ。
問 数ははつきり判らないと。
答 かと思ふのです。兎も角、十四、五から下の者は入つて居りまへぬ。
問 一万二、三千も居りましたか。
答 居つたかも知れまへぬ。
 青年会の青年の千人程集つたことがありますから、それよりは見て居りまへぬけれども。
 併し、どこ其処の代表と云ふやうなことを言うて居りますから、全国何支部の代表、支部に五十人居るか三十人居るかそれは判りまへぬ。
問 それぢや、信者の七割と訊いたら宜しいね。
答 それ位、五割か七割……。
問 実際集つたのを見たのは、千人位であると……。
答 けれども、それは、代表者が皆来たのです。
●歴史 昭和青年会の軍隊式訓練
問 宜し、而して、有留弘泰と云ふ人だね。此の人が軍隊式の訓練をやつて居つたのか。
答 さうです。
 此の有留と云ふことを予審で初めて訊いたのですがね。私は神本はんと聴いて居つたのです。私は神本が本当かと思ひます。其の人やと思ひます、有留はんは。
 其の人は軍隊へ入つて居つた人で、其の人が始終教へて居つたのです。それから、十師団からも来て、憲兵隊からも来て、教へて居りました。
問 小隊、中隊、大隊になつて居つたのか。
答 なんでも、そんな、ずつと書いてありましたけれども、まだ其処迄は完成して居らなんだやうに思ひますけれども……。
問 矢張り、分列式などもやつて居つたのか。
答 それはやつて居つたのです。
 一年に一度づつ、亀岡に出て来て、大祭の翌日より出て来て、其の序でにやつて居つたのです。
問 それから動員計画をして、一方の日光部、月光部、星光部、さう云ふ具合に分けて動員計画をして居つたのか。
答 まだ計画もして居りまへぬけれども、動員計画と云ふことの規則は拵へて居りました。
 それは何故かと言ひますと、日本は是から先は……。
問 日光部と云ふのはどう云ふのか。
答 是は若い人であつて、煩累のない、兵役にも関係なければ仕事の関係もなくして、身体の自由になる人で、男やとか、どこへ行つても宜いと云ふ人です。
 それから、私がまだ発表はして居りませぬでしたが、南洋のポナペ島と云ふ所に、百町歩程政府から買つたのです。さうして、其処で糖業をやつたり、色々なことをやつて居つたのです。農業をやつたり、それで海軍の方が御出でになると、皆海の上ばかりで脚気になるから気の毒だと云ふので、水瓜だとか芋を作つて献上して居つた。
 それから、又、後から三百町歩程御願ひして許可になると云ふことになつて、さうしたら、愈々、四、五百人はどうしても、其の日光部になる連中は其処へ連れて行かうと云ふ考を有つて居つたのです。
 南洋を開拓すると、さうすると国防上にも日本の為になる、と云ふ考で、さうして東京へ、或は敵が何どき攻めて来るかも知れまへぬ。
問 目的はどうでも宜いが、何れも係累のない人だね。いつでも警備は何して居つたのだね。
答 さうです。
問 動員計画に対して、ではさう云ふ考を有つて居つたと、月光部員と云ふのは……。
答 それはどうでつしやろ、其の通り位かと思ひます。
問 星光部と云ふのは。
答 それは年寄やと思ひます。家に居つて、矢張り、家を守つたり何かする人……。
問 月光部と云ふのは短期間の動員計画だね……。
答 はい。
問 而して、是等の青年会員達には、王仁三郎の命令には絶対服従するやうに訓練して居らなかつたか。
答 それはしたのでせう。
問 したのでせう……。
答 私はそんなことは、「何せい」なんと云ふことは、私はいつも潜越なことは嫌ひですから申しまへぬけれども、向ふで同志が拵へたのです。
問 武器なんかは用意して居つたのか。
答 そんなものはありまへぬ。
 それは、大本では此の前に事件が起つた時には、私は刀が好で二千本もありました。
 其の為に、「こんな武器を集めて居る」と言はれたから、私は軍人の人が来たから皆やつてしまひました。
 それから、又持つて来たのが三百か四百ありましたけれども、それは皆白鞘が主です。
問 刀はどうするのです。
答 どうもしやしまへぬ。
 又、戦争が起つたら、軍人に与へようと思つて居つたのです。
問 与へようと思つて準備をして居つたのか。皆あつた刀は軍人に……。
答 軍人で御出でになつた方には上げます。
問 競売になつたか。
答 今度は、丸で金がなくなつてしやうがないから、ちつとでも金を拵へようと思つて売つたのです。
問 こつちへ上つて居つたものでも大分あるのぢやないか。大したものでせう。
答 さうはありまへぬやらう、向ふに二、三百こつちに二十程しかありまへぬやらう。
問 一体どうするのだ、軍隊式の訓練をして──。
答 さうですけれども……。
問 目標はどこにあるのですか。
答 それは信者の固めにのるのです。信者の結束を固めるやうに、ぶらぶらと信者と云ふものは妙なもので今日こつちの信者で居るかと思ふと、浮草者とか信者巡礼と言ひまして、浮草のやうなものですから、又、次から次へと行く。それをやらないやうに結束するのです。
 今日は金光教やと思つたら、大本になつたり、大本やと思つたら、天理教になつたり、是は信者の癖で、信仰巡礼と言ひまして……
 之を喰止める為には、皆同じ着物を着て同じやうに信仰せなんだら喰止められまへぬ。
問 是は、立替立直になつた場合には武力に愬へる、と云ふことの準備ぢやないでせうね。
答 そんなことぢやありまへぬ。そんなこつちやつたら、武力の準備をせにやなりまへぬもの。
 其処を能く調べて貰うたら判ります。
●歴史 昭和坤生会
問 さうとは思はぬ、さうぢやありませぬかと訊いたのぢやないか、さうするとそれで宜いのぢやないか。ないと言ふのだから──「昭和坤生会と云ふのは、私の意見に依り昭和青年会の婦人部を独立させて昭和七年の十一月一日に創立した」のだね。
 同会の規約の第二条には、「本会は地上に真の平和と幸福を齎す為、愛善の大精神に基いて、最善の誠を謁し、歓喜に充てる明るき世界の実現を図るを以て目的とす」とありますが、是は同会は至仁至愛の国家の建設を以て目的とすると云ふ意味で、同会の目的も大本の目的と同一で、同会は世界の活動機関の一つで昭和青年会の……。
答 世界の……。
問 「大本の活動機関の一つとして昭和青年会の後継部隊とも言ふべきもので、昭和坤生会の総裁は私で、会長は出口澄であります。同会にも本部及び支部に会旗があつて、同会の総本部を綾部に、本部を亀岡に置き、最近支部約三百箇所、会員約一万五千人位ありました」と、斯うなつて居るが、是はどうぢや。
答 是は矢張り……。
問 書いて居ることはどうぢや。
答 書いて居ることは……
 是は、昭和青年会と同じ精神です。同じ精神であつて、唯、婦人団体、女の団体と云ふだけです。
 それで……。
●争点 昭和青年会と五・一五事件
赤塚弁護人 裁判長、中途で甚だ恐縮でございますが、昭和青年会のことに付て御訊問になつた序でありますが、今御調べになりました日光とか月光とか星光とか云ふやうなものの直ぐ次の方にあります記載事項であります。
 詰り、「被告が此の横浜に於て、関東に滞在中に何か東京に於て五・一五事件の起る其の噂があつたと云ふので、大深をして何か動員した」ことが書いてありますが、それに付て……。
出口 それは嘘です。
裁判長 ちよつと待つて、被告人の否認しさうな不利益な点は省いて、認めさうな所は読んだ訳ですがね、今の、「大深浩三にどう云ふ計画がある」と云ふことは故意に訊かなかつたのですが、訊ねませうかね。
赤塚弁護人 ちよと其処を。
出口 それは違ひます。
 五・一五事件の時には青年会と云ふものはまだそんなに立派に出来て居りまへぬ。五・一五事件の時にはありましたけれども、六年からあつたけれども……。
裁判長 それぢや弁護人から御訊ねでありましたから、訊ねて見ますがね。
出口 五・一五事件は知らなんだのです。私は知らなんだから、そんな答はありまへぬ。
問 今御訊ねになつたやうな事実はあつたかどうか。
答 ありまへぬです。
問 実際、其の大深浩三に対して、「是だけの時間にどれだけの人が動員出来るか」と云ふ調査をして出せと……。
答 それは五・一五事件の後ですもの。
問 後でも、其の当時でも宜しいが。
答 それは、横浜に居りましたのは九年です。
 若しも、九年に五・一五事件のやうなことがありさうな噂があつたら、私は、「国家の一大事やから、信者は気を付けて、真逆のことがあつたら、御国の為になるやうなことをせにやいかぬ。併し、我々は武器を持つてはいかぬぞ」と云ふことだけは言うたことはあります。
問 大深に。
答 大深に、「さあ」と言うたら、「何人程人が出て来られるか」と云ふやうなことを御訊ねとありますけれども、それは九年です。
問 時期は宜しいが、其の時の調査報告と云ふものは聴きましたか。
答 聴きまへぬ。話をしただけですから。それをせいとは言ひまへぬでした。
 それで、調査したのは初めて予審で見せて貰うたのです。
問 宜し。
 而して、此の軍部の中堅階級に於て、不穏の空気があると云ふことを聞いてそれに合流するやうな考はあつたのぢやなからうね。
答 それはありまへぬ。
問 さう云ふ気配があつたやうな供述を……。
答 それは、さう云ふ風に持つて行かれたのですけれども、ありまへぬです。
 軍部の者の方とは余り関係して居りまへぬのです。
 それは、ちよこちよこ横浜に居りますと云ふと、田中文吉と云ふ人が能く来ました。其の人は能く来て居つたのです。
 あれはなかなか激しい男やなと思つて、それで私は訪ねに来ましたから、「雑誌を以て雑誌の講演をして呉れ」と言うて、「あんた、何やないか。あんたのやうな人は満洲のなんとか云ふ人と騒動を起さうとして居る、と云ふやうな話があるが」……
 それは少尉時代にはそんな心になつたこともありますけれども、今は父になつて嬶や子供があつて、もうそんなことは考へて居りまへぬ。
問 それぢや予審で述べた点は事実と相違と訊いて宜いかね。
答 はいさうです。
 けれども、其処へ持つて行かなければ、何か意味のあるやうに──「違ひます」と云ふことは言はれまへぬです。早く済ましたいのが一念でしたから。黙つて其の儘にして置いたのです。
問 それぢや、さう訊いて置きませう。
 それから、其の次に、昭和坤生会と云ふものは婦人部、男子部があると云ふ訳で、目的は同じだと斯う言ふのだね。
答 さうです。
●歴史 昭和神聖会創立
問 それから会員も一万四、五千人あると云ふことも認める訳だね。
 昭和神聖会のことは四十八回の二の所に詳細のことに付ては書いてある、此処にある──「私は昭和九年の一月より横浜市の根岸町の滝上の関東別院、静岡県の田方郡湯ケ島の伊豆別院、それから東京市の杉並区の紫雲郷別院等に時々滞在して、東京及び横浜の各方面の人から話を聴いて、又新聞記事に依ると日本の情勢、政治的に於ても経済的に於ても行詰つて居つて政党の腐敗、経済界の逼迫、外交の不振、少壮軍人の脱線、内閣の不信用、軍縮会議脱退等があつて、日本国内の内乱が起るとか、日本と外国との間に戦争が起るやうな気がしますので、昭和青年会を中心として大本を支持する大衆団体を作り大本の基礎を確立し、日本国内に内乱が起り、又は日本と外国との問に戦争が起つた機会に大本の目的であるミロク神政を成就せしめようと考へ、昭和九年の七月六日に関東別院に大深浩三と深町孝之輔、国分義一、内海健郎、岡本霊祥、林次郎の六名を集めて昭和神聖会を創立するやう命じ、同月七日東京市日本橋区の料亭の常盤に於て私、出口伊佐男、大深浩三、深町孝之輔、御田村竜吉、米倉嘉平、米倉恭一郎、河津雄次郎、内海健郎、岡本……。」
答 判つて居ります。出来るだけ略して下さい。
問 判つて居るか、是々だね、「集つて、会合して昭和神聖会の創立委員会を開催し、其の席上に於て、私は、『今日の日本の情勢は非常に行詰つて居る故、神業成就の為大本は大衆に土台を持つことにせねばならぬので、昭和神聖会を創立するのでありますから、創立に付て協議して貰ひたい』と述べ、大深浩三が声名書、主義綱領等及び会則等の草案に付て説明を為し、集会者一同が大体承認したので、私は御田村竜吉を昭和神聖会創立準備委員長に、米倉嘉平を同副委員長に、専任委員に大深浩三、委員に河津、是等の人を命じて創立準備を為さしめ、同年七月二十二日九段下の軍人会館に於て昭和神聖会の発会式を挙行して同会を創立し、私は発会式に於て参集者に対し、『如何なる難関に遭遇するとも初心に向つて邁進する詰りであるから、援助を願ひたい』と挨拶をしました。」
 「私は昭和神聖会の統管として」……創立の纏末だね、「私は統管として昭和七年の十月十日二統管随筆と題しました単行本を発行しました。」
 其の中に色々書いてあることをずつと説明して居りますがね、是はちよつと言ひますかね。
答 はあ。
問 其の四頁には、「絶対服従は天下統治の大本なり。私意を加へ言論を為す者は、断然除名して神聖会の統制を保つ覚悟を要する」と書いてあり、五頁には「天上の月も日も一体だ。地上の主権者も亦一柱なるが真理だ。神聖会亦統制上一人の独裁を要する」と書き、九頁には「神聖会員は総て統管の命令に絶対服従すべきである」と書き、第十三頁には、「議会主義は駄目だ、独裁政治に限るのだ、殊に日本は君主専制の神国だ」、十九頁には、「大事を為すものは光鋭強化せる一団体の威力だ、どうしても一つの団体が強くならねば駄目だ、さうなれば外の団体は後から付いて来るやうになる」とあり、二十七頁の「会員は憲法の定むる道に依つて多数の国民の賛同と認識を獲得、それに依つて日本国民に相応せる大日本国を造り、此の時期を招来せむとするものである」とあり、二十八頁には、「一千万人の理解ある賛同者を獲得する迄は決して褌を緩めてはならぬ」と書いてありますね。
 さう書いてありますね。
答 それは天にも太陽がある如く、此の日本も一天万乗の君がある如くに、団体も矢張り一つの統制者があつて其の者の言ふ通りに聴かなかつたらばらばらになつてしまふ、と云ふ意味であつたのですから、それを妙な方へ取られたのです。
問 予審では斯う云ふことを言うて居る。
 「今の説明に付ては、此の四頁から九頁迄に書いて居る点は、神聖会員は私の命令に絶対服従すべきものだ、と云ふ意味であります。」
答 それはさうです。
問 「地球は一人の主権者に依り統治するのが真理であり、神聖会も私一人の独裁と云ふ意味である」、是もさうだらうね。
 「帝国議会の制度は駄目である。独裁政治に限る。日本は神の霊代たる君主、即ち私の専制の神国である」と云ふ意味である。
 是はちよつと……。
答 私は、其処の所は政党政治の意味やつたけれども、間違つたのです。
 「自分の専制にしなければならぬ。君主国にしなければならぬ」と云ふのは、それは違ひます。
 詰り、一つの神聖会を率ゆる為に、其処を強く言つたのです。
問 「ミロク神政を成就する為には昭和神聖会を強化しなければならぬ」と云ふことを説いて居るね。
答 ちよつと、ミロク神政を成就する、と云ふのは、此の間言はれたやうに国体変更の意味ぢやないから、其処の所を能く書いて置いて欲しい。
問 だから、其処を専制と云ふことを訊いて居るのでせう。
 お前の言うて居る所は、「ミロク神政を成就する為には神聖会を強化しなければならぬ」と云ふ意味で、「大本の説いて居る所の道に依つて、多数の大本の賛同者、信者を獲得し、日本国民に相応せる大日本国、即ち私を統治者とする至仁至愛の国家を建設せむとする意味を暗示したのである。」
 是は違ふのだな。
答 それは、「暗示した」と云ふことは違ふのです。其の「暗示」と云ふことから、「即ち」から先が皆違ふのです。
問 それは判りますけれども、七は「一千万人の昭和神聖会の賛同者を獲得する迄は気を緩めちやならぬ」と云ふ意味であると、是も宜いね。
 それから、「統管随筆中には、『日本は皇室を戴く家族的制度の国なり、万世一系の御皇室の方々以外には、余は頭上に戴くべき何人もないのだ』と書き、其の他にも、『神聖会は我が日本帝国の国体に反することを目的とするのではない』やうに書いてあるが、それは神聖会は大本信者のみの会でなくして信者以外の会員も沢山居りますから、其の関係上表看板に書いたものであります。」
答 それは違ひます。
問 それは否認だね。
答 私はそんなことは言やしまへぬ。さう御書きになつたのです。
●歴史 昭和神聖会綱領
問 それから、此の昭和神聖会の綱領に付て書いてあることは、是は間違ひなからうね。
答 其の昭和神聖会の綱領は、それは大深が起草しましたものであります。
問 それから、此の綱領は、此の神聖会の綱領は、是は、まあ、真如の光等にも書いてありますが、是は読まなくても宜いでせう。
答 其の通りでございます。
 それを正解して、其の文字の通り解して貰うたら実に良いことやと思ひます。
問 是は予審では表看板と言うたが、是は文字の通りに解釈して貰ひたいとさう云ふ意味だね。
答 へえ。
 是は僻んだ根性で言ふと、「表看板」やとか「保護色」やとか言はれるけれども、本当の正しい考で白紙になつて読んで貰うたら別に悪いことやない、と私は思ふのです。
 又、別に裏を含んで居るやうなことは……
 是は清き明き誠の心を以て、神に仕へて居る者がそんなことをする筈がないのであります。
問 是は目的のことゝちよつと関係するのだが、神聖会の会則の第二条には、「本会は神聖なる皇道に則り鴻業を翼賛し、神洲日本の使命達成を図るを以て目的とす」とありますが、此の意味は大本教義に則り立替立直の神業を翼賛して至仁至愛の国家の建設を図るを以て目的とするものでありまして、昭和神聖会と大本の目的とは同一の目的であります。」
 是はどうだ。
答 それも嘘です。
 其の本文の通り解釈下さつたら判ります。
問 「神聖会の目的は大本の目的と同様だ」と云ふことは宜いのでせう。
答 さうですとも。
 其処にありましたのをちよつと聴きましたが、ちよつとをかしい所が……本文の通り解釈して貰へば私はちつとも差支ないと思ひます。
問 併し目的は大本と同じだと。
答 さうです。総て……
 けれども、是は宗教の方でなしに思想方面だけが大本と同じだと云ふのです。
 信仰させるのぢやないのですから、此の人は信仰せないのだから思想だけ賛成するのです。
問 それから此の神聖会は大本の外廓団体だと云ふことは宜いでせうね。
 是は信者も入つて居るから──。
答 さうです。
問 それから此の組織の点に付てぢやね、「是は東京に総本部を置いて、統管は自分で、副統管は内田良平及び出口伊佐男、其の他役員の任命、是はまあ参謀、参議、」
 此の点はまあ間違ひないでせうね。
答 間違ひありまへぬ。
問 それから斯う云ふことをちよつと言うて居るが、「昭和九年の」……。
答 ちよつと頭がふらふらしました。
問 「昭和九年八月二十一日に、綾部の本宮山に於て、自分の生れた祭の際に、生誕祭に表賀式場で大本信者に対して、『どうか昭和青年会の諸子も昭和坤生会の諸子も、武道宣揚会の諸子も、此の私の六十四歳を御祝ひ下さると共に、昭和神聖会の為に大々的活動あらむことを希望致します。私は愈々乗出した以上は進展主義で後には引かない。如何なることがあつても、如何にしても進まねば置かぬ主義を以て三十七年間を終始して来たのであります。それでどんなことがあつても、是はもう国家の為に、今より立替立直をして仕上る迄は、一歩も退かない考であります』と述べた。此の中の『国家の為』とあるのは、大本の為だと云ふ意味だ」と言うて居るが。
答 さうぢやありまへぬ。
 大本の為でもあり、国家の為であります。国家の為は大本の為であります。
●歴史 昭和神聖会の状況
問 宜し。
 それから、昭和九年の十一月二十七日にだね、「神聖会に対して、昭和十年の七月二十二日迄に同会の会員百万人、同会の賛同者を一千万人獲得すべく指令した。」
 是も宜しいでせうね。
答 それは出来ぬことは判つて居りますが、其処迄言はなければ一生懸命にならぬから言つたのですけれども、それだけは肚の中ではそんなに出来ると思つて居りまへぬ。
問 「神聖会の賛同者は七百万人位出来たと思ふ」と述べて居つたね。
答 其の位出来たと思うて居つたのですが、百二、三十万人位しかないやうな按配でした。
 九州辺りでも三十五万も一頃は出来ましたから、それを考へると七百万位は出来て居ると考へて居りましたが、実際は百三十何万と云ふことを大正〔昭和の誤り〕十年の四月頃に聞きました。
問 それぢや、まあ、それだけ、昭和神聖会の創立の纒末、其の後の状況はそれだけにして……。
●争点 神聖会は思想団体か実行団体か
富沢弁護人 裁判長、ちよつと。
 今の神聖会のことですが、思想団体であるか実行団体であるか、と云ふことを御訊き願ひたいと思ひます。
裁判長 どうぢや、思想団体であるか、実行団体であるか。
出口 それは、固より、思想団体と云ふことは書いてあります。
問 宜し。それから。
答 実行と云ふ意味は、皆の思想を其処へ向ける、と云ふ意味で、形の上の実行ぢやないのです。
●争点 重要事項の実行機関
問 それから、ちよつと先へ戻るやうだが、どう云ふ手続に依つて其の重要事項を実行して居つたのですか、大本の重要事項は……。
答 重要事項と云ふのは……。
問 大本に於ては其の重要な事項がありませう、其の重要事項はどう云ふ手続に依つて実行して居つたのか。
答 どう云ふ手続と云ふと……。
問 銘々にやつて居つたのですか。
答 それは最高幹部会、総務会に依つてやつて居つたのです。総務会とか最高幹部会とか拵へてはやつて居つたのです。
問 最高幹部会とか総務会に掛けてやつて居つたのか。
答 さうです。
問 其の点に付ては三十七回の一問答に依ると、昭和神聖会はそんな総務会には掛けて居りませぬね、それは別な団体だから……。
答 大本のことは皆総務会に掛けて居りました。
問 三十七回の一問答に於て、最高幹部会とか、それから総務会に掛けて実行に移したる重要事項の詳細のことは覚えて居りますか。
答 そんなことは覚えて居りはしまへぬ。
 唯、大本の宗教を弘めるだけの為の会議ですから、それより外に変つたことは何もありやしまへぬ。
問 いやいや、いつ、どう云ふことを最高幹部会なり、或は総務会に掛けて、それを承認して実行に移したかと云ふことの一々を覚えて居りますか、と云ふことです。
答 それは、一々覚えて居りまへぬ。書いたものを見まへぬと……
 其の綜合日誌とか何かに書いてあるやらうと思ひますけれども。さう一々覚えて居れるものぢやありまへぬ。
問 成る程ね。
答 ちよつと五分間程、どうも頭がをかしうございますので休まして下さい。
問 ちよつと腰を掛けて休みなさい。
 それぢや、五分間、ちよつと休憩します。
午前十時十五分休憩
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